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『ベーシックインカム×MMT(現代貨幣理論)でお金を配ろう』読んだよ

スコット・サンテンス『ベーシックインカム×MMT(現代貨幣理論)でお金を配ろう』読みました。

異端とされるMMTと、異端であるMMTerの中でさえも異端とされるベーシックインカム(BI)をかけ合わせる異端×異端と言える入門書。

『逆資本論』の井上純一氏が紹介されてるのを見て本書の存在を知ったのですが、「うわー、ついに来たか」という感じ。

実を言うと、江草も前々からこの立場の考え方の人間です。ただ、専門家でもないし、異端な考え方なのは重々承知していたので「自分の考えが足りないだけかもしれないな」と確たる自信まではなかったのが正直なところ。

そんな中、露骨にそれを主張する本書を見かけてしまったからには「こりゃ読むしかねえ」と買わざるを得ませんでした。


本書はきっちり100ページと、なかなかにショートなボリュームの書籍で、すぐ読めてしまいます。
それだけ短くて軽い本なので、一般的な経済書のような重厚な議論がなされてるというよりは、ちょっとしたパンフレットやガイドブックのような軽い文体で進行します。

言ってみれば「勧誘のための本」という印象は否めません。著者のスコット・サンテンスはどうやら活動家的な方のようなので、それで広報パンフレット風の仕上がりになったのかもしれません。

といっても、内容は決して扇情的、扇動的ではなく丁寧で、手に取った時の印象以上にちゃんとポイントはおさえられていて驚きました。

たとえば「お金を刷るだけ刷ってみんなにバラまいたらインフレになるんじゃないの?」みたいな誰もが抱くであろう素朴な基本的疑問にはちゃんと対応していています。
インフレという現象はそんな単純なものでないことを、簡潔に分かりやすく解説しているのにはけっこうな腕前を感じました。なかなかやりよる。


おおまかな構成としては、前半でMMTの考え方の解説、後半でBIの解説をして、そして終盤で2つを組み合わせることによる相互作用のメリットを説明してまとめるという感じです。

アイディアの基礎的な骨子はいくぶんアナロジー説明的ではあるものの、丁寧に紹介されてるので、MMTとBIのそれぞれの入門書としてもオススメできる内容となっています。

「お金ではなくて現実資源の制約に注目することがMMTの真髄」と明言していたり、「BIでなくJG(雇用保障)にこだわることは無意味なブルシットジョブの蔓延につながりかねない」と警鐘を鳴らしてたり、江草個人的な立場とかなり重なっていて、同意するばかりでありました。

とくに、「財源無視してお金を刷れば解決!」的な一部の短絡的MMT支持者や、「仕事(賃労働)は全て有意義であるはずだ」的な勤労主義者と、きっちり一線を引いているのは、本書の冷静で素晴らしいところと思います。

実を言うと、江草は性格がとても悪いものですから、「隙あらばツッコミを入れてやろう、クックック」とけっこう構えて読んでいたのです。にもかかわらず、あんまりツッコミどころがなくって拍子抜けしたぐらいです。

……ううむ、けっこういい本なんじゃね?


と言いつつ、ここからは江草が本書に不足しているように感じたポイントを勝手に補論していこうと思います(個人的な関心領域にクリーンヒットすぎて読後の勢いで無性に色々語りたくなってるだけとも言う)。
以下、本書の内容から離れた江草の私見が大量に含まれますのでご注意下さい(しかもアホみたいに長いです)。


思うに、現代社会には2つの大きな信仰対象が存在しています。「お金」と「仕事」です。もっとも、この2つは完全に独立しているわけではなく、「お金」を稼いでくる活動ゆえに「仕事」も重きを置かれてるところはあると言えます。

そして、MMTは「お金」に対する信仰(ex.「借りたお金は返すべき」)を解体し、BIは「仕事」に対する信仰(ex. "no work, no pay.")を解体するアイディアです。現代社会の二大信仰に疑問符を突きつけている。
それゆえMMTやBIは異端であり、そこかしこでその是非を巡っての論争が巻き起こっているわけです。
しかも、片方だけでさえも十分にモメるのに、MMT×BIと両者をかけ合わせてしまった本書は異端中の異端なので、社会に対するとんでもない挑戦状となっているわけです。

