日の記憶
暑さにはそれなりに、じぶんのハウツー活かして乗りこなしている気はしていたのだけれど。知らない間に脳の芯のあたりに疲れが溜まっている、なんつーか判断力がすげぇボヤけてて車でもやらかしかけるし。先日の休日は、ずっと家で育児してる妻ちゃんの息抜きもしなきゃと思って弾丸でお泊まり、もう小5になったニィニは祖父母の家にお泊まりなので、4人でなんのあてもなく福山へ。そこの自動車時計博物館に行って、翌日は倉敷ぶらぶら危険なほどの暑さだったけど、なんとかこなして帰宅。
翌日からも山の出稼ぎ、この出稼ぎの日々も継続的にルーティンワークになれば良いのだけれど、それができない。仲間と作った合同会社での仕事が同時にあって、石油プラントの草刈りという途方もなくメンドクサイ仕事を仲間がとってきよった、これは受けない方が良い仕事だと思ったけど、やらないといけなくなっちまった。石油プラントはルールがえげつないほど多く、入構するだけでも講習を受けて試験をうけて許可証をとって、時間は決められていて、ラジオ体操や、刈った草はその日に片付けないといけなかったり、まぁめんどくさい、あとプラントはこの世のものとは思えない暑さで過酷だ。
全部を断るわけにもいかず週の半分はそっちにいって数日は山に入って独り作業。休日明けの昨日現場着いたら、あれ?スポンと体から力が抜けてまったく力入らない、林道の真ん中にマット敷いて寝転んで寝る15分ほど。うーんなぁんかダメだなぁとおもいつつ作業の準備を、刃をといで交換しようとボルトを締めようとしたらレンチがなめててぐっと力入れたときにカッと手がすべった、「あっ」と思ったら、ぽたたっと赤い点々が軽トラに走る、だぁあああ!プチぎれて叫ぶ、どうせ誰もいない。誰もいないメンドクサイ!だー!
右手中指の関節の上をズバッと横ざまに切って血がしばらく止まらない、痛みというか、すぐに先のことを考える思考が乱雑に降りしきるテトリスのジャンクヤードみたいにがちゃがちゃ音をたてて脳に重なる。「今日仕事できるんか?」「山降りるか?」「縫わなあかんか?」「どこの医者?」「とりあえず今処置しな」で。愕然とする。
俺は、俺というやつは、救急セットも持ってへんのか、なんで持ってへんねん、指一本かすっただけでこのあわてよう。ふだんせっせと用意して用意ばっかりで、出稼ぎ泊まり、仕事、ジム通い、用意ばっかしてたくせに、救急セット持ってないんか!!今止血することも消毒する術もない、その自分のアホさにほんとに絶望した。
なんでこの自体を想定してないのか訳がわからん、前はカバンに入れてたはず、知らない間になくなってた、こんなメンタルじゃだめだ、降りよう、かろうじてあったイオンのあやしくてうっとおしい水屋にもらったポケットティッシュがあったのでそれを指に巻いて握りながら降りる。
ってか軽トラのミッションに乗ってるけど、こんな怪我ぐらいでも運転しにくい、足でも切った際には、ミッション運転して下山。せめて電波あるところまでも退散することができるか。あぁこの6年くらいの間、愛するmixiもろくに書けない心身共に忙殺されていた中で、こんなに、自分のこと、1番大切な1番働かせないといけない自分のことを考える余裕もなかったのか。
指は動くし、ただ関節のとこなので手を握ったら切り口がパカパカする、縫わなあかんかなぁ、そや、入ったまんま忘れてたコープの保険も、たぶんジブラルタの保険も使えるな!いこ、思った、そうや、いつも通ってるフィッタのジムの隣整形外科やんか、ちょうど良いってことでそこに行った。
3針縫われて、術中も割と弱気になった、あたまではずっとこんな小さい傷で弱気になってどうするねん、足ばっさりやったり、多分いつかするのにと脳裏によぎる。
疲れと関係あるんだろうか、数日前も工期に追われて、現場最終日、クソ暑くて昼間ぶっ倒れそうになってた、何度も膝から地について呼吸を整えては茂る草木に向き合った、朦朧とする意識の中でふと考える、ここでちょっと意識失うだけで俺しぬんだろな。そう考えると背後からゾワっと恐怖が舞い上がり足元がフラフラと覚束なくなる、ぶん殴るべき敵もいない立脚すべき足場もない恐怖というものに囚われる。多分街中ではちょっと意識失うぐらいでは誰かが助けてくれるだろう、でもここは独り誰もいない山の中、独りでやり出して5年近くなるのにまだこんな気分になることもある、むしろなぜ今までやってこれたかというと、アホになってたからだ、意識をしない考えても変わらないから、とにかく現実を直視しないこと、そうじゃないとかんな仕事やってられない。
