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『新しい階級闘争』読んだよ

本書の主張を要約すると、今日のヨーロッパと北米の民主主義諸国には、一方に大都市で働く高学歴の管理者マネジャー(経営者)や専門技術者プロフェッショナルからなる上流階級オーバークラスが存在し、もう一方には、昔からその国で働いてきた人びとと新しくやってきた移民とに分裂した大多数の労働者階級が存在し、両者のあいだで階級の二極化が進んでいる、ということである。かつて労働者階級の市民の利益を守り代弁していた旧来の機関(労働組合、宗教団体、地域政党など)は弱体化するか壊滅したため、政治・経済・文化という三つの領域において、管理者(経営者)エリートと彼らが支配する非民主的機関(官僚、司法、企業、メディア、大学、非営利組織など)への権力の集中が進んだ。

マイケル・リンド『新しい階級闘争』


マイケル・リンド『新しい階級闘争』読みました。

著者のマイケル・リンドはアメリカの政治学者。
冒頭の引用で著者自身で要約されてるように、本書は欧米民主主義社会における「高学歴の上流階級」と「労働者階級」の間の政治的分断と対立を解説した一冊になります。

「大都市エリート」対「土着の国民」という上下対立の時代

今までは政治的対立と言えば、左派と右派の間、つまり左右の間の対立と見る図式が定番でした。
しかしながら、今やその様相は変わり、主流の左派も右派も高学歴の上流階級が占めるばかりで(政治家のほとんどは大卒)、左右によらず政治権力の中枢(インサイダー)に自分たちの代弁者がいない非大卒労働者階級がアウトサイダーとして押しやられているというのが著者の指摘です。もはや政治対立の構図は「左右」ではなく「上下」の対立になったのだと。
書籍の帯にある【「大都市エリート」対「土着の国民」】というのは、この対立をよく象徴しています。

政治家が高学歴の上流階級だらけになっただけでなく、世の権力の方針決定やその執行が、官僚や司法、あるいは専門家などの非民選のテクノクラートやプロフェッショナルに大きく依存するように「大都市エリート」が仕向けているがために、民意を広く拾うという意味での本来の民主主義は危機に瀕してしまっている。すなわち、民主主義が「大都市エリート」に骨抜きにされてしまっていると。
これが副題の「大都市エリートから民主主義を守る」に込められた著者の警鐘です。

「新自由主義テクノクラシー」対「扇動的ポピュリズム」

こうした「大都市エリート」の専横、すなわちグローバル新自由主義テクノクラシーに対する反抗という意味で生じてきたのが、ドナルド・トランプ元米大統領に象徴される扇動的ポピュリズムです。
つまり、人々の「大都市エリート」への怒りがあまりに高まりすぎて、トランプのような反抗的な民衆指導者に支持が集まるようになっているのだと。

この流れから分かるように著者は「大都市エリート」に批判的な立場なのですが、かといってトランプのようなポピュリストを支持しているわけではなく、むしろこちらも同様に強く批判していることに注意が必要です。
かような扇動的ポピュリズムは、民衆の扇動は得意でも統治能力やビジョンを持っていないために、テクノクラシーを打倒する十分な実力はないし、仮に打倒できたとしてもそれはそれで無茶苦茶な社会になる大惨事になるだろうと著者は言います。
ただ、このような無茶苦茶な扇動的ポピュリズムが生じたのは元はと言えば「大都市エリート」が専横的な振る舞いをし続けているからであり、扇動的ポピュリズムを肯定する必要はもちろんないとはいえ、それは「大都市エリート」のテクノクラシーという社会病理に対する自己免疫反応のようなものだと著者は厳しく指摘するのです。

あくまで本書は欧米社会についての分析ではありますが、日本でもポピュリズム的なお騒がせ議員が登場していたり、都市と地方の格差問題があらわになってきていたりして、全然他人事ではない問題です。