だから、もしこのMMT×BIというアイディアの妥当性を認めるにしても(江草はもともと支持的な立場ですが)、必ず社会に政治的な動揺と混乱がもたらされる内容なのですよね。絶対サラりとは通りません。

実のところ、MMT×BIの社会的実装にあたっては理論的な問題というよりはこうした政治的困難の方がよほど大きなハードルと言えます。すなわち「それができれば苦労はしないよ」的なものです。

一応本書でもこうした政治的ハードルに関しての記述はちょろっとありますが、少々あっさりしてる感じなので、その難しさを読者が実感できるようには思えません。本書において一番の難点を指摘するとすれば、このハードルのヤバさをサラリと流してしまっているところでしょう。(もっとも、最初から大変な部分を強調してしまえば、支持者を増やすことにはつながりにくいでしょうから、明るい面を目立たせたくなる気持ちは分かるのですが)


そしてまた、社会の共通信仰を解除してしまった後の社会運営の大変さについてもほとんど意識されてないように見える点は気になりました。

たとえば、MMTを実装するにあたっては財政規律のタガが外れるがために、「何に財政支出を用いるか」の議論がとても重要になります。本書も指摘の通り「MMTを取り入れたからといって何にでも政府が支出していい」というわけではありません。たとえお金の制約を気にしなくて良くなったとしても「現実世界の資源」の制約がある以上「愚かなこと」や「無駄なこと」に資源を費やすことは促してはならないのです。

ところが、財政規律(予算の制約)がなくなった途端「何に支出するべきか」の議論は混迷を極めることは必至です。

子どもがおもちゃをねだる時に「うちは貧乏だから」とかわすことにしている親御さんの話を聞いたことがあります。ほんとは裕福なご家庭なので多少のおもちゃは買えないはずはないのですが、「うちは貧乏だから」すなわち「予算の制約があるから」としてしまうのが、あーだこーだと子どもと口論をするのを避けるための生活の知恵になってるわけですね。「買えるけれど買わない」のではなく「買えない」とする方が問答無用にできる。

これと同様に、実のところ政治における「財政規律」の役割は、架空の制限(建前)を持ち出すことによって議論が延々と続くのを打ち切ることにあると言えます。すなわち「予算」は「現実の資源の制約」の便宜上の代理指標として機能してる。

「それもやるべきだとは思うけれど、なにせお金がないんでね」と言えば、それはそれである程度もめるにしても「仕方がない」と議論を打ち切りやすい。それでもなおやるべきだと頑なに主張する人に対しては、逆にその人に「では代わりに何をやめるべきなのか」を説明させる責任を負わせることで勢いを削ぐことができます。

ところが、ここで「お金がない」という建前の制約が取っ払われると、「○○をやるべきだ」という人に「(たとえお金の問題がなくても)○○はやるべきではない」と突きつけるという真っ向勝負が避けられなくなります。

「お金がないから反対する」と「お金はあっても反対する」は全く似て非なるものです。なぜなら前者はたとえ建前だとしても一応は「やる意味は否定しないけれど」とその価値を認めるポーズが取れるけれども、後者は完全に「やる価値」自体を否定しないといけないので「価値観の正面衝突」の構図になるからです。

これは想像するだけで大変に難儀で大変な作業であることはお分かりかと思います。

ここで、双方が十分に理性的で建設的な議論ができるのであれば、こうした「価値観の衝突」の議論も成り立ちうるとは思います。ただ、人間は往々にして感情的で自身の信念に固執するものです。結局は議論が建設的な方向に向かわず、双方ともに相手を誹謗中傷するただの口喧嘩となって、深刻な対立や分断に陥りがちというのは、昨今のSNSなどで皆様がご観察の通りです。


結局のところ、MMT×BIという、あまねく大衆に権力(お金)を分配するシステムを支持する人は大衆の理性と倫理を信じている立場です。大衆に力を分配しても(建設的な議論も含め)きっとうまくできるはずだと、信じているわけです。

