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アイデンティティと『こころ』

日本文学とクラシック音楽と着物と美術が好きでバレエをやっていたと言うと「趣味が高尚ですね」とか「教養がある」「育ちがいいんですね」とか男に言われがちなのだけれどそれに対して(イエイエ…)みたいなリアクションをする時間嫌い。教養とか、無いので。「へえ。無人島に一つ持っていくピアノソナタは何?」とか言われても困るけどさ。「ショパンコンクール、観た?!すごかったね!!」ぐらいの男って皆無?
教養。育ち。仮にそうだとして私は華族でも皇族でもないし、ただ私はそういうものに憧れているだけなの。

ジェンダー論とか、色々普段からかなり言っている方だけど

もし仮に私が明治の華族の長女だった場合、華族社会ですごく上手くやれる気がする。新しい女に憧れながらも、それなりの家のそれなりの男と結婚して家庭を上手くやっていくと思う。そういう才が自分にはあると思う。人類はないものねだりなので、そりゃあ不満はあるだろうけど。

いやもちろん明治の華族社会の厳しさは日高ショーコ先生の「憂鬱な朝」を読んでいるので知っているよ。けど多分私は、出来る。憧れは、強さだ。
人間は経験しないと何もわからないので、こんな憶測には何の意味も無いのですが…

中学か高校かの現代文の問題集にあった評論に「脱封建社会を図った現代はアイデンティティ喪失の時代で…」みたいなよくある文章があって(はいはい、わかりましたよ)と思っていたけど、『こころ』を読んだ瞬間にそのすべてを理解して(やばい。)と思えた。その評論と『こころ』の先生は全く同じことを言っているのに『こころ』を読まないとそのやばさは理解出来なかったのだ。
自分の知らない土地で起きた津波のこと、映像を見ても怖いばかりでピンと来なかったのに津波の被害に遭った少年の短歌を見た瞬間に涙がブワッと溢れてきた時と似ている。  

話が逸れた。結局人間は波の生き物なのですよ。アイデンティティを生まれで勝手に決めて欲しい時もあるし、自分は自分!!自由に生きてく!みたいな時もある。日々はその繰り返し。

でも漱石が(先生が)言った「現代人が味わわなくてはならない寂しみ」と言うのはそんな単純なもんじゃないんだよね。
“私は今よりいっそう寂しい未来の私を我慢する代わりに、寂しい今の私を我慢したいのです。” 
全員がこんな風にこころを大切に思えたらいいのにね。

会見で眞子さんが言った「多くの人が心を大切に守りながら生きていける社会となることを心から願っております」という言葉には、素晴らし過ぎて涙が出たよ。
漱石が聞いても涙を流すと思う。漱石は『こころ』で、誰よりも心を大切にする人間を描いたのだから。

あの会見に文句を言っている人は、『こころ』を読んでいないのだ。



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