その日の午後、クソ暑かった現場が影ってほっとひと息つく間もなく土砂降りの雨に、そして雷だ、とおくでゴロゴロあぁもうすぐ現場終わるのに、もう少しだからやっちまおうと思った矢先、向いの山に雷落ちた、ガガーーン!すごい音に地響き、また背中が冷たくなる、多分数百メートル近くに落ちても何かくらうのではないか、しぬ。師匠の師匠は2度雷に打たれたことがある、なぜか生きてたけど。木々のない中独りいるこの場はまぁまぁやばそうだ。走って薮をこいでぬかるむ地面、前が見えないほどの大雨、まるで四つ足のように這いずり回って車を目指す、両手で掴んだ草刈機が銃に思えてくる、今ここが地獄の黙示録のワンシーンのようだ、っと今まで何百回思ったかわからんことを考えながら軽トラの座席に飛び乗った、はぁはぁ。全身が池に飛び込んだみたいに濡れていて、泥と草に塗れたヘルメットにサングラス、手袋をぬいで助手席に放り投げる。あぁ、俺の持つ唯一の清浄な空間である軽トラの座席がびしょびしょになっちゃった。でも、やっと安心する、雨も雷鳴も窓の外のことだ。5時になっいて外も暗くなり始めたけれど30分車内で様子を見てたら雨も雷鳴も止んだ、何もなかったみたいに虫がなきだす、お盆の縁側みたいな雰囲気になった。
くっそ、ふりまわしやがる、まぁた、あんだけ気持ちよく脱いで放り投げたぐちょぐちょの手袋を拾い上げては手にはめる、なんだこの刑は。まぁた身軽になるために荷台に放り投げた草刈機を肩に背負う、なんの因果だ。逃げ延びた濡れた薮をまた戻ってその続きの草を刈って暗い中草刈りの現場をひとつ終わらせる。6時、やっとその日の刑を終わらせて俺は帰路につく、帰り路、といっても家族のまつ家ではない、その途中のところにあるマンガ喫茶へ、そこで寝泊まりしている。
ここに書いたか忘れたが、ジムに通っている、漫画喫茶の周辺はこれでもかと全てが揃う素晴らしい空間だ、漫画喫茶にモール、フードコート、スーパー、ホームセンター、スタバ
に蔦屋書店、そして6月に入会したサウナ風呂プールに各種トレーニング設備付きのジム、ここに出稼ぎの時には帰っている。
ジムに通って、ここで俺はこの上なく癒される。俺にとって昔から、ジムとは何かと問われたら答えは、「贅沢な癒し」だ。吾輩は猫であるの猫ちゃんが人間の運動ほど意味がわからないものはないと考えたように、その頃あたりまで概念としても存在しなかったトレーニングという人間の意味不明な行動様式。
俺の労働の日々は、意味に満ちている、労働や貨幣として意味づけられたもの、としての意味でしかないが、逆に俺はこういった意味を生来まったく価値あるものとして考えていないところがあって、こういった価値によって自分は価値づけられるものではない。いや、人は価値づけられることによって価値の体系の中の一分子としてカタヅケられているのであって、生は文脈の一語でしかないものとして虐げられている、その苦しみを万民が生きていると考えている。
なのでこういった与えられた価値はそっくりそのままやり返さないと気が済まない、そうしないと人間として俺は生きていけない、なのでやらされたことをやらされた分だけ、俺は自分の何か無意味、与えられた価値ではないこういった作文、作画、筋トレ、運動、ダンス、語り、歌い、叫び、抱擁、セックス、抱っこ、たわいない遊び、オナニーなどして、俺が俺でいるホメオスタシスを保っている。
この意味で、山の労働とは対極にある究極のものは、ジムではないか。おれはここに喜びを見出している。大雨に濡れ草木に汚れた体を誰も通らない道路で裸になって2リットルペットに入れた水で全身を流し、手拭いで拭き取って軽トラにのってエアコンきかせたら幾分か癒される、そのままジムに行って、走り、筋トレをする。
熱射の中で汗かいて、ジムに行ってクーラーの下で走って汗をかくことに癒される。仕事で筋肉を使って、へとへとになって、カフェインと唐辛子の自作のプレワークアウトサプリを飲んで、ケミカルに再起動、そしてジムでマウスピース噛みながら筋トレ、全部で3時間くらいはジムで集中している時間、幸福以外のなにものでもない。
そして昨日、指を縫ってもらって、その隣のジムへ行く、6キロルームランナーで走りながらUFCの試合を見る、80キロのスクワットで10発5セット70キロ3セット、お、案外指痛くないし握り込めるやん?