一方で、現状で富を蓄え社会的権威を確立しているエスタブリッシュメント層(エリート層)の少なからずはとてもそれを信じられないし(大衆に権力を分配すると必ずや衆愚政治になると思っている)、わざわざ自身の富と地位の正当性を揺るがすような面倒な政治的議論もしたがらないので、エリート主義とパターナリズムの姿勢を崩さないことになるでしょう(子どものおねだりを問答無用でシャットアウトする親のような態度ですからまさにパターナリズムと呼ぶにふさわしい)。

これぞまさしく昨今の世の中で色濃く見られているポピュリズムとエリート主義(テクノクラシー、メリトクラシー)の対立の構図です。


先ほど、話の流れ上、SNSでの不毛な議論の蔓延を引き合いに人々の理性に対する不信の根拠を挙げてしまったので、ここで逆方向のフォローもしておきましょう。

SNSの不毛な議論の例だけでなく、一部のトランプ元大統領支持者の非合理性や暴力性を持ち出して、「これだから愚かな大衆に任せてはおけん」とするエリート主義的な立場の論者は少なからずいます。

しかしながら、だからといって必ずしも「大衆は愚かである」とか「衆愚政治になる」と決めつけることはできません。

たとえば、人は周囲から期待された通りの能力を発揮するという「ピグマリオン効果」や「ゴーレム効果」を考慮すると、エスタブリッシュメント層が「大衆は愚かに決まっている」という大衆不信を最初から掲げてるからこそ、実際に大衆が愚かな行動をしてしまうのだと反論することができます。

あるいは、欠乏に伴う「トンネリング」の問題もあります。
人は貧困などの欠乏状態に陥ると、「トンネルに入ったかのように」思考の幅が狭まってしまうとされています。つまり、大衆に富や余裕を適切に分配せずに欠乏状態に陥らせているからこそ、「トンネリング」により一部の大衆が愚かな行動をしてしまっただけだと反論できるわけです。

つまり、大衆をハナから疑うようなことはせず、人々の理性と倫理をただ信じ、「トンネリング」に陥るのを避けられるほど十分な富と余裕を大衆に与えれば、必ずや大衆は立派に社会の担い手としての務めを果たすであろうという理屈が成立します。

お気付きの通り、こうなるともう「鶏が先か卵が先か」的な水掛け論になるわけです。
「大衆は愚かだから任せられん。賢く適切な行動を取れる優秀なエリート層が富と権力を握るべきだ」VS「大衆は愚かだから任せられんと言ってエリート層が富と権力を独占するからこそ人々の愚かさが誘発されるのだ」の構図です。


結局のところ、MMT×BIを採用するかどうかは、経済が云々というよりも「人間を信頼するかどうか」にかかってるということになります。

「人間なんて怠惰で利己的で愚かでズルいことも悪いことも平気でするんだから信じてはいけない」と思っていたらMMT×BIには反対でしょうし、逆に「人間は欠乏状態におかれなければ利他的で理性的であり悪いことを進んでするようなことはないと信じられる」と思っていたらMMT×BIには賛成するでしょう。

最近、人は利己的か利他的か、性善説か性悪説か、といった議論が盛んに行われているのは、私たちがどのような人間観の立場を採るかどうかが社会のあり方や政策方針を如実に左右することを、皆うすうす感じ取っているからでしょう。

ただ、お察しの通り、どのような人間観を採るかどうかというのは個々の価値観(そして人生経験)に大きく依存します。ゆえに、社会全体の大きな傾向としてどのような人間観に基づくべきかどうかという議論もまた「価値観の正面衝突」となります。

したがって、MMT×BIを採用すべきかどうかという議論は、一見すると経済学的な議論のように思われるかもしれませんが、その実かなり生々しい政治的な議論なのです。

経済学的概念として仮設された「お金」や「仕事」という「社会の不動点」および「社会の緩衝材」を取っ払おうというのですから、それは建前として社会を包んでいた経済学的なオブラートを取っ払って、直接的な政治的議論に踏み込むことに他なりません。
いわば「天動説」から「地動説」に転換するぐらいの大きなパラダイムシフトになります。揉めないはずがないのです。


