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アリとキリギリスのパラドックス

みなさんご存知の「アリとキリギリス」の寓話。働き者のアリと遊んでばかりのキリギリスを対比して、将来に備えて日頃からちゃんと働いておかないと痛い目に遭うぞという教訓を伝えるお話です。

古臭い子ども用の物語と思わせておいて、他人を叱咤したり自分を奮起させたりという目的で、大人社会でも今なおあちこちで多用されている人気のお話です。

まあ、実際、この「アリとキリギリス」の寓話から得られる教訓自体は妥当だと思いますし、寓話自体には問題はないのですが、問題になるのはこの寓話の教訓を現実に適用する時です。

寓話と現実社会の間にある設定の違いを見落としたまま、雑にその教訓だけを抽出して掲げるとどうにもおかしなことになるからです。


まず、一番の大きな設定の違いは、寓話のアリとキリギリスと違って現実世界では働き者アリ怠け者キリギリスを外見上でパッと見で見分けることはできないということです。言ってみれば、誰もがアリの姿形をしているのが現実社会です。だから、もしこの教訓を現実に適用しようとするならば、皆が同じ外見をしている中で働き者と怠け者を的確に見分けなくてはなりません。

寓話は寓話だからこそ、アリとキリギリスという別種族のキャラクターを登場させることで対照を分かりやすく描いているにすぎません。現実社会では皆ホモ・サピエンスという同じ種族であることに注意が必要です。

もっとも、そもそも別の種だとか別の姿形をしているからといって誰が働き者で誰が怠け者であるなどと安易に言い分けること自体、差別感覚につながる危険をはらんでいることも留意すべきでしょう。寓話はあくまで寓話としての便宜上キャラクターの差異を強調しているだけである。このことを押さえるのが肝要です。


さて、現実社会の私たちホモ・サピエンスの中では、「アリとキリギリス」のように簡単に働き者と怠け者が見分けられるわけではない。だとすると、どういうことが起きるでしょうか。

現実社会の労働文化の実際を考えてみると、「アリとキリギリス」という寓話の存在のおかげで「働き者が偉いよね」という思想に至ったという因果よりは、もともと「働き者が偉いよね」という思想が社会に存在しているために「アリとキリギリス」という寓話が称揚されているという因果として捉える方が妥当でしょう。

すると、そうした「働き者が偉いよね」という空気がある社会の中で「アリとキリギリス」の寓話が提示された場合、誰もが「自分こそアリである」と感じたいし、そのように周りからも認定されたいと思うことになるでしょう。外見上見分けがつかないからこそ「自分こそがアリである」というアピールをするインセンティブが強烈に働くわけです。

そして、ここがまた現実社会と寓話との興味深い差異なのですが、現実社会では私たちは自分自身でさえ「自分がアリなのかキリギリスなのか」外見上では区別できません。すると「働き者が偉いよね」という文化を内面化してる私たちがどうするかというと、「自分はアリである」と本気で自己認識することになります(もちろん「全員がそうなる」とは言えませんが、かなり多くの人がこうなってるとは思われます)。

つまり「自分が怠け者であった時には自分の外見がキリギリスに変貌する」みたいな明確な客観的判定が与えられるわけでないなら、自分自身で「自分は頑張って働いているアリである」と認識することを止めるものは何もないのです。

だから、もし自分の待遇が恵まれてないと思われる場合に何を言い出すかと言うと「自分のような働き者のアリが報われないのはおかしい」となりますし、逆に自分の待遇が恵まれてると思われる場合には「自分は働き者のアリだからこそ報われたのだ」と言い出すことになります。

このどちらも、みなさんもよく耳にしてるであろう「あるある」な主張ですよね。

つまり、どんな状況であれ「自分こそアリである」という自己認識を変更することなく、自己正当化できる。ここに寓話とまるで異なる現実社会の厄介な性質があるわけです。

それゆえに「自分はキリギリスなんですよ」と堂々と述べるのは一部の奇人変人に限られており、世の中では「自分こそがアリである」「自分のようなアリが報われるとするアリとキリギリスの寓話は素晴らしい」と言う人ばかりで占められています。