生々しい対立の分析と描出が本書の特徴

さて、実を言うと、こういった「テクノクラシー」VS「ポピュリズム」という構図での分析自体は、最近はしばしば言われるようになっており、言うほど珍しいわけではありません(巷で広く語られるほど普及もしてませんが)。

たとえば、哲学者マイケル・サンデルの『実力も運のうち』でも、高学歴テクノクラシーへの批判が強くなされていましたし、経済学者トマ・ピケティも「バラモン左翼」「商人右翼」と評して左派右派どちらも結局は高学歴者支配に陥っている現状を指摘しています。

ですが、リンドによる本書は政治学者の著作だけあって、現実社会の生々しい事例や、現在のグローバル新自由主義テクノクラシーの体制が成立した経緯を詳しく解説されているのが特徴で、これはかなり勉強になりました。
「共通善」などの哲学や倫理の形而上学的議論に寄っているサンデル本よりも、現実的な話が多い本書を好む方は多くいそうです。

たとえば、トランプ陣営は陰謀論者として悪名高いものがありますが、そのトランプを批判するヒラリー陣営も、荒唐無稽な「ロシア陰謀論」で反トランプキャンペーンを張っていたことが詳らかに紹介されています。

2016年のアメリカ大統領選挙での「ロシア恐怖症」説を信じるには、アメリカの黒人有権者や中西部の白人労働者階級の有権者の心理に影響を与える方法について、ロシア政府に近いインターネット調査機関のスタッフやその他ロシアの破壊活動家たちのほうが、ヒラリー陣営やトランプ陣営の選挙スタッフよりもはるかに熟知していたと考えなければならない。ロシア人は、黒人の民主党員が2016年にヒラリーに投票する数を2008年と2012年の大統領選でオバマに投票した数よりも減らすにはどのミームや流出メモを使えばよいかを心得ており、さらにまた前回オバマに投票したかなり少数派の白人労働者階級に2016年の大統領選でトランプに投票させるにはどの資料を使えばよいかを正確に知っていたと考えなければならない。これは、ロシアのインターネット操作の能力を買いかぶりすぎているうえ、控えめに言っても、これら二つの有権者グループを非常に見下している。

マイケル・リンド『新しい階級闘争』

言わば「五十歩百歩」「目くそ鼻くそ」「同じ穴のムジナ」みたいなもので、どちらも自分たちにとって感情的に納得しやすい陰謀論を無批判に信じているだけという点で、さほど変わりなかったのだと。
これはなかなか悲しい惨状と言えるでしょう。とくに、高学歴の肩書をもって知性や合理性を謳うテクノクラシー陣営がコレでは嘆かわしい限りです。

「大都市エリート」支配の問題点の指摘がてんこ盛り

その他にも、グローバル新自由主義の推進による労働力アービトラージに伴う労働者階層の社会的地位の低下や、タックスヘイブンを活用した租税アービトラージの解説、民選の議会ではなく非民選の司法によって解決すべきとするジュリストクラシー(裁判官の支配)の紹介など、なかなか興味深くて濃い話が盛り沢山あって、非常に面白かったです。

エリート層による無意識的な非専門職労働者蔑視に対する批判も非常に鋭くて、全くもって考えさせられます。

 最悪なのは、これら三つの学派とも、労働者階級のポピュリストが起こす反乱に対処するために、労働者が労働者以外の何者かになれるチャンスを提供することで、労働者が普通の賃金労働者であることを何か恥ずべき時代遅れであるかのように感じさせようとしている点だ。教育を万能薬として擁護する者の多くは、賃金労働者を専門技術者にしたいと考えている。普遍的資本主義を提唱する者たちは、賃金労働者を投資家にしたいと考えている。反独占主義者は、賃金労働者を小企業のオーナーにしたいと考えている。
 1930年代にケインズが「金利生活者(不労所得者)の安楽死」を予測したように、彼ら改革派は「労働者階級の安楽死」を提案しているのである。新自由主義のユートピアは、労働者のいない楽園なのだ。

