「推し、燃ゆ」感想

主人公のあかりに心底憤りを感じる。それと同時に、心底共感する。
終始破茶滅茶で、わけがわかることが1つもないが読み終わった瞬間本当にわかる、みたいな純文学が好みなのだけどこの推し燃ゆは全く逆で本当に理路整然としている側の物語で、ああ、本当に、わからないことがひとつもないな、という小説だった。なんて親切な小説。

推しを推す程度のことで生死だなんだ、オマケにいつまでもちゃんと働かない、愚鈍そのものだ。ああ、イライラする。こんな風にグダグダと、自分を主人公にしない人間は自分から逃げているだけだ。私ははっきりして欲しいときにはっきりしない人間は出来れば見捨てたいので、(人類は常にサバイバルだから)私とあかりがクラスにいても交わることはなく、私はあかりを横目になるべく交わらずにと意識さえしながら何となく過ごすだけだろう。自分の機嫌を取るために、あかりのような人間とはなるべく交わらず生きていかねばならぬのだ。

そして、推しの一挙手一投が大事件である毎日を私は知っている。よくわかる。推しの発言ひとつとって大騒ぎして、肩に熱を持ったり氷水を投げつけられたような感覚になったりすることは私の、推しがいる多くの人間の日常だ。おまけにどこにも居辛くて、なんの生産もしたくない、という気持ちも、完全に、わかります。人は皆ある程度孤独は感じているけれど、こういう、あかりのような孤独は、感じられる人間と感じられない人間に完全に分かれるよね。先述のようにあかりを肯定したくはないけど、でも本当は、人間全員があかりの気持ちをわかってくれるなら、戦争はなくなるし。

完全にこれはひとつの命の紡ぎ方のお話で、推しは宗教であり、政治であり、芸術である。人と神との関係値を描く小説は、切なくて儚くてたいてい美しいのだ。前にも書いた良い小説の条件、「その時代の空気が、手に取るようにわかること」これはそれを満たしている。歴史資料である。命のやりとりの記録である。これが100年後の教科書に載って、当時の人々にとっての「推し」とはどのような存在だったか、国語教師や歴史教師が鼻高々と語るのだ。まあまあバカみたいだけど、まあそうなのだ。

神を失ったら、人はどうすれば良いか。それでも生きていかねばならぬ、ということ。ていうかまあ死ねないよねあかりみたいなのは。死んじゃダメだと全く思ってないけど、生きていく神経の太さは持ち合わせている。繊細であるということと、図々しいということは完全に同居できるので…。

あと、少し気になったのは、発達障害やネットの誹謗中傷を小ネタ的に入れていたこと。物語では、そういう諸問題をあまり大きな問題として捉えないということこそがあかりをあかりたらしめているので、敢えて軽薄にしているのはよくわかるし、そうしなければならないこともわかるのだけれど、これによって傷つく当事者が居るよなあ、と思った。このことこそが今自分の中での大事件だった場合、こういう風に描かれることによって、気が楽になる人も居ると同時に、とっても気が重くなる人も居るので、小ネタとして触れるには重篤すぎる課題ではないかと思ってしまった。(小ネタではない、という意見もあると思いますけれど、それについてあかりがあまりに触れなさすぎでは…という)最近の漫画でこういう表現はよくあるけれど、思いがけず矢を刺されるので、少し痛い。小説でもこういうのが増えていくのかあ、と、ちょっと気が重くなった。

追記
Twitterで推し燃ゆを検索したら、『火花』の時のように小説を読む習慣のない人が小説を読む久しぶりの機会になっていたようだった。いいことだ。と同時に本を読むこと、純文を読むこと自体やはりハードルが高いということを実感した。人は本を読む人と読まない人に分かれ、小説を読む人と読まない人に分かれ、純文を読む人と読まない人に分かれる。本は読まないけれど純文はまあ読むというような私みたいな人から言いたいのは、新書より自己啓発本よりスキル本より何より、芥川賞受賞作品というのはハードルの低い読書であるということ!平成以降の芥川賞作品は平易な文章で30分〜1時間で読了可能で誰にも会わなくても喋らなくても簡単に他人の狂気に触れることの出来る、コスパも他のパフォーマンスも含め効率派の人に向いているコンテンツであること。小説を読まない人、純文学なんて難しそうで、、と言う人、日本語の日常会話が出来れば1時間で読めるので、芥川賞作品の中で気になったものとか有名なものを少しずつ読んでいくことは完全にオススメです。



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