見出し画像

3.11と関わって人生が変わった

当時奈良に住んでいた自分に、震災はほとんどメディア上のものだった。
遠くでそれを見ていると、客観が過ぎて事態を想像で埋め合わせることしかできない分、過剰に考えてしまったり、憶測が飛んだりしてしまう。

そんな風に1週間ほどテレビやネットに張り付いていた僕だったけれど、震災から10日ほど経った日、ふと気付いた。
そうか、行けばいいんだ、何ができるかはわからない。僕は今、そこで起こっていることを体験したい、何ができるか考えて実行したい、と考えてるんだ、と思い至った。

確か震災から2週間ほど経った時に、僕は宮城県石巻に入った、兄貴がランクルを貸してくれてそこに野宿道具一式詰め込んで、車中泊しながらボランティアとして活動するつもりだった。

石巻では、専修大学というところがボランティア拠点として開いてくれていて、すでに無数のボランティアが入っていて、最初の数日は僕は何をすればいいかもわからず、知り合いが1人参加していたのでその知り合いについて回った。

すでに、日本中、世界からも、救援物資が大量に送り込まれていて倉庫には無数の食料や飲料が集まって来ていた、けれどもそれを各戸や避難場所にとどける人がいないので倉庫には賞味期限の近い食品が溜まってきていた、そこで僕はそのローラー部隊で物資をとにかく避難者に届けまくるという活動をした。

届ける中で地形も街の状況も、避難場所や、まだ居住している家のこともなんとなく把握できるんじゃないかと思い、活動していてやっと被災者の方々と交流を持つことができた、話を聞き、辛くなってしまうことを僕は自制するようにして、なるべく笑顔でいるようにした、本当に笑顔でいるためにこの状況を空気を読まずに楽しむような鈍感さが必要だと思った。

「ボランティアは、2週間もここにいれば被災者になってしまう」

そう言ったのは社協でボランティアを束ねていた人だった、「なのでボランティアの方は2週間で一度帰ってください」と言っていた。すごく納得のいく指示だと思った、感化されるボランティアは多い、そもそも感化されたからこそ、ここに来たんだから。

僕は持ち前の鈍感力なのかなんなのか、空気を読まない明るさで、避難所に通い避難所の人たちとお茶をしたり、遊んだりして、可愛がられていた、子供たちと鬼ごっこしたり、プロバスケットプレイヤーの人がボランティアに来てたのでその人を連れてきてバスケをしたりした。

確か3週間ほど活動してたように思う、3週間するころには、地元の人たちの中からも立ち上がる人も出てきて、さまざまな活動が目につき出した。
半壊した商店を片付けて、営業再開する人や、料理屋を再開する人地元の人も出てき出した、けども、そのあたりから色々と問題を感じるようになった。

当時石巻には、ものすごい量の支援物資が送られていた、中には家電やダイソンの掃除機を10台とかいうのまであった、そして溜まっていく倉庫からはけることに一生懸命なローラー部隊は、運送屋さんみたいになっていた、避難所にも食品はたまり、賞味期限が切れ、廃棄するものも多くなってきて、炊き出しもあちこちで始まっていた。

自衛隊が配給みたいなこともするし、ボランティアも無料の食品、備品を配りまくってた、要するに地域全体に無料の品々が選び放題にばらまかれているような状況だった、そんな中で商店を再開しても、料理屋を再開しても客なんて入るわけがない、その後そういう店がどうなったのかは知らないが、厳しかったと思う。

やがてボランティアの受付もしっかりしてきて、観光バスで乗り込んでくるボランティアが増えてきた頃に、自分はそろそろ帰ってもいいかなと思った。

僕は僕のしていたそこらへんで肉体作業してる現地の人の手伝いをしたり、物資を倉庫から必要な人に持っていくような作業を、途中から地元の元気そうな若者を助手席に乗せて一緒に活動するようにしていて、車を持ってる大学生とかに僕のしてた活動を引き継いでもらい、そして帰ろうと思った。

震災の翌日から入ってるすごい人たちもいた、その人たちのエネルギーは桁違いで、車にボート乗っけたまま乗りつけてきた人や、助手席に法螺貝を乗せたまま重機で乗りつけたような人たちがいた。

道を埋め尽くすダメになった車たちを、その重機を使って移動させ、公園に山積みにしていた、割とアウトなような気もするが、後に乗り込んでくる人たちはその人たちが道を通れるようにしてくれたからこそ入ってこれた、そして、そのすごい人たちは、自分の役目が終わったと感じるやいなやすぐに去っていった。