マイケル・リンド『新しい階級闘争』

アンコンシャス・バイアス無意識的な思い込み・偏見」は「大都市エリート」が好む用語でありますが、まさに「人の振り見て我が振り直せ」というところと言えるでしょう。

リンドの提言する「民主的多元主義」という第三の道

さて、本書が指摘の通り「新しい階級闘争」の状態に現状陥ってしまっているとして、私たちの社会はこれからどうしたらいいのか。

著者のリンドは現状の「大都市エリート」と「扇動的ポピュリスト」のせめぎ合い、シーソーゲームはどちらに転んでもひどい社会になるとして、どちらにも与しません。
そこで、著者が掲げているのが第三の道である「民主的多元主義」です。

この「民主的多元主義」の解説は著者もすごく力を入れているところで、江草が一言二言で解説するのは忍びないのですが、めちゃくちゃざっくり言うと、労働組合や教会(宗教団体)、地域政党などの中間共同体を再構成し、それら多様な共同体同士の拮抗力で民主主義社会のバランスを取るという構想です。イメージ的には社会コーポラティズムや連邦制主義という雰囲気です。
つまり、グローバル新自由主義社会に特徴的な、個人がバラバラのsocial atomの状態であってはテクノクラートの寡頭制を止めることはできないから、団体の力を見直そうというわけですね。

これは別に斬新なことを言ってるわけではありません。
日本も含め、労働組合が強かった時代、教会や檀家制度のような地域の宗教組織を軸にしたつながりがあった時代というのはあったわけですから、過去に実績はあるやり方です。また、日本の医療界では医局とか学会とか医師会とかそういう団体組織が(その盛衰に議論はあるものの)まだ存在感や交渉力を持っていますし、一部では十分現役であるやり方とも言えます。

で、グローバリズム新自由主義がこの辺の中間共同体の絆を破壊しつくしてしまったので、ここらでグローバリズムの方針を取りやめ、自国を保護的に扱うナショナリズムの方針に転換し、再度中間共同体の力を取り戻すことが必要なのだというのが著者の主張になります。

労働組合の復活を求めるのは『給料はあなたの価値なのか』でもありましたし、新自由主義革命で弱体化した中間共同体の復権というのは、現代社会批判の文脈において定番の提案ではあると言えます。

そんな「民主的多元主義」に戻れば良いという簡単な話?

だから、もちろん一理はあると思うのですが、江草的には「そんな簡単な話じゃないでしょう」とも感じてしまっています。

中間共同体が今や虫の息であることにグローバル新自由主義の隆盛が寄与していることは間違いないところでしょう。ただ、だからといって、中間共同体が衰退したのは果たしてグローバル新自由主義という「敵」だけのせいなのかというのは、立ち止まって今一度考えるべき問いと思うのです。
つまり、衰退した中間共同体たち自身にも本当に落ち度はなかったのかと。

中間共同体は良くも悪くも閉鎖的なコミュニティであるがために、上意下達な固定的なヒエラルキー構造が構築されたり、パワハラやセクハラが横行したり、いじめが起きたり、脱退を許さなかったり、保守的で改革や新しいやり方の導入に腰が重かったりと、美点とは思えない性格も数多くあると思うのです。
医療界で言うと、医局なんかがこういう感じですね(昔より随分マシになったみたいですが)。

もちろん、こういった昔ながらの中間共同体の閉鎖的で保守的な性格を江草が「問題だ」とみなすこと自体、昨今支配的な新自由主義やリベラルな価値観に影響されてるからこそではないかとも言えます。そのことは否定しません。
ただ、当の著者が現在のテクノクラート新自由主義の体制を「エリートによる中央集権制である」と批判している以上、それに代わる中間共同体を基盤とする民主的多元主義が結局のところ「中間共同体内のエリートによる中央集権制」であったら説得力に欠いてしまうのではないでしょうか。

