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娘はインドネシア人

私にはインドネシア人の娘がいます(笑)

高校生の時に留学したアメリカでは、ホストファミリーをはじめたくさんの人に助けてもらった経験があります。縁があって日本にいる人たちの助けになりたいと常々思っていたところ、当時住んでいた自治体から連絡があり、ASEAN諸国から招聘する留学生のホストファミリーを引き受けてもらえないかと打診があったため、喜んで引き受けました。

その招聘プログラムは2週間の予定でしたが、日本をえらく気に入ったリタワティはインドネシアへ帰国後すぐに日本の大学への留学を決めたと連絡がありました。住むところを探しているというので、「じゃぁ家に住めば?」という流れで、1年の予定で一緒に暮らすことになりました。

当時の私は26歳、リタワティは23歳だったかな。
ほとんど歳が離れていなかったと記憶しています。

新婚家庭に新妻と同じ年頃の女性が一緒に住み始めたのですから、ご近所の方からしてみたら実に不思議な光景だったと思います。

彼女は中国系インドネシア人でしたので、中国語が大変よく出来ました。
中国語、インドネシア語、英語、そして日本語までもをモノにしようと、日本の大学に通いながら、勉強とアルバイトに没頭する毎日を過ごしていました。

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インドネシアから「サンバル」 という唐辛子がベースと思われる甘くてスパイシーな調味料を大量に持参しており、私が作る料理には、和食だろうと、イタリアンだろうと、中華料理だろうと、何でもかんでもこのサンバルをたっぷり振りかけて食べていました。

私の心の声:「これじゃあ、何を食べたってぜ~んぶサンバル味で、元の味なんて何が何だか分らないだろうがっ(泣)」

夏にかき氷を作ってあげると、今度はサンバルではなくアヴォカドをすり潰してペースト状にしたものをこれまたたっぷりトッピングし、上からチョコレートソースを何往復もさせて美味しそうに食べていました。

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お互いの文化や生活様式についてもたくさん学び、リタワティは時には大きな娘の様な存在、時には妹のような存在でした。そんな生活も半年ほど経った頃でしょうか、リタワティはまだ大学在学中でしたが、大阪の企業に就職が決まったと報告がありました。

私の心の声:「リタワティ、知らない間に就職活動をしていたのか!なかなかやるなぁ。(感心)」

リタワティ、その後

ほどなくして大学を中退し、大阪へ行ってしまうことになりました。
私は就職に際し、日本に於ける彼女の身元責任者を引き受けましたので、東京を離れる前に企業の採用担当の方と電話で話しをした際には、

「リタワティをどうぞ宜しくお願い致します」

愛娘を嫁に出すような気持ちでした。

彼女は9年間その会社に勤務し、その後にジャカルタへ戻りました。それからソウルの大学に留学をし、今度は韓国語をマスターしました。

当時、ソウルに家族旅行をした時にはホテルまで会いにきてくれましたが、日本人と変わらないきれいな発音の彼女に驚いたものです。

ソウルから再びジャカルタに戻った彼女は、日本企業の現地法人で10年間勤めました。
彼女に最後に会ったのは4年前、日本に遊びに来たときが最後ですが、Facebookの彼女の投稿はいつも「正しい英語」と「正しい日本語」の両方で書かれており、日本語の正確さが進化していて、私の日本語、負けそうです。。。

とにかくたくましい彼女の生き方はとても印象的です。

一昨年、韓国人の男性と結婚をして、今はソウルに住んでいる大きな娘、リタワティにそろそろ会いたいなぁ。

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