なのですが、ちょっとこの辺の政治的困難さの描写が本書には乏しい。

たとえば、帯には「増税なしで国民が一律給付を受け続ける。誰もが幸せになる経済社会が実現可能なことを本書は教えてくれる。」という経済アナリスト森永卓郎さんの言葉が記されてますが、正直言って「あまりに軽すぎる」と江草は感じます。

あるいは著者は「(予算による制約がなくなるからこそ)エビデンスに基づく政策立案に取り組むのが重要」と主張されてます。
この主張の理念自体は江草も同意するものの、各自の政治的インセンティブが入り混じった時に「エビデンスベースド」のポリシーがいかに容易に歪みうるかを知っているからこそ(現代の医療者はみなつくづく痛感してるはず)、あまりに楽観的すぎるように感じてしまいます。(ex.「キャンベルの法則」)
著者は「お金」や「仕事」への信仰は持たない一方で、「エビデンス」に対しては少々ナイーブに信じ込んでしまっているように見えます。


……と、色々厳しいことを言ってるので不思議に思われるかもしれませんが、先にも述べた通り、江草はあくまでMMT×BI支持派です。江草はなんだかんだ言って人間を信じてるからです。

ただ、MMT×BIというのは相当の覚悟を持たないと進めない道であろうとも思うのです。MMT×BIは「お金」や「仕事」という蓋で封印されていた、数多の政治的対立を社会に解き放つようなものでパンドラの箱を開ける行為に等しい。
まあ、けっこう本気で向き合わないといけない大変な決断です。

かといって、見て見ぬふりをしてそのまま開けなかったとしても(MMT×BIを採用しなかったとしても)、決して「箱の中の問題」が消えてなくなるわけではないし、社会的な歪みは密かに一層進行していくだけでしょう。
それはただの先延ばしです。
結局私たちはどこかでいつか開けざるを得なくなるはずです。(そうでなければ否応なしに何かの拍子に臨界を突破して大爆発するかでしょう)

それゆえ、この道を「これでみんながハッピーだね」という軽い感じで促すのは、あまりにその挑戦に至る重さと覚悟を欠いていて、少々不誠実じゃないかと江草は思ってしまうのです。

なにせ、MMT×BIというアイディアは人を信じていなくては支持しえないのです。にもかかわらず、それが大変な道のりであることを隠し楽観的なノリで勧誘するのは、それこそ人を信じてないやり方ではないでしょうか。

人を信じる立場であるからこそ、厳しい面も包み隠さず皆で共有した上で進む。つまり、Informed ConsentやShared Decision Makingのような、互いを信頼し苦楽を共にするやり方でなければ、(良い面だけ見せて勧誘するほうが)短期的には即効性があって良く見えても、長期的には結局は新たな歪みを生みかねないと思うのです。

それゆえに、本書の著者と違って、江草はけっこう厳しいこともこうやって書いてしまう次第です。たとえ厳しい側面を突きつけられたとしても、それでもなお自律と自立と自由の道を人々は自ら選ぶはずだと、そう江草は信じています。


もっとも、別に著者を責めているわけではありません。

そもそも今の世の中が社会に潜む政治的対立を経済学的な理屈で覆い隠して、臭いものに蓋をしているのですから。

著者はそうした「これはあくまで政治的な問題ではなく経済合理性における客観的議論でございますよ」という一般的な建前に対して、それならばとシレっと経済学的なレイヤーでツッコミを入れてるだけ、つまり「相手に合わせてるだけ」とも言えるので、生々しい政治的な問題にあえて触れてないのは確信犯的なところがあるのかもしれません。


というわけで、直接的な読書感想よりも江草の勝手な余談の方が長いぐらい色々語ってきちゃいましたけれど、これだけ語れるぐらい今の社会の急所を突いた本であるとも言えます。

実はちょっとばかし翻訳が硬い感じがあって読みにくさはあるのですが、ボリュームが軽いのもあって読破に全然苦労はしないと思います。

ぜひ、多くの人に読んでいただきたい一冊です。

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