実際、本書内において著者のリンドは次のように中間共同体内部におけるエリート主義を肯定しています。

大衆参加型の組織は、いかなる形態であれ、他の諸々の権力の中枢から独立した独自の指導者を持たなければならない。たとえ指導者の多くが高学歴家庭の出身者であっても同じことだ。デイヴィッド・マーカンドは、次のように述べている。

介入的な国家の力をチェックするために(多元主義者が)頼みとする対抗勢力は、自衛する能力を備えていなければならない。対抗勢力は、無政府主義的なコミューンではありえないからだ。対抗勢力は指導される側になることも必要である。そもそも「指導」とはエリート主義的である。多元主義者にとって、エリートのいない世界でも生きられるという考えは、権力のない世界でも生きられるという考えと同じくらい愚かしく危険である。権力をチェックするのが権力であるならば、エリートに対抗するのはエリートである。

 これまでの労働組合、政党組織、宗教団体は腐敗と無縁ではなかったが、現代も同じようなものであろう。民主的多元主義の体制といえども、他の政治制度と同様、私的利益を追求する経済的誘惑には弱い。それでも、比較的少数のエリートが経済や政府やメディアを支配しがちな中央集権体制と比べれば、多数の小パワーブローカーからなる体制のほうが、汚職は露見しやすく、阻止するのも容易である。

マイケル・リンド『新しい階級闘争』

中間共同体の内部にあっても、なんらかの形で指導者による統制が必要だという意見自体はもちろん理解できます。ただ個人が集まっただけの烏合の衆であったならば、中間共同体という形態に期待される十分な力は発揮できないでしょう。

ただ、この箇所からも感じられてしまうのは、リンドの中間共同体に対するナイーブな楽観です。

たとえば「小パワーブローカーからなる体制のほうが、汚職は露見しやすく、阻止するのも容易である」としています。要するに「中間共同体の方が自浄作用がある」という言い分なのですが、ある種の中間共同体的な職能集団と言える日本の医局で横行する無給医問題や研究不正問題などを見るに、本当にそうだろうかと思わざるをえません。

むしろ、一般的にいっても小さくて影にあって風通しが悪い箇所にこそカビは生えるものではないでしょうか。目立たないし、バレないし、外の人たちには理解できない独自文化が確立されてるとなったならば、ズルをするにはうってつけの場所と言えます。(もしかすると日本の医療界だけが酷いんだよと言われるかもしれませんが)

もちろん、絶対的な権力を握った中央集権体制も当然腐敗はするでしょうから、あくまで「どっちもどっち」という話だとは思うのですが、リンドに関しては妙に中間共同体側に肩入れしすぎではないかと感じてしまいます。

中間共同体も生まれ変わらないと民主的多元主義は復権できない

このように、旧来の中間共同体側にもこうした窮屈な点、一般メンバーからすると不満に思われるであろうと思われる点が多々あることからすると、テクノクラート新自由主義を批判するだけで十分とはとても思えません。

テクノクラート新自由主義を打倒すべく、民主的多元主義を掲げて中間共同体の復権を訴えても、この「どっちもどっち」の比較であれば、必ずしも中間共同体が民衆から選ばれる保証はないでしょう。「確かにテクノクラート新自由主義もどうかと思うけれど旧来の閉鎖的で束縛が強い中間共同体よりはマシ」と言われても全然おかしくはありません。

というよりむしろその比較において、テクノクラート新自由主義に見事に敗北したからこそ中間共同体の今の没落があるのではないでしょうか。

リンドの言う通り、20世紀半ばにそうした中間共同体が隆盛を極めた民主的多元主義の時代があったのでしょう。しかし、その隆盛の裏側でその歪みや腐敗も着実に進んでおり、人々の不満が高まった。そこに現れたのがグローバル新自由主義で、窮屈な中間共同体の束縛から逃れる自由をもたらす救世主として喝采を浴び、一躍主流派に躍り出た……と。
もちろん、新自由主義にも多々の問題があり、やっぱり完全無欠で理想的な救世主ではなかったわけですが、こんなストーリーは十分考えられます。

