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南方熊楠その粘菌的思考


熊楠は顕微鏡を覗き込み粘菌を観察する。熊楠にとっての粘菌とはなんだろう。

粘菌、生と死の分け目を持たず、無数の性を持ち、時に器管となって自らを流れ込ませ、その流量に比例して拡大縮小する管となる、神経を持たず神経の中枢も持たない、全てが手先であり斥候であり感覚であり能動しつつ受動する、単細胞の持つ無限の機能。

人は知能を持つのだと言う、その発言の意味するものはなんだろう、僕はその手の発言を聞くたびに首を傾げたくなる。猿が人間の真似を少しできたことを観て人は猿が少し進化したという。イルカは賢いのだ同胞の死を悼み、痛みに苦しむのだという。

この辛抱たまらん人間至上主義のはびこりを前にして、僕は何を言うべきか言葉も頭に浮かばない。人間がなんだというんだろう、60兆個の細胞を動員してようやく生存を保つ、この恐ろしく不経済な肉体に、ありったけのバイキンを括り付けて日々の不調に我知らず、毎日違う色の風を感知もできない鈍感さが、主体をある悪しき宗教に落とし込める、そこでは全てがある中心を基点に一般化される。人間には人間しか友達がいない、だから人間は、犬を、猫を、オウムを、イルカを、人間に近づけて、それで喜ぶ。これが暴力じゃなくっていったいなんだろう。

<これら絶対人間主義的排他主義はキリスト教圏からやってくる、これは宗教批判ではなくて宗教を排他的用法に用いる人間精神の批判である、ある学者が粘菌の知性を研究する中で「プリミティブインテリジェンス」という造語を与えた、すると西欧ではそのインテリジェンスという部分に強く反応されるのだという。インテリジェンスとは、神が人にのみ与え賜うたものだという差別意識、選民意識の根が無意識の中に張り巡らされているのだ。このような差別意識が言語の根に張り付いていることの恐ろしさを考えるべきだ>

ある時は犬も、人間を犬化して見ていることを人間は知りもしない。自分の中の幻想にちょっとでも構ってくれるものとだけ関係を結ぶ、これは堕落なのだ。自分の中の可塑性を追放することで初めて可能になる主義、主張の中に閉じこもり、その主義、思想の言語だけを信仰する孤独な王様。

世界を人間化することに意味などあるもんか、熊楠は粘菌を収集し分類分けし、新種を発表し、それで粘菌学者と呼ばれたか。僕はそうは思わない、熊楠は粘菌と恋愛していたんだ、そこでは熊楠は観察者じゃない、熊楠は粘菌を観察するのではなく、粘菌になり、世界を観察していたんだ。

何度でも書こう、他者を理解するためには自分と呼ばれる一切を滅ぼさなければいけない、自分を無に帰することができた時はじめて、他者になりうる、他者になったことのない人間がより他者に対して他者である自分を構築しようとする、それを世間では個性だとか言ってる、言ってみるなら、その個性は戦争に裏付けされてる、社会に対して武装するための方便だ。

熊楠にとっての粘菌とは、思考なんだ。粘菌とはプロセスだ。生と死のはざまにあって、生きるために姿を変幻自在に変え、触知する気温や手触り、音の振動、光ではなく闇(粘菌は光から逃げ、タバコの煙やピーナッツを嫌う)それら情報の海の中、迷うことなく全ての先端で同時に実験し続け、生存に不適格、適格の無数のストロボ照射の中で、時速1センチで未来の闇にひた走る生存の機械。状況が適格、不適格のちょうど中頃にある時は逡巡し、迷い、やがて決断して行動にでる。