のちに、いろいろなボランティア団体が入ってきて、活動を開始し、その団体が地域に表彰されたりしているのを横目に複雑な気持ちになったりもした。けども当人のすごいボランティアたちは平気な顔してて、「いつもそんなもんよ」と言っててかっこいいなぁと思った。

女川の原発にも一度入った、避難民が200人くらい残ってるのに外から一切入れないということで、僕が行ってみることにした、有志を募って2人ついてくることになった、3人で社協のゼッケンを着て、社協のふりして入った、色々あって入るのはすごく難しかったがなんとかねじ込めた、原発の中に体育館みたいなところがあってそこが居住区域になってた。

外からきた人間からすれば異様な雰囲気だった、居住域をかこう壁とテーブルがあって、住民の方に向けて座ってる原発職員がいて、カメラもいっぱいついてて、監視されてるようだった、けど中の住民は平然としていて、その人たちから話を聞くと、最初はもっと人がいて、外に行き場所のある人たちは出て行ったという、出る人は自由に出れるようだった、女川は沿岸沿いの漁師街で、ほとんど逃げ場がなく、唯一の高台が原発だったようだ、入るのにゲートが何重にもあった。

ある日には僕自身が被災した、道路を歩いている、ぐらぐら揺れ出してそれは6弱の地震だった、地面が海面のようにうねり、地面から突き出した電柱がふにゃふにゃに揺れ、電線がくにゃくにゃになってた、空には不思議なプラズマが飛び交ってて、不思議な情景だった、外にいたこともあってか揺れること自体はそれほど恐ろしくなかった、けども、その後でサイレンが鳴り響いた。

あぁ、そうか、津波が来るかも、と、それが怖かった、ランクルを移動させ、屋根の上から双眼鏡で海辺を眺めてた、いつでも逃げれるように準備した。
そこで、ボランティア村でおかしな情景があった、大勢のボランティアたちを一生懸命に一箇所に集める動きをしていた、それぞれの団体が点呼をとるのに必死になってた、僕はすぐに逃げ出そうとしたけど、それが許されないような雰囲気だった。

そして、ある団体の人は自分の団体の人を集めるのに必死で、逃げようとする人を呼び止めて、なになにの団体ですか?と確認して回ってた、ある人はそう呼びかけられて「今そんなのカンケーねぇだろ!」と切れてた。もっともだ。

東北には「てんでんこ」という言葉がある。
「津波がきたら、取るものも取らず、肉親にも構わずに、各自てんでんばらばらに1人で高台に逃げろ、自分の命は自分で守れ」という意味だ。

ボランティアは専修大学のグラウンドにほとんどの人が集まっていて、結局津波は来なかったけど、あれは危険だったと思う、団体行動というのは自分には苦手だというのがこの時の経験からはっきりした、1人で来たんだから1人で判断する。

僕は、てんでんこが好きだし、その方が全体の助かる率は高いと思う。

その後も、いや、ボランティアの活動中ずっと地震は起こり続けてた、もう、アラームが鳴るのも、夜中にかなり揺れるのも、慣れていた、現地で原発のことを問題視する人はほとんどいなかった、ボランティアの間でも原発のことをしゃべる人はいなかった、それを言うなら来なければいい、という感じだった。奈良の自宅で震災を見ると、その多くのトピックが原発問題だったけど、現地はそれはなかったのが印象的だった。

一度海岸沿いで活動してる時に震度5強くらいの揺れがあった、海際で夕暮れ時だったので慌てて車を走らせたけど、丘を登る国道は渋滞になっていて、僕は最後尾だった、後ろから津波がきたら助からないと思った、けどその時も津波は大丈夫だった。

そんな感じで一通りのことを経験させてもらったように思う、活動として地域のために何ができたかはわからないけど、できることはやったように思う、3週間の間風呂には一回も入らなかったし、ひたすら地面で寝る日々、けどじーちゃんちのソファーにかけてた羊毛の毛皮かなんかのマットを床に敷いて眠るときの心地よさは今でも忘れられない。よく明け方寒さに縮んでいたら、寝袋の中にそっとお湯を入れたペットボトルを入れてくれる人がいた、日本中からいい人がたくさん集まっていた。

僕は、物資を配り、現地の人たちがその物資を調達できる道筋を残した、そして集落で中心となるような人を探して、その人の敷地に物資を集め住民たちの手で物資の引き受け場所を運営してもらえるようにした。心理カウンセラーの人を住民の元に送り届けるような活動もしてた、けども一番大切な経験はなんといっても、地元の人たちとの交流と、日本中からボラのために集まってきた面白い人たちとの出会いだった。特に初期のボランティア受け入れが始まってもいないのに乗り込んできた人たちはものすごく面白く尊敬できる人が多かった。