これは皮肉なことにリンドが提示している「テクノクラート新自由主義という病気に反抗して扇動的ポピュリズムという症状が出た」という構図に瓜二つです。すなわち、全盛期に民主的多元主義が調子に乗って歪みきったがために、結果、新自由主義という「症状が出た」のではないかと。

だから、中間共同体を軸とする民主的多元主義を復権させたいと本気で考えるならば、新自由主義を批判するだけでなく、「人の振り見て我が振り直せ」と中間共同体のあり方そのものも反省し再考しリニューアルオープンするぐらいの気概が必要になるでしょう。
ただただ「昔の民主的多元主義は良かった」と言ってるだけなら、"good old days"をノルタルジックに愛でる懐古主義でしかありません。

この辺はNHKスペシャル『中流危機を超えて』で、労働組合代表のコメンテーターの方がただ「労働組合の組織率を再び高めるべき」と言うだけで、特別反省の弁がなかったことも思い出されます。

ここは、ただ昔を懐かしむだけでなく温故知新の精神で新しい社会の未来像を描くべく創造性と想像力を最大限にふくらませるべきところと思います。

現代社会が抱える難病の病態を見事に描き出した良書

もっとも、色々ケチはつけましたが、リンドが支持する民主的多元主義のアイディアは確かに一理ありますし、考えるにたる良い提言であると思います。ただ、問題が人類規模の難問であるがために、そのアイディアひとつだけで一筋縄に行くものではないというだけのことです。

難病を診断することより、難病を治療することの方が難しいものです。治療するのが簡単であったら難病ではありませんよね。
しかしたとえ治療法が思いつかないまでも、難病の病態を診断することは極めて重要です。なぜなら病態を明らかにしない限り、有効な治療法をヤマカンに頼らず検討することはできないのですから。

その意味で、現代社会が患っている「テクノクラート新自由主義」という難病の病態を丁寧に描出したリンドの本書の仕事はそれだけで素晴らしいもので、その解決策が完璧でないことは別にこの成果を毀損するものではないのです。


というわけで、気づいたらすでに7000字を突破してしまった本稿。(なんてこったい)
まだまだ本書には語りたいところ(ツッコミたいところ)がたくさんあるのですが、一応本筋については語ることはできましたし、それらは付録に置いておくとして、ここらで一度、中締めにしておこうと思います。

現代社会における最重要課題と言える対立構造を丁寧に分析し、独自の主張も提示されてる本書。江草もこれだけ勝手に語ってしまってることにも表れてるように、色々と考えさせられること受け合いの刺激的な一冊で、オススメです。


付録

というわけで、語り尽くせてなかったツッコミを付録としてつけておきます。(できるだけ短くしようとしたのに結局付録も長くなったので本稿はのべ11000字超えです。どひゃー)


「大都市エリート」を悪役扱いしすぎ

本書はとにかく「大都市エリート」の寡頭制を批判しまくっています。著者の立場上仕方ないところもあるのかなあと思いつつも、やっぱりちょっとここまで「大都市エリート」を悪役扱いしてるのはやり過ぎ感も覚えます。

本書を読むと、「大都市エリート」は権力を欲しいままにしてこの世の春を謳歌しているようにすら見えますが、実のところはそういうわけではないでしょう。

タワマン文学」が流行するなど、本書の視点からすれば勝ち組のはずの大都市エリート層も、そこはかとない虚無感や疲労感を覚えていることが分かります。
都会のホワイトカラーとして生きていくのも、激しい競争があったり、嫉妬の渦に巻き込まれたり、仕事等々でとにかく多忙であったりと、まあ大変なんですね。

確かに社会的地位や金銭的報酬は高いけれど、そうした多忙で窮屈な人生を送っているうちに、ふと我に返って「果たして自分は幸福なんだろうか」と自問自答して苦悶する。これが、リンドからすると「勝者」であり「悪役」であるはずの「大都市エリート」の実際のところでしょう。

