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短編小説|雲を吹く

 街クジラに呑まれてしまった。巨大な口から逃れる術はなく、気が付けば暗闇の中。何も見えず、ぬめりとした体液の感触と異臭に気が滅入っていると、目の前に明かりが点った。

「あんたも吞まれちまったのかい」

 声の主は懐中電灯を手にする作業着姿の男。明かりに照らされた私とその男は、互いに全身が粘性の体液にまみれていた。話を聞けば、彼はビルの工事現場で働く内に吞まれてしまったそう。私も同様だ。ビルの屋上からロープで吊られる窓清掃の仕事をしていたら、突如として現れた街クジラ。その巨体が高層ビル群の合間をゆったりと泳ぎながら近づいてくるのに見蕩れていると、私に向かって大きく口を開いた。

「こりゃあ胃液だな。このままだと溶けちまう」

 現在、我々は胃袋にいるらしい。ドームのような形状で懐中電灯の明かりが行き届かないほどの広さの中、膝あたりの高さまで胃液で満ちていた。我々の全身にまとわりついているのもそれらしい。周囲には人骨のようなものも散見される。世界各地の都市に現れる街クジラのせいで度々犠牲者が出ていると聞いてはいたが、まさか自分がこうなろうとは。一人身だし、特に思い残すようなことも無い。それでも、いざ死が目前に迫るとなかなかに受け入れ難い。

「大丈夫、まだ助かる。いいか、街クジラは潮じゃなくて雲を吹くだろう。うまいことタイミングが合えば雲と一緒に吹き出されて外に出られるかもしれん。それで助かったって話を聞いたことがある」

 男の話はにわかには信じがたいが、その力強い語り口には説得力があった。それに、もう他にどうしようもない。このまま緩やかに溶けていくぐらいなら、何でもしよう。

「よし、じゃあ俺たちで雲を作るぞ。そうすりゃすぐに吹き出す。これを吸え、ばかすか吸え」

 差し出されたのはタバコ。煙と雲は違うだろうと言いたくなるも、ここは飲み込んで受け取る。それから2人で続けざまに何本もタバコを吸うと、徐々に胃袋の中が煙で充満していく。普段は喫煙しない私の肺には苦しいばかりであったが、足元が地震のように大きく揺らぎ始めた。胃袋が痙攣を起こしている。

「おお、くるぞくるぞ。雲を吹くぞ。しっかりつかまれ!」

 いったい何につかまればいいのだと考えあぐねていると、大きな衝撃と共に再び目の前が真っ暗になった。



 結局、街クジラは雲を吹かずに死んでしまった。死因は重度の急性ニコチン中毒。体内で大量に喫煙されたせいで内臓が侵されたのだ。死んだ街クジラはいくつものビルをなぎ倒しながら墜落し、都市は甚大な被害を被った。墜落の衝撃で裂けた腹から抜け出した我々は、救助されてすぐに大きなバッシングを浴びることとなった。

「命が助かっただけ良しとしようや。周りはごちゃごちゃ言ってくるけど、俺にはよくわかんねえや。残りの人生、おまけってことにして楽しむのさ」

 救助された後、共に入院した先で笑顔でそう語っていたあの作業着の男は、間もなく肺ガンで死んだ。もとから患っていたそうだ。一週間ほどで退院し、すぐに仕事に復帰した私は崩壊した街並みと遅々として片付かない街クジラの死体を背に高層ビルの窓を拭く。無事だったビルも多いので、今のところは仕事に事欠かない。おまけの人生とは何だろうか。楽しむも何も私にはこの仕事しかない。

 ふと手を止め、ロープで吊られたままタバコを加えて火を点ける。上を向けば広がる青空は、雲ひとつなく澄み渡っている。もう街クジラはいないから。そのまま静かに吹き出した紫煙はやはり雲にはならず、ゆっくりと空に溶けていった。


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