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短編小説|私にないもの

 私はその上司が大嫌い。

 やる事なす事とにかく薄っぺらくて、人として何一つ尊敬できない。それに清潔感もない。

 だから今日、2人で外出すると決まって私は絶望した。営業先へ向かおうと彼の運転する車に乗り込むと、すぐに自慢話と酷い体臭に苛まれた。

「ハワイに行ったことある? 本当によかったよ。綺麗な海に息子も見たことないぐらいはしゃいでてさ。やっぱり、子供は小さい頃からできるだけ海外に連れて行った方がいいと思うよ、俺は。帰って来てからあいつの目の色が変わったもん」

 真っ黒に日焼けした彼は先日、有休を使って家族とハワイ旅行に行ったそう。割と心底どうでもいいし、臭すぎる。5分が1時間にも思えるほどの苦痛に冷や汗が止まらない。

「君もそろそろ結婚しないと。子供を海外旅行に連れていくのって結構体力使うからさ。あんまり出産が遅れちゃうと大変だよ。今って彼氏いないんだっけ?」

 早々に我慢の限界が来てしまった。私は彼を睨み付け、思わず言ってしまう。会社中でハワイ旅行を自慢しているが、有休期間中にコソコソと日焼けサロンから出てくる姿を目撃されていること。旅行もなにも、家族にはとっくに逃げられてしまったことは周知であること。見栄っ張りがゆえに、家族とハワイ旅行に行ったなどという虚言を吐いているのはバレバレなこと。

 饒舌だった上司は途端に黙ってしまう。ハンドルを固く握りしめ、鼻息が荒い。怖くなった私は窓の外に視線をやり、言ってしまったことを後悔する。しかしそれも一瞬のこと。もう止まらない。この際だ、ぶちまけてしまえ。私は窓の外を見たまま、堰を切ったかのようにしゃべり続けた。

 女性新入社員に色目を使い、気持ちが悪いと彼女らに相談を受けていること。ドブ水でうがいしているのかってぐらいに口臭が壊滅的なこと。常にワイシャツの首元と袖口がグロテスクなまでに黄ばんでいること。「頼りになる上司」ぶって部下の仕事を手伝おうとするも、何から何まで雑なせいで逆に負担になっていること。

 まだまだ言いたいことはあったけれど、息が切れてしまった。おそるおそる視線を戻してみると、カッと目を見開いて口をもごもごさせる彼。相変わらず鼻息は荒く、遂には鼻血が滴っている。尋常でない様に気でも違ったかと思うと、急に叫び出した。

「わかったよ! ハワイに行きゃあいいんだろ、ハワイに!」

 この流れでどうしてその結論に至るのかまったく理解できない。彼はハンドルを思いっきり切ると、目的地とは別の方向へ車を走らせた。



 やがて辿り着いたのは海。車を降りた彼は砂浜を駆け抜け、まっすぐに大海原へとダイブした。

「ダイヤモンドヘッド! マカダミアナッツ! アラモアナ! 海外留学!
 固定資産税! 食事1.5大人3! 養育費! 泌尿器科!」

 海は荒れていた。沖に出ようと押し寄せる波に懸命に抗う彼は、呪文のように大声で単語を唱える。どうやら泳いでハワイに向かうつもりらしい。この時、砂浜に立って茫然とする私は思った。その突飛なまでの行動力が心底羨ましい。彼に抱く初めての感情だった。

 やがて波に飲まれて姿が見えなくなった上司。私には無いその一面をもっと早く知りたかった。いや、知っていたのに見えないふりをしていた。

 私たちの仕事を率先して手伝おうとしてくれたじゃないか。お風呂や歯磨きも忘れ、家族に逃げ出されても仕事に没頭していたじゃないか。新入社員にセクハラまがいのことをしていたのも、欲望に忠実が故じゃないか。忌み嫌い、自ら近づこうとしなかった日々を今さら後悔してしまう。

 悪気はありませんでしたが、失礼な言動をお許しください。大変申し訳ありませんでした。もしまた会えたなら、あなたから学ばせてください。あなたは私にないものをお持ちです。だから、無事ハワイに辿り着くことを祈っています。どうかお元気で。

 ちなみにここは日本海だ。

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