昨今、本屋に平積みされてる自己啓発本のラインナップからもこうした苦しむエリートたちの姿は透けて見えます。
たとえば、『ロングゲーム』の著者ドリー・クラークは売れっ子コーチ、『限りある時間の使い方』の著者オリバー・バークマンはジャーナリスト、『エフォートレス思考』の著者グレッグ・マキューンは企業コンサルタントと、いずれも「大都市エリート」たるに相応しい面々ですが、揃いも揃って自著の中でその「大都市エリート」的な多忙で窮屈な生き方に苦しみ、人生を省みた経験を吐露しています。

イメージ的には『ジャケット・バンク』のこのシーンの感じです。

田中一行『ジャケット・バンク』
田中一行『ジャケット・バンク』


つまり、言うほど「大都市エリート」は、全能感にあふれていたり、多幸感にあふれている感じではないのですよね。

この辺の「傷だらけのエリート」に対する同情的視点はサンデルの『実力も運のうち』では描かれていたところです。
しかしながら、本書『新しい階級闘争』ではこのエリート層への同情的な視点がほとんどなく、ちょっと一方的すぎてフェアでない印象を受けるのです。

それに、リンドが主張する民主的多元主義を実現するにも「大都市エリート」だってその多元性の中の一集団として包摂すべきところでしょう。あまりに「大都市エリート」を敵扱いしては、社会のパワーバランスがまとまるところもまとまらないのではと懸念します。

確かに、苦労をしていることは免責されることを正当化はしませんし、実際に権益は多分に受け取ってはいるものの、それでもやっぱり「大都市エリート」だって現在のグローバル新自由主義体制の行き過ぎにあえぐ被害者仲間でもあるわけです。

だから、むしろ同じ社会課題に取り組む仲間としてうまく率いれるべきで、この点を無視して「いくらでも叩いていい悪役」として非難しすぎてしまうのは、かえって対立を深化させる恐れもあり、あまりいいやり方ではないのではと思います。


ベーシックインカムに対する批判への反論

本書ではベーシック・インカムについても触れていますが、リンドはベーシック・インカムについては否定的な見解を示しています。

ベーシックインカムは、すべての国民が、働かなくても最低限の生活が送れるようにするものである。不満を抱く有権者をなだめるための小規模な再分配は、多くの欧米諸国で試みられるにちがいないが、大規模な現金給付案は多くの理由から絶望的である。

マイケル・リンド『新しい階級闘争』

ベーシックインカムは、階級闘争を終わらせ、社会正義を促進するどころか、政治的にはホッブズ的な「万人の万人にたいする闘争」を煽ることになりかねない。

マイケル・リンド『新しい階級闘争』

つまるところリンドとしては、フリーライダーを排除しようという機運が高まるなどして人々の間の政治的闘争がむしろ激化するといった理由から、ベーシックインカムは現実的ではないとしています。

実際、リンドが指摘するようにベーシックインカムの導入や実践には大きな政治的ハードルがそびえ立ってるのは事実でしょう。
ベーシックインカムにより政治的な対立が露わになりうる点についても、江草は過去に既に指摘済みです。

ところが、それを言うなら、リンドの言う民主的多元主義だって、実現するに十分に大きな政治的ハードルがありますし、政治的対立が激化して「万人の万人にたいする闘争」もしくは「群雄割拠の春秋戦国時代」になりうるでしょう。

なにせ、国内で互いに政治的拮抗力を持つような団体を複数築き上げようというわけですから、それぞれの団体が実際にそこそこの社会的地位を獲得するために「我こそが」と押し合いへし合いする政治的対立は必発です。
それに、先ほど江草が指摘したように、一度離れた人心を取り戻すためには新しい形での中間共同体として作り変えないといけない可能性があることを考えると、旧団体と新団体の間の対立は当然出現するでしょう。
考えるだけで、これらを平和裏に調整することは至難の業なのは明らかです。民主的多元主義だって、全然一筋縄で行くものではありません。

