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COTEN RADIO ゴッホ編聴いたよ

ポッドキャスト番組COTEN RADIOのゴッホ編を聴きました。

まだ最初の方しか全員向けには公開されてませんが、江草は有料会員(COTEN CREW)なので、アーリーアクセス特典で全4回を早々と聴けちゃうのです。

今回は超有名な画家ゴッホの生涯を追う、ヤンヤンさんプレゼンスのショートシリーズ。

江草は全然美術に明るくなくって、ゴッホについても、ゴッホ兄弟をモチーフにした漫画作品『さよならソルシエ』を大昔に読んだことがあるぐらい。

なので、江草はほとんどノー知識オブゴッホです。


して、聴了。

※以下ネタバレ(?)と言うべきかは分かりませんが、全回聞き終えた上での感想なので、未放送回の内容を聞きたくないとか、その辺気になる方はご注意ください。


今回のゴッホ編。前もってかなり重たいシリーズとして語られてましたが、確かにとてつもない衝撃シリーズでした。

深井さんは言葉を失うし、樋口さんは泣き崩れるし。

COTEN RADIOでこんな展開は初めてだなと。

深井さんが言うように「すぐにこれは感想を語れないし語るべきではない」というのはほんとそうなのでしょう。

言葉でどう表現しても不足してしまうような、そんな圧倒的な人生がそこにあった感覚があります。

なので、こうしてまさに江草が感想をすぐに書いてるのは野暮なところがあると言えます。ただ、逆にそうして受け止めきるのが難しい内容であったからこそ、聴いたまま心の内に溜めておくことができず、感想を書かずにはいられなくなったという感じなんですよね。

この爆発するような想いをただ抱えてられないから、吐き出さないといけない。

ちょうど今回のシリーズの中でも、芸術は溜めておけなくなって「排泄する」ように生み出される側面がある、という話も出てましたけど、それとも似てるかもしれません。

なので、完全にゴッホ理解したからまとめてみるとか、良い感想を書いてやろうとか、そういう意図はなく、本稿は以下、あくまでゴッホ編を聴いた衝撃の逃避先として書き殴るように書き下ろした感想ですので、理解不足やバイアス等々が多々含まれてることはご容赦ください。


で、江草的には過去1番COTEN RADIOで衝撃を受けたのは「やなせたかし編」だったのですけれど、

今回のゴッホ編は別の角度からの衝撃が強い形です。

やなせさんも苦境は多々あったとはいえ、最終的には人生に前向きな光が出てきたところがあった。けれど、ゴッホは本当に魂が救われないまま苦しんで人生を閉じた感じがあってつらいんですよね。

しかも、当の本人はもちろん、周りの人々も最大限努力した中で、それでも否応なしにそうなってしまった感が強い。このやるせなさ、救われ無さが、ほんとうにきつい。どうしたらよかったんだろう、というか、どうしようもなかった気がしてしまって、途方に暮れます。

「ヤマアラシのジレンマ」という有名な寓話があります。ヤマアラシは互いに仲良くなりたくって近づこうとするのだけれど、近づいたら針が互いを傷つけてしまって、どうしても理想的なところまでは近づけなくて寂しい想いをしている、というたとえ話ですね。

多分、ゴッホはこの針が特に長くて鋭かったのでしょう。近づくとあまりに痛いので、誰もそばに居られない。両親も、ゴーギャンも、そして最大の理解者である弟テオでさえそうだったと。なんなら教会でさえ彼を包摂できなかった。しかし、ゴッホ自身は孤独が嫌で、それでもなお誰かとともに居たいと切望している。

ここで「針をなんとかしろ」と言うのは簡単です。それは誰もが分かっていた。でも自他共に「なんとかならんか」とこの針を格闘したけれど、結果なんともならなかった、下手するとより針が鋭利に長くなっていったというのが、ゴッホの人生であったように感じます。

このジレンマの大きさが、彼をずっと満ち足りない状況に置いてしまった。

これを果たして誰がどうすることができたのかと考えると、暗澹たる気持ちになってしまいます。


ゴッホは「狂気の画家」とよく言われて、江草も今回聴くまではそうした粗い理解だったのですけれど、聴き終わった結果「狂ってるとは何だろう」と考え込んでしまいました。

「狂ってる」と言うと、ぐちゃぐちゃで支離滅裂なイメージを抱かせますけれど、彼はむしろ彼の理想に真っ直ぐ過ぎたのかもしれない。ピュア過ぎたのかもしれない。理想の家を持って、芸術仲間とコミュニティを作って、家族も持ちたい、貧しい人々を救いたいと願っていて。

その想いの発露としての言動が自他共に困らせるものであったけれど、彼が願っていたものは、すごく素朴で純粋で誰もが共通して願うような幸せだった。ならば、「狂ってる」とは何だろうと。

