【論考 #1】マイノリティ・裸・高速であること ―横乗りという生―

2022年2月11日、北京。COVID-19の影響で延期された東京オリンピックは、僅か半年前。その東京オリンピックにスケートボードで出場した平野歩夢は、スノーボードでハーフパイプを快走して―それも、競技上は不利な革のシューズで(1)―金メダルを獲得した。

スノーボードは、サーフィン・スケートボードと同じく「横乗り文化」として纏められるスポーツである。これらのスポーツは、その他のスポーツとは違った特徴を持つ。それは、勝つことではなくライドそれ自体が称揚されて価値となる、資本主義的ではないスポーツであるということである。
資本主義的とは、ここでは、競争的である、ということである。確かに、「横乗り文化」は昨今、オリンピックの競技となっていることから、資本主義に組み込まれているのではないかという批判は妥当である。しかし、オリンピックの中においても、主観がおおいに反映される採点で雌雄を決すというレギュレーションになっている点は、その採点がどれだけ客観性を保つように仕組まれているとはいえ、これらのスポーツが元来資本主義的ではない、カッコいいライド自体に価値を置いているスポーツであることを明確に示している。

そして、寧ろ、これらのスポーツが無理矢理にでも資本主義に組み込まれたことによって、資本主義での勝利と、資本主義からの逃走という、一見相反する二つの態度の両立を実現する競技者を、そして、その競技者の姿に示唆を、みることができるようになったのではないか。
例えば、冒頭で示した通り、平野歩夢の勝利は、当然の如く競技での勝利ではあるが、同時にカッコよさを追及した革靴という、競技性からの逃走を同時に行っている。また、逆に、2回目の滑走で採点者の主観により思うように点数が伸びなかった際の憮然とした表情と、それを乗り越えた3回目の滑走は、ただ単に資本主義から逃げるだけではなく、同時にそれを乗り越える強さ、資本主義的強さを持っていた。

これらの、本来相克する2つのもの、つまり、秩序的なものと自然的なものを、ツリーとリゾームを、条理空間と平滑空間を、己の生の中に存立させる、その態度は、例外なく資本主義社会に組み込まれている我々の生に対して示唆を与える。圧倒的な資本主義に於ける勝利への志向とその無化への志向の両立。


昨今、巷では資本主義の終焉が叫ばれるが、提示されるオルタナティブは再度資本主義に組み込まれるのみである。例えば、サステナブルやダイバーシティといったタームが人口に膾炙するようになった。これらは、利益を求め加速する企業経営にブレーキをかけ、また、白人男性至上主義的エリートイズムに一石を投じる形で、一見資本主義に対してのカウンターを突きつけているようにみえる。但し一方で、それらのルールをうまく適応したプレイヤーの資本市場での評価を高めるといった意味で、資本主義的なのである。

個人の生き方・考え方といったミクロの視点でみると、昨今、アートや哲学を学ぶことのビジネス領域における重要性が喧伝されている。これらの領域が注目されるのは、どこまでも加速する資本主義に対するアンチテーゼとして、割り切れないもの、解のないものを重要視する、という文脈によるものである。しかし、それを知識として獲得しようという態度、そのアート的でも哲学的でもない態度は、結局は資本主義的である。アートを学ぶなら、哲学を学ぶなら、資本主義からそれらを切り出すことである。結果として資本主義にそれらが接続されることを理解した上で、逃がしていくことである。ビジネスの文脈にアートや哲学を引き摺り込むのではない。

つまるところ、マクロでみても、ミクロでみても、我々は、何か資本主義に対してオルタナティブを突きつけることは能わず、加速主義が示す通り、資本主義は自らが瓦解するまでその速度を止めることはないし、それは防ぐことはできない。資本主義が全てを覆いつくした世界において、資本主義に突きつけるカウンター的な取り組みは、先述の通り全て資本主義に接続されるのみであり、結局資本主義は止まらないのだ。

その中でひとつの希望となり得るのは、スノーボーダー達がみせるような、勝負の世界を生きながらもそこから逃走していく姿である。つまり、資本主義を加速させながら、その最中に於いて自らを外へと逃がしていく動きである。この態度のみが、ミクロでみれば、資本主義社会に摩耗されない生き方を扶けるし、マクロでみれば、資本主義が瓦解した後の社会に残るものを作りあげる。


フランスのポスト構造主義哲学者―本人はこうカテゴライズされるのを嫌っていたと言うが―、ジル・ドゥルーズは、以下の通り「横乗り文化」を評している。

新しいスポーツ(波乗り、ウィンドサーフィン、ハングライダーなど)は、すべて、もとからあった波に同化していくタイプのスポーツなのです。出発点としての起源はすたれ、いかにして軌道に乗るかということが問題になってくるのです。高波や上昇気流の柱が織りなす運動に受け入れてもらうにはどうしたらいいか、筋力の起源となるのではなく、「ただなかに達する」にはどうしたらいいか?これがもっとも重要な問題になったのです