つまり、民主的多元主義にせよ、ベーシックインカムにせよ、いずれにしても困難な道であり、本当に確実にうまくいくなんて保証はありませんから、大変なギャンブルに身を投じなければいけない点で同類です。

どの方針を採るかは、最終的には好みや価値観(各個人が抱いている理想的な社会ビジョン)の違いによることになりますが、だからといってリンドがベーシックインカムを現実的でないと簡単に一蹴してしまうのは、(立場上仕方ないとはいえ)民主的多元主義に甘すぎるのではと思います。


「生産性」へのこだわりの危険性

本書でリンドは度々、「生産性」へのこだわりを見せています。

国の経済発展には、「国の生産性向上」と「国の繁栄の分配」という二つの目標がある。生産性の向上は、スタグネーション(経済停滞)の苦境のなかにあって輝いている一部の先端産業にとどまらず、すべての業種で促進されなければならない。

マイケル・リンド『新しい階級闘争』

社会保険制度の財政的持続可能性を実現する合理的な方法としては、労働者一人当たりの生産性の向上、給与税以外の税収、増税、給付金の削減などがある。

マイケル・リンド『新しい階級闘争』

反グローバリズムの立場として、自国の経済的地位を保つためには結局のところ生産性を向上させることが不可欠だという考えのようなのですが、「生産性」にこだわるのはリンドの立場的には危険なのではないかと感じます。

というのも、まずもって「生産性」の扱いは、それこそ「大都市エリート」が長けており、いわば「大都市エリート」が管轄する概念です。それゆえ「生産性が大事だ」と「生産性」にこだわってしまうことは、リンドが批判する敵に塩を送るようなものです。

そもそも、本書の中で「生産性」の概念が既に「大都市エリート」によって捻じ曲げられてしまっていることを指摘しているにもかかわらず、結局はその「生産性」から脱却できないのはリンドのスタンスに矛盾を感じます。

大都市の上流階級が流すプロパガンダに見られる利己的な神話のなかでも最も不条理なのは、ハブのほうがハートランドよりも「生産性が高い」という考えだ。これは、生産性を収入と同一視した場合にのみ意味を持つ。この基準に従えば、もしアメリカのすべての億万長者がワイオミング州ジャクソンホールに移住したら、この高級リゾート地は一夜にして全米で最も「生産性が高い」地域になってしまう。

マイケル・リンド『新しい階級闘争』

※ハブは「大都市」、ハートランドは「地方」みたいなイメージです
(実は正確な定義ではないですがとりあえずここはその理解で十分です)

そもそもリンドが掲げる民主的多元主義において大事なのは、多様な諸価値が社会の中で認められるようにすることではないでしょうか。
たとえば、教会を軸にする共同体であれば宗教的価値を重視するのであって、「生産性」という経済的価値を目指すものではないでしょう。
あるいは、医療や介護、教育、保育といった業種では、それぞれ固有の「人間主義的価値」が重視されるのであって、やっぱり「生産性」が目指される価値とは思われません。

にもかかわらず、ここで「全ての業種で生産性向上が必要」などと、あっさりと画一的に経済的価値を目指すべきものとして置いてしまうのは、民主的多元主義のビジョンというよりは、それこそ「大都市エリート」の発想であり、まさしくリンドが忌み嫌う新自由主義的イデオロギーであるとさえ言えるでしょう。
グローバル新自由主義を批判するならば、むしろ「私たちは生産性ばかりを重視しすぎたなあ」と反省すべきところです。

もちろん、だからといって生産性向上の意欲をきれいさっぱり捨てさる必要はありません。生産性向上はなんだかんだ言って人類社会にとって一定の意義があることだと思います。
ただ、この辺のジレンマの存在を感じさせないままにするりと「生産性向上」という文言が出てしまうのは、リンドの考察の脇の甘いところではないかと感じました。
せめて「真の生産性とは何か」の問いを掘り下げることで、新たな「生産性」像を再構築しているなら分かるのですが、特段そのような再構築の素振りはなかったので、ちょっとリンドの検討は不十分かなあと思います。

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