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言葉の種付け


僕にとって、日々のなかでの、あれしなきゃとかこれしなきゃとか考えることや、ツイートに流れる記事やニュース(の見出し、サムネ)や人々の意見を見た時に沸き起こる、脊髄反射してしまう脳内コメント。こういったものは思考と呼ばない呼びたくもない、リトマス試験紙みたいにニュースのたびに自分に何色の反応があるか程度でしかなく、こんなものは熟成させる気のまったくないイーストを入れ忘れた小麦粉と水の塊でしかない。

僕の言葉が生まれるところは、ほんの隙間、束の間の脱力、一瞬の忘我、我を忘れた時に入ってくる隙間風。それはほんとうにちょっとした隙間なんだ、その隙間が1日のちょっとした時にあったり、ない時には数ヶ月に一瞬だったりする、でもその隙間がない時間も僕は生きている、多分考える隙もないほど色々なことをやっていたり、それに疲れてぼーっとしたり、ぼーっともうまく自立してぼーっとを享受する時間ではなくって、ツイートを縦になぞるだけの集中力しかないような、自堕落なぼーっとに覆い尽くされてる時もある。

言葉のない世界、僕にとって脊髄が反射したり反応したりするだけのそんな日々は言葉のない世界だ、情報の渦の中に巻き込まれて情報が入っては出ていく空箱でしかないような自我。

言葉とは不思議なものでこういった、言葉の光が差し込む一瞬の束の間や、言葉がない世界という言葉も、こんな風に書いてみた言葉によって出現し、それによって僕の中でも、書いてみたものを読んでみて「たしかに」とこれらが認識の住民登録をする。

ドゥルーズは概念(コンセプト)とは妊娠(コンセプション)だといってた気がするが、光が差し込む束の間の中で僕は受精している、書くまでの期間に色々な妊娠にまつわるプロセスが僕の中でおこなわれているのだ。

それは、出さなければいけない、出産しないと懐胎された言葉のアミノ酸たちは概念というカタチの中でタンパク連合国を作る事なく解きほぐれ、尿と一緒に排泄されてしまうだけだ。

日々は流れるというが、僕たちが排泄しているからだ、昔の飛行機は乗客の排泄物を撒き散らしながら澄んだ青空を滑空していたらしいが、とある宇宙人から見たらその飛行機は機内に飼う人々の排泄物をエネルギーに前進しているように見えたかもしれないように、僕たちが概念として掴んで確かなものとして胸に収納することを考えず、尿になって垂れ流す情報やコンセプトの数々。コメンテーターは持論に引き寄せ断定のピリオドで一旦問題をパッキングして放置する、そして次のニュースです。なんていう言説があるからこそ時は流れる、時代はマスコミ的なものが吐き出す排泄物によって進行していくように見えているだけかもしれない。

我が事として肉体の一部の成員に加えて共に呼吸するには、他人事が多すぎる。

この自我というイースト菌はそう多くはなく、材料が多すぎてはとても発酵が追いつかないのだ。材料はみんながみんな手に余るほど持っている、時間と発酵は僕らの排泄のスピードに垂れ流されてしまう。

このテキストはどうだろう、大洋が世界の中心に向かって墜落していく、広大な排泄の中で係留するブイになれるだろうか。
立ち止まり、こだわる。こだわるとわだかまりができる、そして概念は組成されていく、着実に構築、建築する作業で自分の反応器官をもう一度作り直すこと、国家を立て直すよりはるか手前でこれらの作業が必要なのだ。

朝の現場へと向かう道の途中で大雨になって道中のマクドで朝マック、今日はホットコーヒーでゆっくりと店内に優しく降り積もる曇天の光を見つめる、店内の乾いたポテトの揚がりましたの音と、ポップな音楽の中で、僕は自分の座標を確認する。Googleマップの自分の矢印ボタンをタップすると自分の場所に移動するように、、

こんな時間が必要なんだ、ここはどこなのか?ここがどこかという問いの答えは多分数秒で導き出せるだろう、でもここが我が人生のどの地点なのかという問いは多分3時間以上露天風呂でぼーっとしないと辿り着かないだろう、でも僕の人生の活力はまさにそのたった3時間の中で全て与えられたものだ。

時に排泄されながら我が身に流入してくる情報をまた排泄するだけの日々の中で、ぐっとこらえて数秒でも立ち止まること、サボったのならサボった時間を自分の座標をタップすることに費やすことだ、そこではじまる一文に時間という水を与え発酵させる、読書からは色々な作家たちの発酵プロセスを学ぶことができる。

作者が何に拘泥し、そこに組成を生み出し、一群のタンパク質になってこの世に出産したコンセプトとそのアーカイブを読書によって追うことができる、これは素晴らしい、見えないものの全てを見渡せるほどに赤裸々だ。書かれたものを読むということはほとんど不可能な、コンセプトの生産プロセスを読むということを可能にする。

これはこの肉体のプロセスにも重なる、僕たちもまた妊娠からやってきた一群のタンパク質というコンセプト(概念)なのだ、なんにせよコンセプトを読む事ができるとは、なんて恩恵だろう、この世でもっとも素晴らしいことが行われているであろう子宮の中のプロセスを読むことができるなんて。

立ち止まり深呼吸し光の配分をながめ日々の溜め込んだ自分の情報物たちがどんな反応をしているか耳をすませ、自分の中で今、生じつつあるコンセプトを少しだけ強引に実験的に地面であれメモアプリにであれ書き出してみる、ぴちぴちとした言葉のタンパク質が自分を含めた読み手を驚かせ活力を与える。

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