見出し画像

【ピリカ文庫】短編小説|絵日記は呼んでいる

「おとーさん、宿題みてー。これで大丈夫かな」

 8月31日。リビングで脚立に乗って作業をしていたら、娘が駆け寄って来た。後にしてほしいと言うも、今じゃなきゃダメだと駄々をこねる。そういえば明日から新学期だ。手には夏休みの宿題の絵日記。仕方なく脚立を降りると、受け取って表紙をめくる。最初のページには娘と俺と妻の3人が食卓を囲み、素麵を食べる光景が描かれていた。

『7がつ21にち。きょうからなつやすみ。きょうはお昼ごはんにそうめんをたべました。お父さんはつゆにたべるらーゆをいれるのがすきです。なつやすみにかぞくでおでかけするのがたのしみです』

 拙いながらも3人がしっかりと描き分けられ、構成もわかりやすい。やっぱりお前は絵がうまいなと褒めると、こぼれるような笑みを見せる娘。だがすぐに褒めたことを後悔した。ページをめくっていくと、大量の空き缶に囲まれ大の字になって眠る俺の姿が描かれていた。

『7がつ26にち。お父さんはきょうもあさからおさけをのんでいます。お母さんがもうやめたほうがいいといっても、おこってのむのをやめません。お母さんはお父さんがちょっとまえにしごとをくびになったといっていました。なん本もなん本ものんでいます。とてもくさいです』

 誇張されすぎだ。こんなには飲んでいない。それに、俺のことを過小評価し不当に扱ったあの会社はこっちから辞めてやったのであって、断じてクビではない。この絵日記を担任に見られたらと思うと気が滅入ってしまう。思わず顔を上げて鋭い視線を向けてしまうが、笑顔のままの娘に喉元まで出かかった言葉は引っ込む。仕方がない、後で何か言われたらしっかりと誤解を解こう。

『7がつ29にち。きょうはお父さんとお母さんとすいぞくかんに行くはずだったのに、ふたりがけんかをして行けませんでした。お母さんはないてしまい、お父さんはまたおさけをのんでいました。わたしはへやでずかんをよみました』

 シャチの背に乗る娘は笑顔で描かれ、その両脇には酒を飲む俺と泣いている妻。確かに喧嘩はしたが、水族館に行かなかった理由はそれだけではない。夏休みの水族館なんて混んでいるに決まっているし、疲れるだけじゃないか。

『8がつ11にち。お母さんがどこかにでかけました。行くまえに、ごめんね、ごめんねとわたしにないてあやまりました。よるになってもかえってこなくて、お父さんにりゆうをきいてもおしえてくれませんでした』

 描かれているのは、玄関で扉の前に立つ妻の背中。わざわざこんな風に絵日記にするような出来事ではないだろう。どうせその内帰ってくる。だいたい、あいつは一体俺の何が気に食わないのか。酒を飲むのはお互い様じゃないか。それに次の仕事だって探せばすぐに見つかる。まだタイミングじゃないだけだ。

『8がつ18にち。お父さんにおこられました。お母さんのことをなんどもきくと、しつこいってどなられました。お父さんはずっとおさけをのんでいて、あそんでくれません。へやに行けといわれてはいったら、とびらがあかなくなりました』

 鬼のような形相に大きな体をした俺と、その前で小さくなってしまった娘が描かれている。あの日の娘は本当にしつこかった。あいつがどこに行ったのか、いつ帰ってくるのか、聞かれたところで俺だって知りやしない。ほんのお仕置きのつもりだった。子供部屋に閉じ込めたのは事実だか、その時は大人しくなればすぐに出してやるつもりだった。本当だ。俺はただ静かに、1人にしてほしかっただけなんだ。

『8がつ20にち。まだへやから出られません。おなかがすきました。のどがかわきました。へやはとってもあついです。お母さんにあいたいです。どこにいっちゃったんだろう。お父さんごめんなさい。ごめんなさい』

 それが最後のページで、絵は描かれていなかった。絵日記を閉じて顔を上げると、先程までそこにいたはずの娘の姿が無い。名前を呼んでも返事が無いので子供部屋に向かうと、その扉のドアノブは幾重にも巻かれたダクトテープで硬く固定され、回らなくなっていた。隙間から這い出る腐臭が鼻腔を突き、俺は両手で顔を覆う。

 ごめん、ごめんな。俺は本当にどうしようもない。だって、仕事を忘れ、妻のことを忘れ、娘のことも忘れて、それでも今日まで酒を飲み続ける時間が何よりも幸せだった。だから、ごめん。それだけだ。

 リビングに戻ると俺は再び脚立に上った。天井から吊るす途中だった縄をしっかりと固定し、作った輪を首に掛ける。もう酒は飲み尽くしてしまったから、ここまで。娘の絵日記を抱きかかえて、俺は脚立を思い切り蹴飛ばした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?