ジル・ドゥルーズ(1996)『記号と事件:1972-1990年の対話』河出書房新社

ドゥルーズの喝破した通り、多くのスポーツが、競技者が運動の源泉である、主意的なものであるのに対し、スノーボードを含む新しいスポーツは、自然に身をさらす、世界に対して受け身なスポーツである。
これこそが、「横乗り文化」の担い手の態度である。つまり、「横乗り文化」の担い手は、世界に「乗る」。主意的に世界を征服するのでもなく、されるがままに流されるのでもなく、迫りくる世界の只中において自らを晒して「乗る」。
この「乗る」ということ、否、うまく「乗る」ことこそが、資本主義に接続されながらもそこから逃れていくことができる、唯一の生き方である。

当然、うまく「乗る」ためには、準備が必要である。雪に、アスファルトに、海に、身を打ち付けながら、つまり、トレーニングをつむことで、「横乗り文化」の担い手は準備をする。只管、回数を重ねるのではなく、その積み重ねから学び、また時には自身を外部化し、秩序付けることで学ぶ。平野歩夢が真面目な学生であり、自身のライドをテーマに卒業研究を行ったこと、そのことこそ、「乗る」ための準備である(2)。

それでは、世界という海に自らを開き、その海から迫りくる問いにうまく「乗る」ことができる人間の要件は何か。つまり、我々はどのような態度をもって、準備をするか。それは、マイノリティであること、裸であること、高速であること、である。


マイノリティであるとは、ドゥルーズが喝破したように数的な問題ではなく、志向の問題である。ドゥルーズは以下のように書いている。

マイノリティも また、マジョリティとの関係において規定される集合であることをやめなければならない。(中略)女性は女性へと生成変化しなければならないが、この生成変化は人間=男性全体が女性へと生成変化するなかででなされなければならない

ジル・ドゥルーズ,フェリックス・ガタリ(1994)『千のプラトー 資本主義と分裂症』河出書房新社

Not Aによって規定される、マジョリティに寄生したマイノリティになるのではなく、それ自身においてマイノリティとなること。それによって、合流するマジョリティをマイノリティ化させること。それが、マイノリティであるということである。
しかし、現代において、マイノリティであることは特に難しくなっている。個人の間隙に、SNSから情報が流入し、知らず知らずのうちに尤もらしい意見が自分の中に形成される。その意見がマイノリティ的なものであったとしても、それはマジョリティへのカウンター、つまり、マジョリティーに寄生したものが殆どである。
そんな現代において、マイノリティであることを実現しているのが、ギャルである。ギャルマインドとは、「マジョリティーに流されない強さ」であり、それを実現する要素が「自分軸・直観性・ポジティブ思考」であると、CGOドットコム総長のバブリーは語っている(3)。マジョリティに対抗する訳ではなく、流されないこと。それこそが、マイノリティである。

マイノリティになるためには、いかにして孤独になるかが重要な問題になる。ドゥルーズは以下のように語る。

自分の孤独を見据えないと、何も成し遂げることができない

ジル・ドゥルーズ(2015)『ジル・ドゥルーズのアベセデール<DVD>』角川学芸出版

これは、外部との関係性を遮断して、引きこもれという訳ではない。志向の問題である。孤独に世界に向かうことができるか。直観し、内省できるか。その作業を可能な限り雑音を入れずに行えるか。即ち、ギャルマインドでいうところの、自分軸・直観性・ポジティブ思考―ポジティブであるということと、不感性であることは大きく異なる。ポジティブとは、後述するような、世界に対峙するタフネスのことである―を引き出せるか。そこで出てくるのが、裸であることの重要性である。


裸であるとは、膜を張らないことである。作り上げた膜を破ることである。膜、言い換えるならば、言い訳だ。膜、つまり言い訳は、自分を守るためのものである。変化しないように、そして、それが仕方ないものであるように仕組むもの、それが膜である。

なお、膜には、潜在的な言い訳も含まれる。顕在化している言い訳は分かりやすい。他人に対して吐く言い訳、自分の中で思う言い訳。これらは自己を認識しているという点で、顕在化している言い訳である。しかし、中には、自分では言い訳と認識していない膜もある。例えば、金曜の夜にくだを巻くサラリーマンの口からでる会社の愚痴。こういったものは、本人は正しいことを言っていると考えているが、その愚痴が正である限りにおいて自身が守られる、といった意味で膜である。ドゥルーズが、

裁きによってではなく、あいだにおける―闘いによって、人は成長するのであり、すべて善きものは闘いから生じてくる

ジル・ドゥルーズ(2002)『批評と臨床』河出書房新社

と語る通り、裁く対象を受け入れ―そのためには膜があってはならない―孤独な闘争を発生させることが重要だ。

膜のはがし方を描いた漫画が『ブルーピリオド』だ。主人公の矢口八虎が

好きなものを好きっていうって怖いんだな

矢口八虎 (4)

