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江戸城が皇居になった経緯について

「江戸城の無血開城」後、多くの議論がなされ、決定にいたった。



〈目次〉
1.江戸(東京)が新首都へ
2.皇居が「江戸城西の丸」になった理由


1.江戸(東京)が新首都へ
江戸幕府は長きにわたり、江戸城を本拠に日本全国を治めてきた。

しかし、江戸時代の末期には幕府の力は弱まるともに、ペリー来航を始めとして、欧米列強が日本に押し寄せてくるようになった。

幕府の体制のままでは欧米列強とは対抗できない。この考えが国内で大きなうねりとなり、倒幕の動きへつながった。

そして、幕府と薩摩藩や長州藩などの倒幕派が激しい戦いを繰り広げるようになったのである。

倒幕派は江戸への総攻撃を決めていたが、倒幕派の西郷隆盛と幕府側の勝海舟との会談によって、わずか数日前に総攻撃は中止された。よく知られている、「江戸城の無血開城」となった。

ただ、江戸城開城の時点では、どこを日本の首都とするか決定していなかった。

明治新政府は明治天皇を主体とする政治体制を想定していた。そのため、当然のように、京都御所がある京都を首都とする案はあった。

一方、新政府の中心人物である大久保利通は、商業都市として栄えていて、京都にも近い大阪を遷都することを提案していた。

また、京都と江戸の両方を首都とすべし、という「東西両都論」もあり、真剣に議論がなされた。

そうした中、のちに「日本郵政制度の父」と呼ばれる前島密(ひそか)が「江戸遷都論」を唱えたのだ。

前島密が江戸を推す理由として、「新時代に蝦夷(北海道)の開発は不可欠であり、江戸のほうが近いこと」「江戸湾や横須賀など良港があること」「大阪市街より江戸のほうが広く、都市開発をしやすいこと」などをあげていた。

加えて、「江戸にある大名屋敷や官庁をそのまま新政府の役所に利用することができ、江戸城を皇居にあてがうことができる」という点を主張した。

京都にしろ大阪にしろ、役所の新築をはじめ大規模な都市開発が必要であるが、江戸を首都にすれば今ある建物をそのまま再利用できる。 

あわせて、天皇の住まいは、これまで最高権力者が住んでいた江戸城にすればいい、という考えである。

当時の新政府は深刻な財政不足だった。そのため、新たな都市開発をする余裕などはなく、結論として、前島密の主張が受け入れられることになったのだ。

そして、江戸城の無血開城から数か月後、江戸は「東京」に改称された。


2.皇居が「江戸城西の丸」になった理由
明治天皇が江戸城に入城したのは、東京と改称されてから約2か月後であった。

ただし、その時点では、正式に江戸城が皇居になったわけではない。

東京を首都にする方針は決定していた。しかし、天皇の住まいが京都御所から江戸城に変わることを発表した場合、歴史の点からも、大反発があがることことが予想された。

そのため、まず新政府は天皇が地方へ外出する「行幸」(ぎょうこう)※いう名目にして、天皇を江戸城へ迎え入れたのである。慎重に段階を踏むことが求められた。

※行幸(ぎょうこう)とは、天皇が居所から外出すること。

最初の行幸の際は、天皇はわずか2か月しか江戸城に滞在しておらず、翌年明治2年(1869)に2度目の東京行幸を実行され、その後、江戸城が天皇の住まい兼政務の場になることが世間に示されたのである。

なお、都を移すことを「遷都」と言いますが、明治新政府は結局一度も「東京が首都である(京都はもう都ではない)」とは発表していない。

ただし結論的には、天皇の2どめの江戸城入城をもって、東京に遷都したという事実は変わらない。

この東京行幸で明治天皇は、西の丸大手門から江戸城へ入城した。

なぜ、正規のルートである大手門ではなく、西の丸大手門から入ったのか? それは、本丸と二の丸がたいへん荒廃しており、使い物にならなかったためである。

時代をややさかのぼるが、文久3年(1863)に江戸城の本丸御殿が、慶応3年(1867)に二の丸御殿がそれぞれ大火で全焼していた。

本来であれば諸大名に命じてすぐに再建するのですが、幕末の動乱に巻き込まれていた幕府にとって、御殿を再建する経済的余裕も諸大名に命じる権威も失われていた。

幕府の機能や将軍の住まいは残った西の丸御殿に移されており、入城した明治天皇はこの西の丸御殿を仮住まいとしたのである。

もし、明治天皇が入城した段階で本丸御殿が健在であったなら、そのまま本丸に宮殿が建てられ、今も本丸を住まいにされている可能性が高かったと思われる。


参照元: 「城びと」ホームページ

以上

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