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水影、あるいは異世界への入り口

むかいの建物の最上階は長いこと空き部屋で、うちのバルコニーと向かい合った窓から、からっぽの部屋の中が見える。
階層としてはわたしの部屋よりひとつ上で、だから窓から確認できるのは白い壁と天井が主である。
空き部屋のある建物のとなりはまた別の集合住宅で、2階ほど背が低い。
その建物の屋上は絶妙な高さと位置にあるので、くだんの空き部屋からつながっているように見える。その部屋専用のテラスのように。
しかし当然、空き部屋のある建物ととなりの建物はつながっていない。

”それ”をはじめて見たのは、去年の夏、うだるような暑さでベッドから溶け落ちるようにして起きた朝のことだった。

部屋に風を入れようと、カーテンと窓を開けたのだ。
不意に目の端に、ゆらゆら揺れるものが映った。
反射的に顔を向けた先に見えたのは、むかいの部屋の天井いっぱいに広がる、大きな水影だった。
角のまるい鱗のような模様が、いくつもより集まってゆらゆらしている。
水影の輪郭は白色で、空き部屋は壁と天井もおそらく白なのだけど照明がついておらず薄暗いので、発光する鱗模様がくっきりと見える。

まったく思いがけないものを見たので、しばしぽかんとしてしまった。

日光が水面にあたって乱反射しているというのは、見てすぐ分かった。
学校のプールとか、水族館とか、橋の橋脚とか、そういう場所で見かけたことがあるから。
でもそれは建物の上の階で、誰も住んでいない部屋の天井に現れたのだ。
一体なぜそんなものがこんなところにあるのだろう?
一瞬、空き部屋の床が水没しているのでは?と、疑ってしまった。
上の階から水漏れがあったとか、台所の水道管が破裂したとか…
でもよくよく観察してみる(よその家をじろじろ見るなという話ですが、なにせ空き部屋なのでご容赦ください)と、空き部屋の奥にはもうひとつ窓があった。その窓はとなりの建物の屋上に向いているのだ。
天井に映り込む水影の角度を見るに、おそらくその窓から差し込んでいるようだった。
どうやら、隣接する屋上に水たまりがあって、そこに反射した光が、カーテンもなにもない空き部屋の天井に映し出されているらしい。

ははあ、なるほど。
確証はないものの、なるほど、である。
タネが分かれば不思議でもなんでもないことだ。
しかし、見れば見るほどそれは美しく不思議な光景だった。
家具も人気もない部屋の壁と天井に、まったく場違いに揺れ動く水影。
朝から30度を超す真夏のさなか、空き部屋の様子はひたすら涼しげだ。
夜明け前から鳴いているセミの合唱も、空き部屋の中には届いていないように感じた。
音も熱も、なにもかも吸い込まれてしまいそうな静けさ。
あの窓ガラスの内側は、もしかして水中なのかもしれない。
部屋が水中なのだから、そりゃあずっと空き部屋のままなわけだ。

そんなことを考えながら、暑さに打ちのめされ、自分の部屋に引っ込んでエアコンをつけるのだった。

今も、むかいは空き部屋のままだ。
季節が変わったためか、もう長いことあの水影を見ていない。
もう一度、真夏にあの水影を見られるまで、むかいが空き部屋であってくれるといいなと、ひそかに願っている。

ちなみに、水と光が好きなひとで「摺子発電所跡」を知らないひとは、ぜひ検索してみてほしい。
何年か前、どこかの廃墟写真展で見て以来、いつかぜひ行ってみたいと思っている美しい場所だ。


では、また。

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