そう、自覚的キリギリスが滅多にいない。

「アリとキリギリス」の寓話が称揚されてるわりに、いえ称揚されている社会だからこそでしょうか、誰も彼もが黒ずくめのアリの姿をしているのがこの世の中なのです。


そして、もう一つ説明したい現実社会と寓話との重要な差異は具体的な行為の評価基準のあり方です。

誰がアリかキリギリスかを見分けるのに現実社会では外見上では見分けられないということは先ほど説明しました。でも、それならば実際に行なってる具体的な行為内容で評価したらいいんじゃないか。きっと、こうした疑問が出てくることでしょう。

寓話ではアリはせっせと食糧集めをしていたのに、キリギリスはギターを奏でて遊んで歌ってただけでした。この具体的な行為の違いに注目して働き者アリ怠け者キリギリスを区別したらいいんじゃないか。

極めて自然な発想ですよね。

でも、この発想が極めて自然であるからこそ露わになるのが、現実社会で私たちが無意識に適用しがちな評価基準の異様さです。

その評価基準とは「報酬額」、すなわち「お金」です。

「働いてる分、お金をもらっている」
「貢献している分、報酬が出る」

こうした暗黙の前提があるからこそ、「将来のためにしっかり働いてお金を貯めておきなさい、そう、あの寓話のアリのように」という労働文化が私たちの社会を覆っているわけです。

すなわち、現実社会の「アリ」は食糧を集めているわけではなく、お金を集めている。そして、お金を集めている「アリ」こそが働き者として称賛されている。

これは注目すべき特徴です。

寓話のアリが集めていた「食糧」は具体的な使用価値が存在する資産ですが、現実社会の私たちが集めている「お金」はそれ自体では何ら使用価値をもたない抽象的な資産なんですね。具体的な存在か、抽象的な存在か、という決定的な違いがここにあるわけです。


さて、先ほど「具体的な行為内容で評価したらいいんじゃないか」というのが自然な発想であると指摘しました。ところが、現実の私たちの社会で行われてる評価はむしろ正反対で「お金」という非常に抽象的な基準によってなされているのです。これはなかなか驚くべきことではないでしょうか。

「お金を稼いでいたら働き者である」という評価方式であれば、つまるところ、そのお金稼ぎの具体的な内容は不問になってしまいます。「お金を受け取れたということは詳細は知らないけどきっと何か良い働きをしたのだろう」との暗黙の前提を信頼した結果、結局のところその具体的な仕事内容を私たちは何も見ていないわけです。

「お金」という抽象的な基準を頼りにして、具体的な仕事内容を私たちは見ていないからこそ、私たちの現実社会ではもはや寓話と真逆の現象が起きています。

例えば私たちの社会では、寓話の中でのアリがしている食糧運びのような直接的に将来に備えてると言える単純労働よりも、むしろ寓話の中でキリギリスが行なっているようなその場その時の楽しさを享受するために歌って踊るクリエイティブジョブの方が、高い報酬を受け取っているのはみなさんもご存知のところでしょう。

もっとも、ちゃんと正確を期して言えば、実際の歌い手やダンサーはレッドオーシャンすぎてほとんどの方が薄給なことが多いのですが、一部の売れっ子アーティストが莫大な報酬を受け取ってることや、ショーやイベントを演出プロデュースしている企業が大きな利益をあげていることには違いないでしょう。

そこまで大成功するのが一部の人間に過ぎないとしても、現実の現象面だけを見てみれば、そこでは現に歌って踊っているキリギリスの方が報われている。しかも「行為上のキリギリス」は多額の報酬を得ているという意味で「評価上はアリ」として「働き者」という社会的承認まで得る。これは何とも「アリとキリギリス」の寓話が描いている内容とは噛み合ってない事態と言えます。