と言うが、これは膜が消えた人間の典型的な感情である。好きでなければ結果が出なくても納得できるし、好きであったとしても半端なレベルで何らかの言い訳―例えば、本当ならもっとできる、とか、機会が悪かった、とか―をしておけば、自分が好きだけれども結果が出ないことに傷つかずにすむ。そんな中で、膜をはがし、世界に裸で向かったのが、矢口八虎であった。

当然、膜は孤独に世界に向かう際の雑音になる。膜は正しく世界を見せることを阻む。インターネットから、友人から、提示された情報が膜となることもあるのだ。それでは、どの膜をどうはがすか。それは自分に仕様がないことを認めることである。例えば、矢口八虎は、自分の能力の不足を認めていたからこそ怖さを抱いたのだ。
また、AbemaTVでお笑い芸人のEXIT・りんたろー。は以下のように語っている。

自分が意見をないということを認めることによって聞こえてきた自分の声を大事にしてあげることって大事なんじゃないか

りんたろー。 (5)

これは正しく、自分に仕様がないことを認めることによって膜をはがすということである。

膜をはがし、世界に対峙し、絶望すること。そして、その絶望に立ち向かうこと―これがポジティブであるということだ―で、初めて生が顕現する。その生を躍動させるために必要なこと、それは、高速であることだ。


高速であることとは、自身を一瞬に縮約し、それを継続することである。つまり、絶え間なく絶望を繰り返し、それに立ち向かうこと。学び続けること。マイノリティであることと、裸であることを、一瞬たりとも辞めないこと。
ドゥルーズは、

持続とは自己に対して差異化していくものである

ジル・ドゥルーズ(2003)『無人島 1953-1968』河出書房新書

と言っている。先刻の自分を認めると、正とすると、それは膜となる。つまり、一瞬たりとも自分を正としないことが、そうすることで自らのうちに差異を作り続けることが、常に裸でいるためには必要になる。

高速であることの好例が、アメリカのラッパー、ケンドリック・ラマーである。ラッパーのイメージーアンチ・体制的なイメージーと対照的に、ケンドリック・ラマーがラッパーを目指した契機となったのは、学校での詩の授業である。そして、これもラッパーのイメージとは反対に、勉強熱心で、蔭でコービー・ブライアントのような努力を重ねていた。孤独に、そして言い訳をせず、ラップに向き合ったケンドリック・ラマー。そのストイックさが、自分をアップデートし続けることが、高速であることが、ケンドリック・ラマーをスターダムに押し上げたのだ(4)。


マイノリティであること。裸であること。高速であること。そうすることによって、我々は生にうまく「乗る」ための準備ができる。「横乗り文化」の担い手たちは、その勝者たちは、資本主義を闘いながらそこから逃げ続ける者たちは、確かにそれらの条件を満たしている。

板の上の一身で世界に向かうこと、それは正しくマイノリティである。遠い海で、山で、自然に対し孤独であること。
自分のライドをすること、それは正しく裸である。言い訳のしようがなく、何にも守られていない身で、環境と対峙し、立ち向かうこと。
繰り返し、繰り返し、ひとつのライドに極度の集中力を持つこと。それは正しく高速である。その一瞬に、見えるるもの、聞こえるもの、肌をなでるもの、言表できないもの、それらを自身に縮約し、繰り返すことによって進化すること。

しかし、これらは準備に過ぎない。人間が、個人ができることは、ただ準備することのみである。人間が非連続的な飛躍を遂げることはない。マイノリティであり、裸であり、高速であることで準備をすることしかできない。
資本主義の駒としての進む道をプランニングする訳ではない。かといって、無気力に、頽廃的に生きる訳でもない。資本主義の世界に「乗る」中でも、自分を消耗させないためにできること、それがこれらの準備、ただ準備なのだ。

資本主義の只中に身を置きながらも、そこから自分を逃がしていく、そのための準備さえすれば、あとは迫りくる世界を待って、うまく「乗る」だけである。


Reference
(1)スポーツ報知『スノボ平野歩夢、異例の革製ブーツで金取りだ…「犠牲払ってもカッコイイものを」哲学貫く』2022.2.10(2022.05.16閲覧)
(2)日刊スポーツ「【スノボハーフパイプ】平野歩夢 卒業研究で自らの滑り分析 教授も「哲学を持っている」と感心」2022.2.12(2022.05.16閲覧)
(3)AbemaTV「【救世主】ギャルが堅苦しい会議を変える?日本の閉塞感を打ち破る?打首獄門同好会63歳現役ギャルと討論|#アベプラ」2022.05.14(2022.05.16閲覧)
(4)山口つばさ(2017)『ブルー・ピリオド 1』講談社
(5)AbemaTV「【制脳権】それってあなたの意見?不安感から煽られる?「自分の意見がなくても大丈夫」EXITと考える情報との距離感|#アベプラ」2022.04.29(2022.05.16閲覧)
(6)マーカス・J. ムーア(2021)『バタフライ・エフェクト: ケンドリック・ラマー伝』河出書房新社

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