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顧客体験は、市場に贈与を割り込ませる営みなのかもしれない

こんにちは。XD編集部員/CX DIVE構成員の柏原(@tkashiwabara09)です。

2020年5月5日の『爆笑問題カーボーイ』の冒頭では、40分程度にわたって『岡村隆史のオールナイトニッポン』における不適切発言(4月23日放送回)とその翌週の「公開説教」(4月30日放送回)について、太田光が持論を展開した。

分断は、不可視のうちに進行してしまう

彼は、現代日本の社会階層、特に世代間格差が孕む問題から先の不適切発言の背景を理解しようとする。その要約は難しいのだが、「社会の分断は、その分断が認識されないときに最も進行するし、分断は分断が認識されなくなることで完成してしまう」という話なのだと、わたしは理解した。

コロナ禍という危機において分断が可視化されたという認識は、東日本大震災を特集テーマとした『思想地図β vol.2 震災以後』の東浩紀による巻頭言「震災でぼくたちはばらばらになってしまった」を想起させる。

 ぼくはさきほど、震災でぼくたちはばらばらになってしまったと記した。
 正確にはぼくは、震災前からぼくたちはばらばらだった、震災はそれを明らかにしただけだと記すべきだったかもしれない。
 一億総中流の幻想はとうのむかしに消えた。そして戦後の日本は平等を超える理念をなにひとつ産み出してこなかった。日本人は「みな同じ」でなければ連帯することができなかった。だから格差の拡大は確実に連帯を蝕む。だれもが知るように、「失われた20年」にはその事態が進行した。世代間の連帯、地域の連帯、職場の連帯は急速に解体した。(東浩紀『思想地図β vol.2 震災以後』p12)

分断は不可視のうちに進行してしまう。進行してしまった結果が今である。放っておくと、気づくことができない。わたしたちは麻痺している。麻痺していることを自覚できていない。では、どうやったら気づくことができるようになるのだろうか。『爆笑問題カーボーイ』を聴きながら、そんなことを考えてしまった。

贈与から考える

実は、その手がかりには思い当たるものがあった。松岡圭一郎『うしろめたさの人類学』という書籍である。昨年末に彼が編者のひとりを務める『文化人類学の思考法』を読み、おもしろかったので他の著作も購入したのだが、とうぜん積読していたのだった。

『うしろめたさの人類学』は文化人類学の本なので、「贈与」の説明から始まる。文化人類学において贈与とは、マルセル・モース『贈与論』に端を発する重要な発見であり、概念である。

贈与は、商品交換との対比で理解される。コンビニでビールを200円という金銭と交換する。これが商品交換である。一方、誕生日に同僚からビールをプレゼントされる。これが贈与である。贈与は往々にして、贈与らしく演出される。ふさわしくラッピングされるだろうし、値札は取り除かれる。贈与の贈り物は、そのモノ自体と過程において、それが商品ではないということが明示される。

モースはこの贈与から社会システム全体を記述しようと試みるのだという。

古くから多くの社会で、交換や契約は贈り物のかたちで行われてきた。表面的には自由意志にもとづきながら、実際には義務として与えられ、返礼されている。モースはこの「義務」の生成に注目して、現代にもつながる道徳と経済との関わりを考えようとした。そこには、自己利益の計算だけに終始する世界が出現することへの危機感があった。
 モースは、贈与が法や経済、宗教や美など、社会システム全体に関わる減少だと考えた。本書もこの考え方にならおうと思う。贈与的な行為を、正反対の行為だとされる「商品交換」や「市場」、そして政治の制度である「国家」との関係のなかに位置づけてみる。他者とのモノや行為のやりとりが社会/世界を構築する作業であることを確認しながら、そのどこを動かせば変えることができるのか、その手がかりを探したいと思う。(松村圭一郎『うしろめたさの人類学』p18-19)

ここで贈与の機能を詳しく記すことはできないが、ポジティブな側面ではなく、さまざまな機能を有しているということは理解しなければいけない。感謝や慈愛の意味だけでなく、返礼の義務が生じてしまうなかで、返せないほどの贈り物を贈り、相手の名誉を傷つけ従属させる「ポトラッチ」という儀礼もあるという。

商品交換が経済的行為なのであれば、贈与は非経済的行為である。非経済的ということばには、人の思いや感情を付加するという含意がある。先ほどのコンビニの例のように、交換は脱感情化され、匿名的になされる。一方で贈与では贈る相手の顔を浮かべられ、ゆえにモノに感情を込めることができる。

この交換と贈与の区別は、人と人の関係を意味づける役割を果たす。同じモノのやりとり(例えば食事の提供)であっても、家族であれば贈与(=非経済)としてなされるし、飲食店であれば交換(=経済)としてなされる。このやりとり自体が、わたしたちのさまざまな関係のありかたをかたちづくる。家族だから贈与するのではなく、贈与するから家族、なのだ。

