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『おいしいごはんが食べられますように』のとんでもない面白さ


昨日、第167回芥川賞受賞 高瀬隼子の『おいしいごはんが食べられますように』を読んだ。すごく面白かったけど、とても心地よく心が傷ついた。読んでる途中母から電話がかかってきて出たら「どしたん?なんか元気ないやん」と言われて、思ったより自分が傷ついていることを自覚した。そのくらい面白かった。

近年の芥川賞は、発達障害である(明言こそされていないものの意図的にそうであると描かれている)主人公から見た「普通の社会」への問い直し、という文脈が続いていたが、今年はそこから一つ抜け出し、発達障害ではないけれど普通ではない人、普通ではありそうだけど性格に難のある人、という領域を絶対に出ないようにしていた。

登場人物の話に入る。押尾さんは私だし、芦川さんも私。二谷は私じゃないけど、二谷の意味を私はわかる。二谷は最強にキモい男だけど全然わかる。芦川さんとかほんとむかつくけど、でも、私でもある。この物語唯一の希望、押尾さん。でもさ〜押尾さんにとって本当の本当の本音は、芦川さんのことも二谷のこともパートのおばちゃんのこともまじでどうでもいいんだよね。食事についてどうか、とかもまじでどうでもいい。
この小説の1番面白いところは、一応「個人の食事への世界観」が全体的に漂うテーマとなっているのに肝心の押尾さんが二谷と芦川さんの双方の食事へのこだわりについて(まじでどうでもいー)と思ってるところだなあと思う。「美味しくて栄養のあるものを食べなくちゃ!」も、「そんなこと言うやつきも。ほっといてくれよ。1人でカップ麺が食べたいんだよ。」にも心の底では(うわー興味ねー)と思ってる。それが痛快で心地よい。押尾さん自身もそのことに積極的に気付こうとはしていなくて、二谷に合わせてあげることで自分のスタンスを理解しようとしているところが人間過ぎて良い。唯一の、優しい人。

押尾さんさえ私の職場にいてくれればなあ。

あと、押尾さんが職場を辞めた時、二谷が「弱いものが勝っただけ」と言っていたけど芦川さんは「強い人」なので、二谷も二谷で芦川さんに興味なさすぎで面白い。この女キモいし興味ないけど伴侶には良いかな〜。じゃないんだよ。二谷。そういうとこだよ。辞めてくれよ。でも芦川さんと二谷はお似合いである。驚くべきことに日本の熟年夫婦って、二谷と芦川さんなんじゃないかな?と思う。これは全て感覚の話だけど、昭和の夫婦の多くがこういう感じだと思う。昔の夫婦ってお互いに、真の意味では興味がないしお互いのことをわかりたくもないしわかることにエネルギー使いたくない、わかってしまったら一緒に居られないから。みたいな感じありますよね。なんとかやり過ごしながらキモい人と一緒に暮らすことに耐えられる。この人と結婚?まあ別に、みんなやってるし良いよ。みたいな。だから昭和の夫婦って侍なんですね。武士道ですよね。夫も妻も。昭和の日本では絶対にエドワード8世なんて現れない。でも、それこそが愛なのかも…というか日本人にとって愛はこの形が似合ってるのかも…とさえ思いました。
安吾とか太宰とか織田作の小説読んでると、その感じがある。お互いに軽蔑してるけど何故か一緒に居る。何故か?「誰かと一緒に居ること」が目的だから。というあの感じ。

かっこいい、とも言えるよね。我々ゆとり世代は恋愛に真剣過ぎて、そんなこと耐えられないし…

そのようなわけで、『おいしいごはんが食べられますように』は、個人の食事への世界観を取り巻く他人や自分への愛着と興味という点においては一見「新しいもの」を提示しながらも、戦後の文壇でしきりに無頼派が描いた日本古来の夫婦観にも通ずる愛の形の再分析の物語…。と思いました。



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