これは「お金」という評価基準が抽象的であるがゆえに引き起こされた見事なアリとキリギリスの逆転現象なんですね。

誤解しないでいただきたいのですが、江草は別にこうした歌い手やダンサーの方々のようなエンタメ的な仕事を無意味だとか怠けてるだとか言ってるわけではありません。江草も歌は聞きますし、ミュージカルも観に行くことがありましたし、漫画やアニメや映画やゲームも大好きです。これらの仕事からもたらされる価値は江草の主観的には認めています。

ただ、今ここでお話ししている内容はあくまで「アリとキリギリス」の寓話と現実との齟齬のお話であることを思い出してください。「江草がどう思ってるか」ではなくて「寓話とどう異なるか」の話しかしていないのです。

現実では寓話と異なって、アリのような単純労働よりも、キリギリスのようなクリエイティブジョブがもてはやされ人気があり時にアリには目が眩むような莫大な報酬が与えられる。にもかかわらずこの現象の一方で「アリとキリギリス」になぞらえて「アリのような働き者が偉いんだぞ」とも頻繁に語られる。ここに非常に興味深い転倒が見て取れると思うのです。


そして、ここでさらに言及しておきたいのが現実社会におけるホワイトカラージョブの存在です。仕事と言っても、食糧を運ぶ単純労働を行なってるアリとも歌って踊るキリギリスともまた毛色が異なるオフィスワークを担当するホワイトカラージョブの人々が現代社会では多数派を占めています。

では、寓話では描かれてないジャンルとなるホワイトカラージョブは、いったいアリなのかキリギリスなのか。

現象面だけ見れば、人と会って話をしたり、書類を整理したり、パソコン画面に向かってポチポチしていたりしているだけですから、食糧を運ぶアリのように直接的に将来に備える具体的な作業を担当しているとは言い難いところがあります。しかし、その一方で歌って踊ってその場で楽しむキリギリスのようなエンタメや人生謳歌的な要素もない。何とも分類がし難い存在です。

ただ、江草が問いかけておいてこう言うと何ですが、別にホワイトカラージョブがどちらに当てはまるのかを無理に分類する必要はないんです。

なぜなら、実際がアリに近かろうとキリギリスに近かろうと、先ほどから言ってるように「アリ働き者であること」を称揚する私たちの社会の中では、結局は「自分こそがアリです」とアピールする競争に巻き込まれるからです。

特に、今言ったみたいにホワイトカラージョブは一見して働いてるのかサボってるのか傍目には分かりにくい作業を担当しています。そう、「傍目には分かりにくい」。ピンと来ましたでしょうか。具体的な現象面の行為を見ても「傍目には分かりにくい」のであれば、結局は「外見上でアリとキリギリスの区別がつきにくい」と言う最初の話に戻ってくるわけです。

アリとキリギリスの区別が外見上つきにくい条件下にあるならば、社会の文化に合わせるように、自分自身も「自分こそアリだ」と自認するようになりますし、他者からもそう見なされようとするという話でしたね。だから、ホワイトカラージョブの人たちも結局は「自分こそがアリです」というアピール競争に吸い込まれていく、そういうことになるわけです。

そして、ホワイトカラージョブのように直感的にその成果の良し悪しが分かりにくい仕事の「アリかキリギリスか」の評価判断をどうするかと言うと、詰まるところ「お金」になりがちなんですね。ちゃんと企業の利益に貢献したかどうか、そういう観点で測られる。もしくは、直接的に金銭的利益を獲得し難い部署もありますから、そうでなくとも顧客満足度とか人事評価での数値目標みたいな形式になります。学者であればインパクトファクターとかね。

つまりは実績を「お金」を始めとした何かしらの「数字」で判断されるわけです。しかし、「数字」こそまさしく抽象化の権化のような概念ですから、ますます「アリとキリギリス」が表象していたような具体的な世界観から乖離してくることになるのです。