ボランティアの後で、僕はこの面白い人たちの暮らしを見て回りたいと思った、京都に引っ越して、精神ケアホームの仕事を一年ほど続ける中で、僕はボランティアで知り合った木こりをしてる女の人の元に遊びに通ったりしてた、そのままそこで一緒に暮らすことになった、そして僕も木こりになった。7年ほど後で別の道を歩むことになってしまったけど。

震災の後にも、奈良、和歌山の豪雨災害のボランティアとかにも入った、これはもう参加でもなんでもなく、バイトの間に徹夜で原付にのって向かって、通行止めの土砂崩れを原付で何回も乗り越えて、どうしても通れないところは山を超えた、僕は当時よく原付で山登りしていた、原付は最強だ。

奈良の十津川村に入って、知り合いの安否確認をした、外の人間に誰1人会っていない知り合いが最初に会ったのは僕で、ものすごく驚いていてくれただけで行ってよかった。そして土砂を1人で掻き出してる知らないおじいちゃんと一緒に汗を流し、作業して一緒にパンを食べて、またバイトが始まるから走って帰った。そのおじいちゃんは膝の半月板が無いらしく、それでも作業してたので田舎の人はすごいなぁと感動した。

ボランティアのたびに思うのは田舎で自給率高く生きる人々のいざとなった時のサバイバル力だ、十津川の知り合い家族は電気が切れて、冷蔵庫の中のもの全て干物にしていて、空から自衛隊が物資として落としてくれた何十個のあんぱんを食べ切れないからといって焚き火でお汁粉にして振る舞ってくれた、外部と切断され、電気が切れても何不自由なく、むしろヘリを始めて近くで見たとか、その状況を楽しんでいて、僕を逆にもてなしてくれた。

山奥の集落でボランティアしようとする時、僕らに何が手伝えるだろう、思えば逆にもてなしてくれることが多かった。僕は地方での生きる力に魅せられていた。それから約7年くらい山奥に移住して、ぼろ家で薪風呂、ガスなし、電気はあったけど、林業を教えてもらいながら、畑したりと、キノコ山菜をとって食べたり、家を増築したり、というような、割りと自給率の高い暮らしをしていた。

今は地方都市に暮らしていて、仕事は相変わらず山奥で山仕事をしている、思えば3.11がなければ、このような人生を生きてはいなかったんじゃないかとふと思ったので書いてみた。

震災を忘れないで、と言うが、忘れてしまいたい人もたくさんいるだろう、辛い過去は水に流してもいいんじゃないか。

その人なりの向き合い方や忘れ方があるのだろうと思う、また石巻の漁師さんたちはすぐに海に出て漁師をやっているという、そしてその人たちは海を恨んでいないと言っていたと知り合いのボランティアが教えてくれた。
海は多くの命を奪った、けれども命をいただく場でもある、山も同じように思う、自然から離れて生きることは難しいように思う。僕にとって自然は危険なままでもいい、この仕事は危険だけれどもそれはどちらかと言うと僕にとってこの仕事の好きなところだ。

山はいつも僕の心の有り様を映し出してくれる鏡のようなものだと思っている、おごり、慢心があればいつも怪我をする、そうやって自然は僕に僕自身のことを教えてくれる。

震災の爪痕は厳しいものだった、そしてその様々な被災者から聴いた、体験談はここには書かないが、本当に書いてしまうだけでは伝わらない苦しみが無数にあった、その後山奥で暮らして聴く無数の話もまた、柳田國男の「山の人生」に出てくるような悲惨な話をたくさん聞いてきた。地方での生はまた都会とは違う過酷さがあった、けどそれは都会だって同じだろうと今では僕は思う。

あぁ、あれから10年も経ったのか、はやすぎる。走ってきたからだろうか。僕の体にはあの時に望んだ多くのものが吸収されているのを感じる、山も自然もそれを生き抜く力も体に染み込んだようにも思う。この地方で学んだ力を何かに活かしたい思う昨今である。

人生はころっと変わる、踏み出せば。テレビで見るだけの震災を生で体感する時それは変容する、僕の主観で言ってしまえば、テレビで見る、悲惨さは悲惨なだけではなくテレビでみるより悲惨でないところもあれば、テレビでは到底わからない深い悲惨さもある。また逆にただの可哀想な人たちなんてものもいないし、全員が手を差し伸べたいと思う人ばかりでもない、けど、それって当たり前の現実なんだよな。

テレビは側面しかわからないし、憶測を止めることができない、現地では自分がどう振る舞うか、同じように風呂に入らず土埃と悪臭の中、生活することで共感できるものもある、僕はそんな風にして、とにかく助ける人になるというよりは、同じ空気を吸って一緒に笑える人間になりたいと思う。痛みを分け合える人になりたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?