自分で獲物を嗅ぎ分け、自分を取り付けて食べ、自分が増え、自分を斥候に送り食料を確保する、二つの食料があれば二つの自分を送りこみ、自分同士を自分で作った管でつなぎ合わせ、その中に液化した自分を流入させる、2分おきのリズムで流れは逆行する、完全なる自分ネットワーク、そこには不確定性すらある、二つの食料間に結ぶ自分器管の軌跡は決して一様ではない、全体の長さ太さに使われる自分量の経済性と、敵による自分の部分的断線を考慮した安心設計、その両者の微妙な配分。それら全てを行政的器官無しの自立分散方式で、たった一つの細胞とその中をうごめく無数の性(核)によって行う。

これは思考する主体などではなくて、(主体など持たない、どの瞬間を捕まえようとも流動し続け、立ち止まったと思ったら胞子になって飛んでいくのだから)思考の流れそのものだ、熊楠は粘菌という自分の脳内シナプスを覗き見ていたのではないか、熊楠は粘菌を自分へと流入させ、全身60兆の細胞を粘菌で再構成させる。思考する細胞で全身を再構築するということだ。

熊楠の直観(TACT)はそこからやってくる、僕は熊楠にはまり色々な熊楠の記述を読むけども、熊楠はひとつも本音を吐いていないと思っている、書き言葉と、自分は別のものであるというような自覚を元に文章を書いているように思う。それは熊楠の日記ですらそうなのだ、熊楠は後年、自分の日記が公のものになることをなぜか知っていた。(現に熊楠全集と共に発刊された熊楠日記今のところ4巻までが出版されている)なので、心情や心のつぶやきというよりは、あくまでも客観的な記述が並べたてられているのだ、熊楠はそんな日記を生涯に渡って書き続けた。

今まで、かいつまんで読む中で熊楠の本音的なものが垣間見えたのは土宜法龍(高野山管長)との書簡の中だけかもしれない、いや、粘菌の細胞のどれもが粘菌自身であるように、熊楠の文も又熊楠であることには変わりない、けども熊楠はそこに一切の思考を残さなかったように思えてしかたがないんだ。熊楠は、理解という、学問を企てる時、きっとイギリスの大英博物館で当時流行っていたフレイザーなんかの人類学や民俗学やダーウィンの進化論というものに嫌気がさしていたんだと思う。

歴史学者が、歴史を紡ぎ、人類学者が人類を紡ぐ工房の中で熊楠は人間の持つ理解という恐ろしい暴力を目の当たりにしたに違いない、理解とは侵略と同義なのだ、ある民族は無表情で笑顔を知らない、だから幸せも知らない、貧困だからに違いない、貨幣経済化と民主化による主体化、個性化、医学による人体の解体、ひとつの次元に再構成される人体はもう、肛門で太陽としゃべることも忘れた、性は2つに切り分けられ、あぁ、そしてやっと民族が感情を持って笑った、めでたしめでたし。これにて侵略完了!!俺たちの言うこと以外の全てが隠喩に違いない、鷲は太陽の隠喩!燕は鳥貝の隠喩!隠喩!意味は俺たちが作る、君たちは自分の文化の未開を知れ!博物館に並べられた世界中の宝物が大地を失って宙ぶらりんであることに熊楠が何も感じなかったはずはない。西欧の歴史は一方的な独り言にすぎないんだ!

ただそれだけで何の変哲もない事実を、自分だけの物語にしてしまう種類の人間たちを、知の潔癖者熊楠が無視できたはずがない。それでも熊楠はいいやつだった!あらゆる学者たちに、彼らの物語の材料を、生涯に渡って提供し続けたのだから。(柳田國男に民俗学的素材を、岩田準一に万国の男色的素材を、ディキンズに日本的素材を、土宜法龍にプリミティブな仏教とその他宗教的素材を)

そして脚光を浴びるのはいつも、自分の物語のために森羅万象を消費する学者たちばかりだった!

こないだの自転車旅、田辺の熊楠邸で日が暮れるまでおしゃべりした、親族の方が、熊楠ブーム真っ最中のこの時期にあってこう言ったんだ「わたしは熊楠の学者としての才能を信じています、まだまだ学者としての熊楠は認められていないと思います」と。僕はその人の綺麗な目が、熊楠の愛した庭に情熱を持って注がれるのを見た!

