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「自分で考えて理解して行動できる」ための教育システム

今日で2学期の修了式が終わり明日から冬休み!
息子たちは通知表を持って帰ってきました。

渡された通知表。中身で特段気にすることはないのですが、見れば見るほど「先生たちは大変だな」と思わざるを得ません。

なるべく生徒たちを傷つけることはしたくないのでしょう。

欠点についてもオブラートに包み、なるべく良いところを評価してあげようとする「苦しみの跡」が見て取れます。

テストの結果ならバシッと点数でわかるのにと思います。

それと比べて、なんだか先生に対する主観テストっぽい通知表の〇付けで何が分かるのでしょうか。

正直何を見ればよいのか私にはよくわからないのです。

そもそも論ですが、「日本の学校で教えられている常識が通用しない」時代にはいっているのではないでしょうか。

おそらくみんなそれに気づいているはず。だけど、うちの長男のように、口に出してしまうと問題児扱いされてしまうのですが。

少なくとも先進数か国だけで世界経済が回っていた時代は良かった。G7の時代、日本の常識は世界とはずれていたけれど、それでも世界の主流たりえた。

しかし、今や日本の常識は世界の非常識。滅びようとしている日本の教育システム。世界の最先端では全くない。この数十年変わってない。

長男は、漢字の書き取りで人一倍苦労しました。

一種のディスレクシアを抱えている彼には、書き取り訓練は苦痛でしかなかった。結局、「学校が嫌になるよりは」と、先生も書き取り練習を止めることに同意してくれました。

その時気づいたのです。

先生たちも「何でこれをやってるか」というカリキュラムへの疑問を呈することはできません。それは所与の仕事であり、否定することは教師の職の放棄を意味します。

面と向かって問題提起すると問題児扱い。でも、やむを得ない事情にまで追い込まれてやっと「やらなくてもいいんだよ」と言う事が可能になるのです。

先生たちも解放されるのです。

歴史の長い会社、官僚組織等々、どこも一緒だと思います。

確立されたシステムに対して、「そもそも何でこれやってるの」という疑問を抱くことは相当難しい。

小学校低学年では鉛筆の持ち方を徹底的に学ばされます。鉛筆の持ち方矯正のための鉛筆が売られるくらいですから深刻な問題です。

そもそも、日本語には日本語を教えるための「国語」という教科があり統一して教える「型」が決まっています。

でもね、本来、鉛筆も持ち方も書き順も綺麗にかければよいものであり、相手に快く伝わる字を書くことが目的だったのではないでしょうか。

それが、「型」に嵌められ、書き取り訓練となり、ただひたすらに数をこなすことが目的となってしまった。

最近私が感じるのは、小さいころに私が教わった鉛筆の持ち方だと「中国語の楷書が書き辛い」という事です。

で、よくよく見て見たら、中国人でもいろんな持ち方する人がいることも分かりました。

アルファベット26文字しかないアメリカなんかでは鉛筆の持ち方を気にすることはなさそうです。

欧米人を見ていると実に多様な、それぞれ好き勝手な持ち方をしていることが分かります。英語は現実的な言語であり型も多種多様であるというのはあるでしょう。

もちろん我々が教わったような綺麗な持ち方をしている人も多くいます。

教わったというより、綺麗な字を書くために自分でたどりついたのでしょう。

我々が教わった鉛筆の持ち方も、正しい漢字の書き順も、全ては幻想なのだと思います。でも先生たちはそれに対する疑問は抱くことが許されてはいない。

今、これほど変化の激しい時代だからこそ、改めて「何のためにやっているか」を考えるようにしたい。

ただ単にカリキュラムをこなすのではなく、「何のためにやるのか」を子供たち自身が「自分で考えて理解して行動できる」ようにしなければいけない。そう強く思います。

ところで、アインシュタインもエジソンもダ・ヴィンチもディスクレシアだったといわれています。

定型の教育システムに当てはまらない人達。社会には一定レベルでそういう人が必要なのになと思うのです。



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