当初精神病院に入れられることを拒絶していたゴッホが、最終的には入所することになって。自分が狂ってることも自覚していて、最後まで自身の狂気に抗い続けていて。江草も研修で精神科の閉鎖病棟を回ってた経験があるので、その頃出会った方々のこともふと思い起こしてしまいました。

人生というのは、人間というのは、ほんとうにままならないなと。


それで、ゴッホ編の最重要キーパーソンが先ほども少し触れたゴッホ(兄フィンセント)の弟であるテオですね。(『さよならソルシエ』でもテオがフィーチャーされてます)

資金面なりあれこれの手配だったり、問題ばかり起こす兄にテオが最期まで献身的に尽くす姿が、すごく印象に残りました。

時には喧嘩もするし、同居も長続きしなかったけれど、それでもずっと関係を絶やさずに支援し続けていた。これは本当になかなか出来ないことだなと。すごく陳腐な言い方ですけど「愛」がないとこれはなしえないなと感じました。

テオの生き様からふと思い出したのが、この書籍『天才を殺す凡人』でした。

「天才」は「天才」であるがゆえに人々の共感が得られずに孤独になりがち。でも、別に「天才」だって孤独で良いと思ってるわけではなく、やっぱり孤独は嫌なんですよね。理解してもらいたいという想いがある。

そんな「天才」に必要な存在が「共感の神」であるという話がこの書籍で出てきます。「天才」の才能を信じ抜く「共感の神」が天才の抱える心の闇を防ぎ、社会の中ではどうしても必要になってくる「根回し」といった実務面も裏側でサポートすることで、天才が生み出したものが世で活かされるようになると。

なんとなく、これがゴッホ(天才)とテオ(共感の神)に重なって見えたんですよね。実際、テオ(とその妻)の大変な尽力のおかげで、ゴッホの作品は世に残り評価されるようになったわけですし。ゴッホの才能を信じ続け、常に肯定してくれる最大の理解者として、そしてまた資金援助などのサポートをする実務家として、テオが支えてくれていたことがゴッホの人生で非常に大きな要素になっていたと。

そしてまた、テオのライフステージの変化で、テオからの支えを失いそうな(テオの献身を当てにしてはいけないと感じた)時に、ゴッホは自死を選んだというところも、「天才ゴッホ」にとって「共感の神テオ」の存在がいかに大きかったかということを物語ってるように思われます。

天才は天才だけで生きられないし活きない。

これ良い話とかそういうわけではなく、むしろ切なさを伴う命題と思うのですが、ともかくもゴッホ兄弟の生き様からそうしたことを改めて感じさせられました。


あと、ゴッホ編で感じたのは、「創作」と「幸福」の複雑な葛藤関係ですね。

ゴッホが最も病んでた最期の時期にこそ自画像や『星月夜』を始めとした名作が次々と生まれていたことをして、ヤンヤンさんが「ゴッホの苦しみの中から生まれた作品によって世界が豊かになったところもあることに強く葛藤を感じるんですよね」という感じのコメントをされてたのが、ほんとそうだなと思いました。

以前、NHK番組『プロフェッショナル』で、『新世紀エヴァンゲリオン』や『シン・ゴジラ』で知られる著名なクリエイター庵野秀明氏の特集をやってたことがあるんですけれど、こう言うとなんですが、本当「幸せそうに創ってない」んですよね。

何というかむしろ苦しみながら作品を創ってる感じがある。なんなら、まさに紹介文にも宮崎駿氏の「庵野は血を流しながら映画を作る」という評がありますね。

創作とか芸術って、(全てそうとは決めつけられないですが)なんだかこういう苦しみの中から生まれてる名作が少なくないところがあるように思うんですよね。

先ほども、芸術はあたかも「排泄」するように創り出されるところがあるという刺激的な視点に触れましたけれど、確かに「創りたいものを創れてハッピー」とか「自分の作品が評価されてハッピー」とか「お金が入ってハッピー」とか「社会に貢献できてハッピー」とか、そういう次元でない世界が垣間見える気がするんですね。「何かに取り憑かれてる」感じ。「頭の中に溜まる何か」を出さないとどうにも耐えられない感じ。苦しくて、その苦しみと闘うために、抗うために、創る。

すなわち、創作の背景に苦悩がある感じがする。なんなら創作には魂の平穏は障害となる感じさえある。

そういえば、まさに魂の平穏に至るための行為である瞑想が「創造性が強いタスク」と相性が悪いことにジレンマがあるとニー仏さん(魚川祐司氏)もたびたび語られていました。