そうだ、あそこに集まるのは皆、熊楠学者をうたって、自分の名声の足しにして熊楠を自分の物語に消費する学者ばかりなんだ。田辺市なんて熊楠を観光素材としか見ていない。

熊楠と粘菌に肩を並べて、世界をながめるような学の方面に歩みを続ける学者がどれほどいるだろう。事実の解明を前に勇気を持って立ち止まり、その不思議に胸を打たれ、ほとばしる無数の仮説を白昼夢を映画館で観るように楽しめる人がどれだけいるだろう。あわてて結論づけるのは危険なんだ、時はあらゆる結論を粉々にするのだから。

何かに終止符を打とうなんて考えるべきではない、全ての結論を再開させる有機性、鉱物ですら活性化させる魂の学問、それは、恋愛に近い。ボーダーな精神性があらゆる他者多民族を横断していく、、椅子にくくりつけられた主体を置き去りにして、主観は旅をする、その主体への諦観が他者への譲歩となり、好奇心の成長点となる。しかし主体は主観の後ろ足から紡がれるものだ。粘菌の移動が<ゾルーゲル>という柔らかい自分と、硬い自分の交換で成り立つように。

硬い自分から柔らかい自分を吹き出し、吹き出された柔らかい自分はやがて硬くなり、硬くなった自分から柔らかい自分を吹き出す。この全身を世界に向かって内から外へめくり上がりながら移動する様の美しさ、しかもそれを全身、全方面に向かって展開するいち変形菌の変化の様は、たった人間の60兆の細胞のうごめきどころではなく、70億の人間が展開する地球変化の分布図のようだ。

人がどれほど複雑であろうとも、手には一つの印鑑しか持っていない、意識は自分の座標を一時に一個だけしか決定づけることができない、それならばいっそ、同時にたくさんの局面を留保し、記憶の中に並置して、印鑑をなりふり構わずおしまくろう。

一時、一時、たくさんの今。そのどれもが事実の断片で現実の断片だ、自分を粘菌のように全方面に吹き出して、知りうる全てのジャンルから新しいジャンルを吹き出そう、そしてそれらジャンルからまた違うジャンルを吹き出すことだ。知性は粘菌のように歩む。生存に適さないようなら引き返して、別の経路をたどりだす、全ての方面に躍り出たのなら、どこかの部分は適した心地よいところにたどり着くはず、ほとんどが失敗だったとしても、0.1パーセントでも逸脱できたなら、自分の100パーセントをその0.1パーセントに向かって噴き出せばいい。

粘菌は、ほんの僅かの隙間さえあればどんな迷路からも抜け出すことができる、危険に陥れば一時の死をもって胞子になって飛んでいく。そうだ粘菌は逃走の達人、死なないために一時の死をも受け入れる。ロミオのように、そしてどちらにも逃げる道がある時、粘菌は逡巡する、やがては決断して動きだす、ハムレットのように。

熊楠は、自分の中に絶えざる熱を感じていた、その熱は時に熊楠の理性を超えて熊楠を暴れさせた、そして熊楠は学問と観察にそれら一切を注ぐことで自分が安定化することを学んだのだ、熊楠にとって学問は鎮静剤だった、顕微鏡を覗いていると気持ちが落ち着くと、書簡の中で幾度も書いている。しかし熊楠の熱は閉鎖的な学問に捕縛される類のものではなかった、学問のあちらこちらに穴を穿ち、熊楠の熱は逃走を試みた、するとまた別の学問の扉が開く。

