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絶世の美女より、自分のことをまぁまぁ良いじゃんって思えてる方が幸せかも

小さい頃、私は自分がとっても可愛いと思っていた。何故なら、両親が事あるごとに「◯◯(私)が一番、可愛い。赤ちゃんの頃から他の赤ちゃんとは別格に可愛かった。」なんて、いつも言っていたから。

私は、都度そこまで喜ばず、ふんふんそうなのかと聞き流していたけれど、“わたしは、可愛い”という自覚を無意識に身体の根底に持っていた。

小学5年生位の時、初めて気付いた。(遅い)
私が特別に可愛い、のは、
親が、親だから。

小学校高学年にもなると、クラスでモテる女の子、男の子もわりとはっきりし出して、ハーフ顔の女の子や華奢で大人しい女の子が可愛いと認められることが分かってきた。

そんな衝撃的な事実が明らかになった後、本棚一杯に並べられた自分のアルバムを見返してみると、赤ちゃんの頃の写真も特別可愛くは見えない。普通に、赤ちゃんとして、可愛い。

ふむ。


でも、大人になって、
あの“わたしは特別に可愛い”という、誰と比べる訳でもない、根拠のない自信は、私の人格形成に大きな影響を与えたなぁと感じる。
(ここでいう“可愛い”は容姿的な意味合いより、存在そのものにフォーカスしていきましょう。)

小さい頃、バレンタインが近づくと、母は「チョコレートをあげたい男の子はいないの」と毎年聞いてきた。そして、ちょっと良いチョコレートを予め買っておいてくれて、あげたかったらあげなさいと言うもんだから、私は毎年誰にあげたいかなぁ?と考えた。

一番最初は小学校2年生の時、顔がシュッとして色白のT君にあげようと決めて、放課後職員室に行って、担任の先生に相談しに行った。
(書きながら、そんな相談を職員室にしに行くなんて!なんて可愛いの!と思ってしまった。)

昨今は個人情報的に勿論NGだろうけど、その時は先生がT君の住所を教えてくれた。先生は、周りに聞かれないようにこそこそ声で、「頑張ってね!渡せるといいね」と言ってくれた。

そうして、祖父母の家に帰って、その住所をおじいちゃんに見せると地区の地図を広げてくれて行き順を教えてくれた。初めての道なので、一人では心配ということで、おばあちゃんと一緒にT君のマンションへ。

ここまで振り返って書いてみても、私が相手に嫌がられるかもとか、周りに可笑しいと思われるかもとも思わず、「わたしはT君にチョコレートを届ける」という意志をただただ実行に移せたのは、誰と比較する訳でもない自分だけの自信のお陰な気がしてしまう。

ちなみに、日々T君に恋い焦がれていたとか、とっても好きで振り向いて欲しいとかいう強い気持ちがあった訳ではなく、ただただ、今年は誰にチョコレートをあげたい?という問いに、純粋に答えてみた、みたいな感じだった。

ホワイトデーには、T君のお母さん手作りのテディベアとお菓子の詰め合わせを頂いた。
目は黒いボタンで、手足も自由に動かせる、チェック柄の可愛いテディベアはずっと大切にした。


私も、自分の子や、親戚の子に、いや、
出会う子供達全員に、「あなたは特別に可愛い、特別に大切な存在」と伝えていきたい。

大人になるにつれ、可愛い人や綺麗な人はキリのない位居ることを知り、それにスタイルの良し悪しや、頭の良さ、要領の良さなんかも加わって、自分の中の自分の順位は落ちる一方。
“人と自分を比べない”ことは、難しい。

だけど、「特別」と言われ続けて養われた自己肯定感は、案外身体の細胞のどこかに生き延びていて、ふとした時に私を助けてくれるから。


P.S.
バレンタインのエピソードを書きながら、これ2月に書いた方が良くない?と思ってしまったけれど、今日書きたかったので、今日書きました*

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