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本音の一種


夜が僕の背中を追い越して日をまたいだ0時半。

今日も文を書けたら嬉しいなと思っていたけど今日は明日になっちった、でも寝ていないからまだ今日だよな残今日の余興にちょと書こう、書いてるだけで幸せだ。

この文自体や貴重なこの文を読んでくれる人たちには失礼かもしれないが、文を書くのは余力においてな昨今である、まーじで1日なにやかにやで時間目一杯消費したわけだ、労働の日もある、いわゆる家族サービスな日もある、そしてもうひと踏ん張りおチビと一緒に寝落ちするところを踏みとどまって、目をこしこしあくびで酸素補給しながら、最後に残った元気で自分へのサービスだ。

この時間こうやって文をタップすることが喜び、うん今まさに喜ばしい。
でだ、ここ数日文を書くけどその時はいつも余力で一日の最後の出涸らしの脳みそを時間に浸して沸いて出てくる茶の気のような文で、三角コーナーからつまみ上げたティーバックをもう一度急須で淹れた紅茶を客人に提供するみたい文ですまねぇ。

誰にすまねぇんだ?知らね、これも本音の一種なのだからアリなんじゃないかい?
そう、僕の日記へのモチベーはまさにこの自分という正直にある、正直とは恐ろしい、万華鏡の如きもの。。

「何人か鏡を把りて、魔ならざる者ある。魔を照すにあらず、造る也。即ち鏡は、瞥見す可きものなり、熟視す可きものにあらず」

という緑雨なのかイノセンスなのか知らないが言葉がある、これに出会った時ドンと心の臓を破城槌で突かれたようにツンのめった、いや、魔に落ちたんだなあの時におれは。

そして僕は心の正直を覗き込んだ、正直を覗き込む時、例の如く、正直もまた僕を覗き込んだ、僕らは見つめ合った、でも、お互いの視線は目ん玉が2つずつついていて、さらにこの2つの目ん玉に一つずつの脳みそしか搭載しておらず、だからか知らんけどこの眼球一個が対になる眼球と見つめ合う、つまり僕の片目と正直の片目、そしてもう一方の僕の片目と正直のもう一方の目が見つめ合うということはほとんど不可能だった、相手の両目の間の鼻梁を両目で見る(これなら一点なので焦点は合う)、あるいは相手の片目を両目で見つめる、あるいは目と目が見つめ合っている(一対一対応で)気持ちでなんとなくボヤんと見てる気がしてるか。つまり互いの見つめ合う視線は互いを捉え損なっていて見るということについて疑念をどこかに拭いされず、けだしそれを相手にバレないように見てる体で見てるよというスタンスだけは崩さないように見つめ続けることによって、僕は僕に正直は正直の思い込みの深淵の中にそれぞれに勝手に崩れ落ちていくのだ。魔

率直に言って、その率直の真下にニュートン力学の教科書の下矢印の重力のように明確に直線を描きつつ下降することは不可能で、僕らの心はランダム枯葉のように色々な空気や状況の抵抗を受けて流れ、行きつ戻りつ変な軌道を描いて、最後には下方から吹き上がる上昇気流に乗って率直のちょっと上の建前のところに着地したりする。

ただ、この文が描くように率直はジグザグに進み再び同じところに戻ってくるのかもしれないけれど、この文がここまで書き出すことができたように、率直というとこに向かって飛び降りることはできる、何度でも率直の谷に飛び降りて自分の枯葉の形状や上昇気流を学ぶのは悪い手ではない、次はもっと上手に飛び降りれるかもしれない、もっとアホになるためには勉強しなくてはいけないのだ、飛び降りてなお浮かぼうとする理性のパラシュートをズタズタにしろ。

何度も飛び降りる時そうだ俺は魔になってる、鏡を見つめすぎてもはや自分がゲシュタルト崩壊する、しかしどうだ?崩壊する前の自分とは誰なのだ?

ちゃんとそこに存在していたと思うのは迷わず行進する皆んなと一緒に足並みそろえて何も考えてこなかったからだ、考えてみれば鏡を見つめすぎて崩壊する前の自分だって明確に存在していたわけではないのだ、人混み満員列車のぎゅうぎゅうの自分以外の人々が僕を僕のカタチに型はめていただけにすぎない、それは僕型の型枠で、輪郭だけの存在で中身が備わってるとはとても言えないのだ。

正直をさがし見つめ、率直の谷に飛び降りる不毛な人生実験を繰り返し得れるものなんて何も知らない、気がつけば37年ほとんどそれにBETしてきてしまったから何者かであったことはない、ただここには文を書く俺がいる、思考が文になってる、もちろんまだまだ文を書くことにおける優生思想のようなものがあったりはする、より上等なことを書きたいだとか、書くべきことを書きたいだとかそれら上等だと思ってることの裏でたくさんの言葉の芽は沈黙と忘却によって踏みつけにされているだろう、書く中でこの取捨選べつする理性をヤスリにかけて消し尽くしたいと思う、つまり正直とは必然へのレジスタンスだ、必然と出会えば必然を殺し偶然に向けて道を開けるということ。

ここまで俺は積み重ねましたが、はい。降りますどうぞ偶然さん、お通りませ。俺が信仰していることとは偶然である、たくさんの必然的引力を潜り抜けてまっすぐ自分の芯を射抜く重力へと降りたいのだ、その偶然の中で行き着いた場所こそが「有り難い」場所として感謝できるし、出会いもまさにそうだ、なにせ僕は僕がこうだからこうなったのだと誇れるものは何もない、全てが無一物の中で得られた収穫された木の実だ、農耕民は自分の耕した畑から収穫するが、狩猟採集民は世界から偶然がキラキラ光る「有り難い」木の実を手にとって食べるのだ。

こんな風にして正直な心情の吐露は蜘蛛が糸吐くように終わりなく生成される、これら網の目は明日の自分を捕獲するために張るのではない、網目の隙間を見つけるために張るんだ、明日はもっと上手に自分を潜り抜けられるように、明日は今日よりも自由に生きられるように。

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