例えば、
「これだけの企業利益に貢献したから私は働き者アリです」
「これだけの件数の契約実績を果たしたから私は働き者アリです」
など。

いえ、ここで江草は、こうした方々が努力をしてないとか、優秀でないとか言おうとしているわけではないんです。むしろ、こうした方々は正直なところ努力はしてるし、優秀でもあることの方が多いと思っています。そういう意味で言えば確かに「働き者」ではあるでしょう。

しかし、今注目したいのはこうした方々が額に汗をかいて頑張っていたかとか優秀な働きを見せたかとかそういうプロセス的な点ではなく、実際にこうした仕事で生まれた具体的なプロダクトが「将来の備え」と言える物なのかどうかという点です。

今一度「アリとキリギリス」の寓話をよく思い出してください。アリは別に「努力した」というそのプロセスだけをもって持ち上げられていたわけではありません。アリは「食糧不足になる冬に備えて食糧を実際に貯めた」という具体的な成果を伴った上で持ち上げられているのです。備えの内容が具体的なんです。(そもそもキリギリスだって、めっちゃ努力して歌や楽器を練習していたのかもしれませんが、それでも寓話の中では具体的な将来の備えにつながる活動をしていない以上は「アリ」と認定はされないでしょう)

一見すると「将来に備えて熱心に働いてお金を貯めていた」も同様の意味の文に見えるかもしれません。しかしながら、その貯めている対象があくまで抽象物である「お金」でしかありません。寓話のアリは現実世界の具体的な物である「食糧」です。この、貯めているものが具体物か抽象物かという違いは極めて決定的です。

なぜなら、抽象物は当然ながら抽象的な概念でしかないために、それ自体では現実世界に何ももたらさないからです。「お金」がそうであるように抽象物を触媒として何かしらの現実世界の成果が惹起されることはもちろんあります。しかし、「お金」という抽象物にはその最終成果が具体的に何であるかの情報は含まれていません。その最終成果が真に現実世界における「将来の備え」につながっているかどうかの保証はないのです。

話を分かりやすくするためにあえて極端な例を挙げてみましょうか。

めちゃくちゃ真剣にゲームをプレイしているキリギリスが目の前にいるとします。延々にずっと寝る間も惜しんでプレイしているのです。流石に見かねたあなたが「ゲームばっかりしないで将来に備えてちゃんと働きなさい」と説教をしたところ、キリギリスはこう返します。

「何を言ってるんだ、俺はアリ働き者だぞ。このスコアを見てみろ。ハイスコアだ。これだけの数字を叩き出してることが俺がアリだという証拠だ。ゲームをやめるなんてとんでもない。ゲームの努力を怠ったら他のアリたちとのスコア競争に負けてしまうじゃないか。邪魔をするな」

スコアという「数字」を根拠にこのキリギリスは自身をアリだと認識しており、そして真剣に努力をしながらゲームに向き合っているわけです。

私たちからするとその数字は「何も将来の備えになってない」と感じるわけですが、キリギリス本人からするとゲームのスコアは追い求めるに値する意義があるものであり、この数字が高めることが「自身こそがアリである」という証明になると思い込んでしまってるならば、ゲームに誇り高く勤しむことは不思議でも何でもないわけです。

すると当然私たちは「そんな架空の数字ではなくて現実に具体的な成果を出しなさい」とキリギリスに再反論するでしょう。

でも、ちょっと待ってください。

これって私たちの現実社会における「お金=成果」説にも当てはまる反論じゃないでしょうか。現実の「これだけ稼いでるから自分こそがアリなんだ」と言ってる人に対しても「そんな架空の数字を示されただけでは具体的な将来の備えにつながってるという証拠にはならないでしょ」とね。

繰り返しますが、この例でのキリギリスも真剣であり、努力もしています。しかし、実際に追い求めてる成果が「架空の数字」であるがために頓珍漢なことになっているわけですね。

