見出し画像

家が好きすぎて家にいられない話

家が好きだ。
自分が一番快適なように調えているのだから当然だが、ものすごく居心地がいい。
パソコン横にはメモ用のノートを広げられるスペースが確保されているし、照明器具やエアコンのリモコン置き場も、デスクの邪魔にならない位置かつ、わたしの腕がすっと届く位置に決まっている。
爪切りや修正液やマスキングテープや乾電池やUSBメモリも所定のレタケに入っており、家計簿をつけたあとのレシートを一定期間留めておける引き出しもある。
ソファー周りには読みかけの本を積んでおく場所があって、寝そべって読書したりスマホで動画を観たりして、くつろぐころができる。
テーブルの上は基本なにも置かないが、散らかす時にはテーブルの上を中心に散らかすと決めている。そこだけ片づければすむからだ。

秩序だっているなあと我ながら思う。
それが自分にとって一番快適なのだなと、部屋を見回してしみじみする。

でだ。
それにも関わらず、というか、だからこそ、というか。
部屋にいるとやるべきことに集中できないのだ。
特にnoteの文章を考えたりするのは、家にいるとどうにもうまくいかない。
あまりにも、まったりゆったりリラックスしてしまう。
そうでなければ、こんな時間に家にいていいのか…という得体の知れない後ろめたさにソワソワしてしまい、いずれにせよまったく集中できない。

仕方がないので、昼間はできるだけ外に出るようにしている。
行先はパソコン持ち込み可の閲覧席がある図書館か、駅前の喫茶店だ。
ある程度ひとの立てる雑音があるほうが手元に没入できるので、一番いいのは喫茶店だったりする。
他人が食器をカチャカチャいわせてたり、賑やかに会話していたりする中にいると集中が阻害されそうなものだが、よっぽど大声で騒いでいるひとがいない限り、むしろちょうどいいと感じる。

妙な話だ。
丸いカフェテーブルはコーヒーカップの横にノートパソコンを広げるには小さすぎるし、窓際のカウンター席は隣と近くて気を遣う。
なんらかの資料を確認したいと思っても、もって来てなければ見ることはできない。自分の家じゃないから。
コーヒー一杯で何時間も居座るわけにいかないから、2時間くらいで出ていくようにしているが、2時間という制約もなんとなく集中力の発揮にひと役買ってくれているように思う。
いずれにせよ、自分ちじゃないから帰らなければならない。
2時間ほどなにかするために、わざわざやって来て、わざわざ帰るのだ。
自宅にいれば、そんな手間も、そのための時間もかからないですむのに。

たいてい、チェーン展開の喫茶店にありがちなBGMが鳴っている。
誰とも知らないひと達がたてる会話や足音や物音が、ざわざわという雰囲気となって店内に満ちている。
コーヒーの匂いだけではなく、サンドイッチやパスタやチョコレートの匂いがすることがある。誰かのコートについたタバコの臭いなんかも。
知らない誰かがなにかしているのが視界の端に映り、読んでいる参考書の題字が目につく。
同じように、誰かの視界に自分のパソコン画面が見えてやしないかと心配になる瞬間もある(ので、視界遮断シートを買って画面に貼っている)。
実際、それは全然快適とはいえないと思う。
わたしが自分のために作った鉄壁の秩序も快適さも、当然そこにはない。
でも、なんだかそれがいいのだ。
大勢の人間がひとつところに集まって、一定の秩序を保って一定のカオスを形成している場所。
ひとが生きて動いている気配と、絶妙な不便さ。

そこから帰る場所があるというのもポイントなのかもしれない。
ざわざわした場所にいっときでも落ち着いて座っていられるのは、安全地帯としての家があるからだ。

こんなご時世であるから、外出しなくてすむならしないほうがいいだろう。
しかしわたしはやっぱり今日もマスクをして出かけてしまう。
大好きな家からわざわざ出てしまう。
自分以外の誰かがいて、秩序と混沌でざわざわしている場所へ。
そうして外出から帰ってきて、毎度思うのだ。
ああ、おうちが一番いい。と。


では、また。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?