そんなニー仏さんと禅僧の藤田一照氏との対談本の中で、このテーマについて語られてる箇所を見つけたのでちょっと長いですが引用します。

魚川  それに関連する話ですが、一照さんは森田真生さんとのトークで、坐禅と創造性の関係についても話したんですよね。

藤田  そうなんです。僕は森田さんとのトークでは「身と心を調える坐禅」、しかもそれは「感じて、ゆるす」ことから生成する自ずからなる調であるという話をしてから、その実修をしたんだけど、そうしたら彼から、「一照さん、これでは数学の発見はできないかもしれない」ということを言われました。「身心が調っちゃったら、『誰も知らない数学上の発見をしてやるんだ!』といったアグレッシブな欲望がそもそも起こらないような気がする」と。
(中略)
それで、森田さんにそういう坐禅を短い時間ですけどみなさんといっしょにやってもらって、その後で話し合いをはじめたら、「一照さん、困りました。言われたとおりに坐禅をしたら、何も考えが浮かんできません。話すことがなくなってしまいましたよ」と言うわけです(笑)。
(中略)
森田さんもそんなことを言いながら、ちゃんとしゃべってくれたんですが、その後のトークで彼が言うには、いわゆる創造性を発揮して、クリエイティブな活動をするような人というのは、たいてい姿勢が悪かったり、食生活がひどかったり、人間関係もぐちゃぐちゃだったりで、とても坐禅が求めるような調身・調息・調心といったような状態とは縁遠いタイプの人が多い。でも、その「調っている状態からのズレや崩れ」こそが、むしろ創造性の源泉になっているのではないか。なので、身心の調と創造性というのは両立しないのではないか、森田さんからは、そういう指摘を受けましたね。

あと、これは江草が勝手に直感的に思いついただけで、ちょっと創造性とは異なる切り口ではあるのですけれど、仏教に関連して言えば、大乗仏教における「あえて涅槃(悟り)に入らずに菩薩として衆生の苦しみを救おうとする」という発想も、完全な心の平穏に到達するとそうした情熱的な意欲が失われることを示唆してる感じがします。

さて、そう考えると、ゴッホもまさに色々とグチャグチャでおよそ「調っている状態」とはとても言えない生涯でした。しかし、だからこそ、それが爆発的な創造性の源泉になっていた可能性があるわけです。

そして、そうした苦悩を背景にした創造性の発露としての作品群を、私たちは味わわせてもらっているという「豊かさ」を得ている現実が否定できないわけです。

ありがたいと思うと同時に、罪深さにグサリと心を刺されるような、そんなモヤモヤとした葛藤がここにあるように思います。

もちろん、「創造性のために不幸になれ」とかそういう話ではないのです。誰もがそれぞれ自分や他人の幸福を願います。けれども、誰もがどうしても幸福に至れるわけではない。ゴッホの境遇がまさにそうであったように、あまりにもいかんともしがたいやるせない現実も少なくありません。しかして、その結果として生まれる、「誰かの苦悩」を源泉としてる果実(作品)を私たちは知らず知らず摂取し楽しんでいるところがある。それを、ただ単純に喜びとともに無邪気にいただいていいものかどうか、なんとも悩んでしまうのです。

幸福(魂の平穏)というと絶対善のようにも思われるけれど、意外とこれもメタ認知して、たとえば創造性との関連を考えると、一概にそうとも言えなくなる複雑な話なのかもしれません。


というわけで、以上、ざっくりとしたゴッホ編を聴了した直後の感想でした。なんか、書いててウルウルしてきました。人間って難しいなあって改めて思わされて。


しかし、これも改めて思いましたが、歴史って人だなあと。

以前、ジョン・スチュアート・ミルやバートランド・ラッセルの生涯を追った書籍を読んだ時の感想を書いたことがありました。

歴史的な偉人の生涯もちゃんと見てみると、なんだかんだ苦労していて、とてつもなく「人間」なんですよね。(もっとも、今回のゴッホは苦労しているとかいうレベルを超えてるので特にヘビーなのですが……)

社会変動の濁流だったり、運命のいたずらだったりに翻弄されながらも、必死で皆生きている。歴史には本当に無数の人々の人生が宿ってるんだなと。そういうことを毎度感じさせられます。

上の「みんな苦労してるんだよね」の記事の中でこういうことを江草は書いてました。

実際、今回のミルの生涯をまとめた書籍も、その生涯を知ることで彼の著作が何を意図して書かれたかということがより理解できるというスタンスです。「その人はどんな人なのか」というのはあながち無視できない大事なファクターなのかもしれません。

これも、ちょうど、ゴッホの死語にテオの妻が、あえてゴッホの生涯をまとめた情報を付属させる形でゴッホの作品のプロモーションをしていたという話につながってる気がして、感慨深いです。


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