このことが、私たちの現実社会にも起きてないという保証はありません。もしも、私たちがこぞって「マネーゲーム」を仕事だと認識して、真剣に努力してそのゲーム仕事のスコア競争(報酬額競争)をしているだけなのだとしたら、それはこの例でのキリギリスと何ら違いがないでしょう。

実際、「GDP国際比較(ランキング戦)で日本(自チーム)が第4位に落ちちゃったから頑張らないと」とか、「GDP(スコア)をさらに伸ばさない(経済成長しない)と」とか、現実の私たちの社会でも当たり前のように繰り広げられてる言説は、恐ろしいほどにそれがゲームのスコアであっても違和感がない構造に見えるのです。


ここで注意していただきたいのは、何も江草は現実世界で広く行われてる仕事がゲームに過ぎないと言ってるわけではありません。

そうではなく、ここで言いたいのは、「お金」のような数字をアリとキリギリスの診断基準にしたところで、実際には具体的な将来の備えにつながっていない仕事(ゲーム)をしているだけのキリギリスまでアリと判定してしまう誤診の可能性が否定できなくなるということです。なぜなら「お金」は抽象概念に過ぎないために、具体的な成果の情報が含まれていないからです。

ところが、現代の多数派の働き方であるホワイトカラージョブが典型的でしたが、外見上の見た目でもアリとキリギリスの区別は困難なのでした。となると、結局のところアリなのかキリギリスなのかは外見上で見てもよく分からないし、数値成果で見てもよくわからないということになります。

ならば、自分であれ他人であれアリと認識している人が真にアリであることを保証する確たる認識的根拠をほとんどの場合私たちは持っていないのです。

確かに真剣に仕事をして努力もしているけれど、それが「寓話のアリ」の意味での働き者かどうかはわからない。アリだと思っていたけれど、実は自分もキリギリスに過ぎないのかもしれない。

これは、そういう何とも恐ろしい話なんですね。

しかしながら、先述の通り「働き者が偉いよね」という空気が蔓延しているのが私たちの社会です。つまり誰もが「アリであること」を要求されています。

だから、自分が本質的にアリだろうとキリギリスだろうと「自分こそがアリである」というアピールに必死になります。手っ取り早いのは巷に広まっている「お金を稼いでる者は当然アリである」あるいは「長時間働いている者は当然アリである」という(決して必ずしも妥当とは言えない)評価基準に乗っかって頑張って長時間働いてお金を稼ぐことになります(時間もお金と同じく抽象概念であることに留意ください)。そうすれば「自分はアリである」と世間に胸を張れるわけですから。

繰り返しますが、だからと言って皆が将来の備えにつながる仕事をしているとは限りません。まずもって実際にはキリギリス的な仕事が混ざっていることでしょう。しかし誰も彼もが「自分はアリです」とアピールしている。だから、世の中は知らず知らずのうちに「アリの皮を被ったキリギリス」が混ざっている社会なんですね。

もっとも、もはや元々がアリなのかキリギリスなのかも関係ないかもしれません。あまりに「自分こそがアリです」アピール競争が激化している結果、アリでさえも「アリ」アピール競争に巻き込まれてるのですから。

言ってみれば、「どれだけ被ってるアリの皮が分厚いかの勝負」となっています。これは元々がアリであってもなおこの勝負から逃れられません。もともと美人の人であっても競争が激しいコンテストとなればすっぴんではなく徹底的に化粧を施して美を争うことに巻き込まれるようなものです。


で、長々と語ってきましたけど、そろそろ
「わかったわかった。寓話と違ってアリとキリギリスは現実では区別できない。それはいいとしよう。でもだからって何が問題なんだい?別に誰がアリでもキリギリスでもどっちでもいいじゃん」
と思われる方もいるでしょう。