レッグエクステンション54キロ10発5セット、膝たち腹筋コロコロ50発2セット、やった。ついでにスタッフがいたから明日やるともりやったインボディ測定、ちょうど2ヶ月前にサマーチャレンジとかいうのに参戦していて筋肉増加量を見てもらう、2ヶ月できる限りみっちりやったけど、700グラムしか増えてなかった、まぁ年の筋肉増加量は最大2キロちょっとらしいから、それから考えたら上等なのかな。
けど、よくかんがえたらこの時期は猛暑の草刈りの日々なので、毎年体重がめちゃくちゃ落ちる時期、去年の今頃はたしか64キロくらいやったはず。その前の年は60キロくらいやったんじゃないか?今年はなんと、73キロ!筋肉増加量のチャレンジに参加したからとにかく落とさないようになるべく食べる、食欲がなくても頻回食べて、サプリやプロテインもしっかり摂取する。水分はめちゃくちゃとる。
脂肪も2ヶ月前に比べて1、4キロ落ちてるし、脂肪落ちて筋肉増えて、体重キープなので大成功なのかもしれない。足の筋トレめっちゃしてたのに数グラムだけ足の筋肉が落ちてるのだけ気になったけど、走ってるし、山仕事で歩き続けてるし、仕方ないか、めっちゃ足の筋トレして常に筋肉痛だけどなぁ。
そして包帯を濡らさないように風呂とサウナ入って出たあたりから、あれ?指が疼く、ジンジンジン寝る時も痛くてたまらんかった、漫画喫茶でロキソニン飲んでなんとか寝れた、トレーニングで指痛くないからガンガンやってたけど、そういえばあれ、縫った時の局部麻酔が抜けてなかっただけか!!
今朝から指が曲げにくい、多分仕事できるけどどうしようか長考に入って、文章書きながら考えようとキーボードタップしてたらまた指痛くなってきたのでロキソニン投与して文章書き続けてる俺っていったいなんなんだ。
もう頭の中は今日はジム行ってどうやって鍛えようか考えてる、目の前にはJMクッツェーの「遅い男」これも読みたい。そういえばこんなふうにサボってるの久しぶりだな、去年はよくサボってたけど今年は集中できてた、今はそれがちょっと枯渇してる明日プラントの作業か、めんどいな。今日はもういいか。家族も恋しい、山でよく想う、それも、想っても仕方ないから、想わないようにしてる、そのことに、ちょっと慣れて、切ない。
大人になると色々とコントロールを覚える、家族が増えて切り捨てないと前に進まない効率を重視しないといけないことばかりだ、収入もしっかりないと今の暮らしは厳しい、それを誰もやりたがらないこの作業を出稼ぎで、成立させようというのだから仕方ない。仕事としては悪くないはずだ、でもリスク的にはどうなんだ、見合った報酬なのか、そんなことを考える余裕もなく考えないことを癖付けてようやく今日まで生きてきた結果、救急箱も持たずに山に入ってることをケガして気付く体たらくだ。
社会は人々に無知であることを強要する、じゃないとしんどい世の中だ、調べるのが得意な人間はSNSで苦汁をかき集めたミックスジュースをせっせと作ってる。だからといってポジティブでいようとそういう発言を書籍化したりしてる人はなおさら暗い、それなりに考えさせられることとそれを回避しようとバカでいようとすることのバランスの中で、ぜぇぜぇなんとか生きてる俺に言うことなどないのだが、久しぶりに書き出したら止まらなくなった、くだらないSNSを更新するくらいなら、文章を書くことを日常にしたいとは思っている、短文でもいいはずなんだが、書き出すと案外脳内のアーカイブには書きたかったことが記憶されていて驚く、19からずっと書き続けた人生だったからか、出来事が脳内で書きたいことの列に加わる癖が抜けないな。
さぁ、文を書くということは過去や出来事を書き記し、その書いた勢いを哲学や思想にまで敷衍させるリビドーのようなもの、つまり書くことは結果的に未来にまで筆を走らせることになる、その勢いで生きてきたような気もする、書かない時間が\書いていない時間として記憶されているくらいに、書くことは俺に憑依しているらしい、楽しいもんな、またすぐにでも書けたら書きたい。読めたら読んでもらいたい。