宮沢賢治と保阪嘉内の関係はBL化出来るか

宮沢賢治「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカムパネルラは賢治と親友の保阪嘉内説、を推している内の一人なんだけども、保阪嘉内と宮沢賢治の関係って、BLかBLじゃないか、なんてことを考えていたら今日も日が暮れそうだ。(因みに私は腐女子ではないんだけども)いや、BLかBLじゃないか、なんて不毛な議論、何の意味があるのだ。BLは全てを受け入れてくれる唯一無二のジャンルじゃないか。いや、馬鹿か、あるんだよ、それが。

そもそも児童文学を書く、なんてそんなこと、出版も出来ないのに、賢治はどうして生涯に渡ってやったか。賢治にとって、農学校で良い成績をとっても、いつまでたっても脅威だった父親から逃れられない、その弱くて弱くてどうしようもない自分を、「宗教的童話の中で掬い上げられずにはいられない。」からとdenshinbashiraさんは言っていた。自分を掬うため。かなり純粋無垢な動機である。

賢治と嘉内の関係性というのは、非常に拗れている。

①農学校の同級生・同じ寮で同じ志を持った友人、仲間として出会う
②文芸、絵、多様な芸術の才能を持っていた嘉内に賢治は憧れ、共感し、ぐっと仲良くなる。岩手山に二人で登って星を見ながら志を語り合う
③芸術好き同級生たちで同人誌「アザリア」を発行
④「アザリア」で嘉内筆禍事件が起こる。嘉内が学校を除名処分になる
⑤除名になり失意の嘉内に対して、賢治、自分の宗教に入信させるような手紙を送る
⑥その後会えない期間、嘉内は更に母の死という大事件があり(自分のせいなのでは…)等と苦しんでいる最中も賢治は嘉内に宗教勧誘全開手紙を送りまくる
⑦嘉内戸惑いながらもマインドコントロールされかける
⑧賢治も実生活でメンタルがやられ、怯む
⑨久々に実際会って話した時嘉内ブチギレ、喧嘩の末、決別

拗れ過ぎである。友情か恋情か曖昧だなあという印象を抱く可能性があるとすれば、②の段階以降だろう。
岩手山の上で二人で綺麗な星空を見ながら、「誰もが幸せになる社会をつくろう」と同じ志の確認をし、何度も何度も薪を焚べ、永遠のような時間を過ごした二人。BL漫画なら、恋が恋愛の確信に変わる最高のキュンキュンシーン。けれどもいくらこのシチュエーションがBLっぽいとはいえ、我々はこの事実だけでは友情か恋情かを判断することが出来ない。BL化することは出来ない。男性同士の結びつきという事象や女性っぽい言動をする男性を見かけただけですぐゲイと疑って差別したりする昭和世代や、目の前の男性(ゲイを自称している人も含め)に対してすぐ受け攻めを当て嵌めてそれを本人に伝え、自分の欲望を満たす腐女子が実在するので、それは暴力だと伝えたい。

しかし、少なくとも、賢治の、父親との関係、コンプレックス、国柱会への依存、上手くいかない社会人生活、妹への愛という混沌が、嘉内への特別視に吸収されていたということはほぼ間違いない。じゃなきゃ他人にあんな手紙を送らない。そして何より、ジョバンニはカムパネルラに、あんな気持ちを抱かない。

(ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないんだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうに談しているし僕はほんとうにつらいなあ。)
(こんなしずかないいとこで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい、僕といっしょに汽車に乗っていながらまるであんな女の子とばかり談しているんだもの。僕はほんとうにつらい。)

せっかく銀河鉄道の中で二人きりになれたのに、途中乗車してきた女の子と話すカムパネルラをみてつらい気持ちになるジョバンニ。嫉妬。可愛過ぎないか?(因みに良い感じになった男同士のもとに女が現れてどちらかがそれに嫉妬、というのはBLあるある)
なんとなく胸騒ぎがしてさびしい気分を「カムパネルラに埋めて欲しい」という欲望が読み取れる。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧わくようにふうと息をしながら云いました。

このシーンなどは、まさに先述の、岩手山での賢治と嘉内そのもののようである。
この関係性は、何か。

Ⅰ.只のホモソーシャルか?
否。ホモソーシャルは、女性や女性役割的なものを完全排除した男の絆によって社会を独占しようという欲が含まれる。誰もいない世界に「ぼくたち二人だけ」でいたいという欲や、この社会全員(全員とは、女性や他マイノリティも含めた本当の全員のことだ)の幸せという欲は、それと異なる。また、賢治のように、父親に支配され、弱く、文芸や宗教に傾倒する男性と、嘉内のように、「おっかさん」を気にかけながら、同じく文芸の才能に長けたエポックな男性。この二人の特徴と、恋情と疑われても仕方ない=ホモファビアを伴わない関係性は、ホモソーシャル的ではない。
Ⅱ.男色的か?
これも否。男色は、基本的に主従関係の上に成り立つ性愛である。武士と小姓。念者と若衆。買う者と売る者。下の者が女性の役割を担う。賢治と嘉内の関係は対等な場所からスタートしている。これはまた別の話になるが、井原西鶴の「男色大鑑」が2016年にBL漫画化され、国内外で話題になった。(そしてこの解説を書いている畑中先生の授業をその当時私は1番前の席で受けていた。)これによりBLと男色の違いは曖昧になったと言える。男色をBL化しても良い、むしろそれが面白い、となった画期的な発明だったわけだ。現在、BLと男色の境界線をどこに持ってくるかは、学者により異なるし議論が行われている。
Ⅲ.機会的同性愛か?
これは微妙なところがある。機会的同性愛とは、元々異性愛である者が、異性を得られない環境下(軍隊、刑務所、同性のみの学生寮,etc.)で、代償行為として同性を恋愛や性行為の対象に選択することを指す。by Wikipedia (ママ)である。
(これは男色に通ずるところもあるのだが…)確かに賢治と嘉内も男子寮での生活の中で、女性の代償として惹かれていったところがあるかもしれない。実際、賢治は生涯独身ではあったが恋を噂された女性もいたし、嘉内は結婚し子沢山だった。
しかし、機会的同性愛は、よく成長の途中で起こり、ゴールは異性愛に「戻る」という論じ方をされるが、一度でも同性を愛したことがあればそれは両性愛者ではないのか?理由を付けて「異性愛者」という、文化が作り上げた正常に自分や自分の身内を押し込めたいだけではないのか?人類は皆、ボタンひとつで性別など関係無く人を愛することが出来る動物ではないのか?と私は思ってしまう。(別に私は同性を愛したことがあるわけではないけれども、そう思う)まあ、機会的同性愛についての抑もの定義は置いておいても、何はともあれ、思春期に出会い仲を深めた賢治と嘉内は機会的同性愛の典型的な例に当てはまるが、思春期以降も熱心に嘉内に手紙を送り続け、三十を過ぎても、晩年までずっと「銀河鉄道の夜」の推敲を続けていたことは、あんなに神を熱心に信じていた賢治が “おれはひとりの修羅なのだ” と書くことは、単なる機会的同性愛という型に入れてしまうには無理がある何よりの証拠なのでは?との考えに至った。なので、結果、否。

と、いうことで、賢治と嘉内の関係は、「銀河鉄道の夜」他の作品と、事実を拾い上げるだけでも、BL化出来るのではないかという結論である。余白に妄想をぶつける、という、BLが満たしてきた本質的な欲望を、実際に生き、血の通っていた人間同士に適応するのは暴力的であるとの判断より、私なりに丁寧に向き合ったつもりである。

賢治と嘉内の二次創作、絶対に読みたい。


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