僕はつくづく思うのだけど、火を消すのに水はいらない、燃え尽きればいいのだ、けれど人間は燃え尽きることなどできるだろうか、最後のひと脈を鼓動するまで人は燃え続ける、だから人には精神病院や外部化された自律神経のような社会のような水ではなくて、芸術や探求のような持続性をもった着火剤が必要だと思う。どれほど鎮静剤を打ち込もうがヘロインでヘロヘロにしようが人は生きてる限り何かにカロリーを燃やすんだ。だから粘菌の移動のような熊楠の熱の逃走劇が開陳した逃走路から人は、この煮えたぎり絶えることのないカロリーの逃げ道を学問に見つけることができると思う。

図鑑の実物を見て触るために森にでかけることが、熱の逃走路になり、森には新たな熱源が無限にある、発見というプロセスがある限り人は死なない、狂わない、この一見狂ったように見える熊楠の学問や山下清の絵画は熊楠自身が、山下清自身が、自分を狂わせないためにとった狂気との相撲の結果であって、彼らは自分の狂気から生存を獲得してきた。

そこには理性がある、道がある、人を生存させる経路がある、それを敷衍するだけで救われるわけではないけども、僕らはその精神性を学ぶことができるはずだ。熊楠の知は世界との共生の手段であってそれ以上のものではない、だから熊楠は自分で何をしているかわかっていない可能性すらあるのだ。

熊楠の真言密教的科学マンダラは粘菌の世界に似ている。因果と縁その脈絡。心・物・事の不思議、それらを含む大不思議。縁起という不確定性、それらを考察する因果の発明は、粘菌の有機的態度から取り入れられたものではないか。粘菌もまた不確定性の中、逡巡し、リズムに促されるようにして決断をする、その決断もまた不確定である、最近の研究では粘菌は(モジホコリ)同じ条件から数通りの反応を示すことが明らかになっている、まったく同一の反応はほぼ無い。これを科学するというのはどういうことだろう。しかしそれこそが科学の隙間なんだ、熊楠の熱はまた、こうしてはみ出し逃げ道を作っていく、熊楠によって管が作られそこを通って熊楠が流れ込み、その先に柔らかい熊楠を吹き出してやがて硬くなった熊楠の先端から柔らかい熊楠を噴出させる。

このようにして熊楠=粘菌の移動は絶えることがないのだ、、

熊楠がマシンガンのように紡ぐ手紙の内容。科学の限界について、物と心が混じることについて、事の科学について、生死について、信心について。。。

全ての学がすべての学の栄養素となってその先端から新たな学を吹き出していく、熊楠の一連の思考は思考法というような統一された集中管理方式の提案を一切表現することなく、思考のプロセスだけを提示する、提示されたプロセス同士が干渉し合うことで知のネットワークが強化されていく、自律分散方式であるこれらの知は熊楠という署名など無くても自分で拡張されていくような自律性をもっている、だから僕が熊楠の知を読む時、僕の脳を借りた熊楠の熱をもった知が、再びブルブルと振動しだして、その先端から新たなゾル化した熊楠的なものが吹き出されるのだ。

こういった経験の中できっと知は人類の中で連続していくのだろう、それはある時は可視的な霊となって枕元に立ちささやき、時には頭の中である条件がそろった時、起爆する、全ての原理主義を破壊し永遠に生き延びるプロセスとしての知、知のDNAがその内部情報を読むように立ち現れる、そこに先人の著名はない、この環境の無限の因子と自分という無限の因子による縁起によって、虹から選別される色のように、時代の透かし絵を通して入り込む光のように忽然と立ち現れる。

それは命が命について記した手紙のようなものだ、そしてぼくという命がそれを読む。命がサバイブしてきたこと、知がサバイブしてきたこと、それらが頭の中で命を謳歌している様が、壮大な音楽のように鳴り止まないのだ。

以上の文は、2015年6月、僕が27才の時に書いたものだ、当時僕は、日本が誇る知の巨人、南方熊楠にのめり込み、彼の足跡を辿り紀伊半島を一月半ほど自転車で野宿旅をした。

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