「うしろめたさ」という感覚を活性化させる

『うしろめたさの人類学』も、分断をテーマにしている。日本国内ではなく、エチオピアでのフィールドワークから、地球規模での格差にどのように向き合うかを考えるのである。ここでもやはり、格差や不均衡が不可視のものとされてしまうことが問題とされる。そこでは、「うしろめたさ」という自責の感情が、格差への感覚の活性化に貢献する。

まず、知らないうちに目を背け、いろんな理由をつけて不均衡を正当化していることに自覚的になること。そして、ぼくらのなかの「うしろめたさ」を起動しやすい状態にすること。人との格差に対してわきあがる「うしろめたさ」という自責の感情は、公平さを取り戻す動きを活性化させる。そこに、ある種の倫理性が宿る。(松村圭一郎『うしろめたさの人類学』p174)

そして、この「うしろめたさ」の感覚を養うには、市場や国家という、匿名的で、人と人の関係を解消させる力の働く領域のなかに、贈与を割り込ませることだという。贈与によって人同士のつながりをつくりだし、倫理性への感受性を高めることが大事なのだ。

市場と国家のただなかに、自分たちの手で社会にスキマを見つける。関係を解消させる市場での商品交換に関係をつくりだす贈与を割り込ませることで、感情あふれる人のつながりを生み出す。(松村圭一郎『うしろめたさの人類学』p178)
「働く」ことは、市場での労働力の交換だと説明される。この「あたりまえ」の理解が、労働が社会への贈与(会社への贈与ではない)にもなりうることを見えなくする。
 市場のなかにも、どこかで「わたし」の働きの成果を受け止め、生きる糧としている人がいる。市場交換によって途絶され、隠蔽された労働の贈り手と受け手のあいだをつなぎなおすことで、倫理性を帯びた共感を呼び覚ます回路が生まれる。
 誰になにを贈るために働いているのか。まずそれを意識することから始める。「贈り先」が意識できない仕事であれば、たぶん立ち止まったほうがいい。(松村圭一郎『うしろめたさの人類学』p179)

市場のなかに贈与を割り込ませる=CX?

人々の倫理的な感受性を高めるためにビジネスをするという人も企業も存在しないと思うが、ここでいう「市場のなかに贈与を割り込ませる」という在り方は、わたしたちが優れた顧客体験を体現していると思う企業の実践に重ねるように思えてならないのだ。以下の木村石鹸やコクヨへのインタビューがその例である。

木村氏「メーカーにいると、どうしても『出荷数』が興味の軸になっちゃうんです。でも、『最終的に何万個売れた』という数字からは、実際にそれを使ってくれてる人の姿が見えにくい。その方々がどのくらいの回数や期間使ってくれているのかもわからない。

僕は、本当に重要なのってそこだと思うんですよ。個々のお客さまとどれだけ深く関係を持って、どれだけ長く信頼が築けているか。そこを誇れるような会社に、木村石鹸がなれたらいいなと思っています」
そこで見えてきたのは、勉強を通じて、保護者もコミュニケーションをしたいと思っていることです。保護者は子どもの学習態度が悪いと、ついガミガミと言ってしまうもの。背景には、勉強を通した子どもとのコミュニケーションをなくしたくない気持ちもある。「どうにか子どもを勉強に取り組ませたいし、そこに自分も関わりたい」という思いが強いとわかりました。

「子どもが楽しく家庭学習できればいい」と考えていたのですが、これはそうじゃない。製品開発の軸にするべきは「親子の関係」だと感じました。子どもが努力した結果を、保護者がほめてあげることができて、子どもがさらに努力する。そのサイクルを回すことが本質なのだと気がつかされたのです。

木村石鹸は、顧客を数に還元するのではなく、一人ひとりの人として向き合い、長く深い関係を形成することを目指しているし、コクヨは顧客との実際の対話から、自分たちの戦略を改めてプロダクトの価値を再整理している。彼らは、顧客を匿名的にしないということを志向している。

顧客体験を別の語彙で捉えれば、別の可能性が見えてくる

そもそも顧客体験とは、商品やサービスの価格や機能性といった物理的な価値だけではなく、それらを通して得られる満足感や喜びというような感情や経験の価値も含めた概念だとされる。

この概念は、消費者にとっては自分の享受する価値が適切なものとなり、企業にとってのビジネスの成功を約束するにとどまらず、わたしたちの倫理観を養い、社会問題を紐解く営みになる可能性を秘めているのかもしれない。うまく整理はできていないが、そのようなことを思ったのだ。

顧客とのつながりは、マーケティングの語彙ではCRMやLTVなどに変換される。しかし、たとえば文化人類学のような別の語彙で顧客とのつながりを捉えてみると、顧客体験のまた違う、豊かな可能性がみえてくるのではないだろうか。

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