とても自然なご意見だと思います。

自分たちが寓話におけるアリなのかキリギリスなのかなんて、これ自体抽象的な話ですから、その認定そのものにはたいした意義はありません。

ただ、この抽象的な話を触媒に具体的な社会の問題を考えるならば意義はあるでしょう。


さて、この「アリとキリギリスが区別できない問題」において、最悪なケースは何だと思われますか。

それは「アリのように将来に備えてるわけでもなく、しかもキリギリスのように楽しく日々を過ごしてるわけでもないこと」です。

しかし、将来に備えてないキリギリスのような仕事であろうとも、生きていくため、あるいは社会に認められるために、ぶ厚いアリの皮を被ろうと、まるでアリかのような働き方をしないといけなくなっているのが今日の社会です。すなわち、たいして社会に対して意義がない仕事内容にも関わらず、重大な意義があるかのような顔をしてなおかつ真剣に努力をして働いてますアピールをすることがあり得る世の中です。

もし、こういう働き方をしている人が居るならば、これは大変に悲劇的な社会問題と言えましょう。

しかし「そんなアリの皮を被ったキリギリスは居るはずがない。仕事は全て意義があるはずだ」そういう意見もあるでしょう。

実際その意見が正しい可能性はあります。なぜなら何度も繰り返してるように私たちにはアリとキリギリスを区別することができないので「やっぱり全員アリだった」という可能性も厳密には否定できないまま残り続けるからです。

ところが、これは一方で「アリの皮を被ったキリギリスは居るはずがない」と述べる確たる根拠もないということを同時に示しています。そういう可能性は残るけれど、そうと断言することもできないのです。

だから、このように「そんなはずはない」と信じてもらえず無下にされるという可能性も踏まえた上で「もしアリの皮を被ったキリギリスが居るならば悲劇的でしょう」と江草は言っているのです。

そして、通常「全く居ない」というよりは「いくらかは居る」の方が緩い想定ですから、その意味でこれは「アリの皮を被ったキリギリス」は十分に現実的な社会問題となっていると言えるわけです。


また、本当に世の中で言われてるほど「アリだらけ」なのだとしたら、将来の備えが万全であることが期待されるはずです。

ところが、SDGsというスローガンがわざわざ掲げられてることから分かるように、実際には私たちの社会は「持続可能性」が脅かされています。将来に備えて熱心に働いてるアリだらけだったはずなのに持続不可能の危機となるなんて、本来はおかしな話です。

もちろん、真剣に食糧を集めたアリたちが大雨などの災害によって食糧の大半を失ってしまったみたいな「残念ながら努力が及ばずストーリー」もありえますから、必ずしも「アリだらけ」が偽と断定できるわけではありません。

ただ、この点をもってしても、やっぱり疑念が出ることは避けられないでしょう。

今までみんなアリかのように誇って働いていたけれど、実態は将来に備えられておらずその場の享楽や虚構の数字だけを追い求めていたキリギリスだらけだったのではないかと。

特に、象徴的と言える問題が少子化だと思うんですね。

私たちの社会では、家庭で育児や家事をしている者は「お金を稼いでない」という理由で下に見られているところがあります。何ならお金を稼いでくる賃労働者は自分たちを「アリ」と自認しながら、家事育児担当者を遊び呆けてる「キリギリス」扱いしているそぶりもあるでしょう。

しかし、ご存知の通り急速な少子化が進行しており「この国の将来はどうなるんだ」と政府も交えおおわらわになっています。

となると、こうは考えられないでしょうか。

家庭で次世代の子どもたちを育て将来に備えていた「アリ」を「キリギリス」であると非難し、仕事というマネーゲームをプレイする「アリの皮を被ったキリギリス組」に引き込んでしまったと。

すなわち、自身を「アリ」と勘違いした「キリギリス」が、「真のアリ」をパッと見で「キリギリス」として非難し「将来の備え」を辞めさせてしまった。

その結果として、少子化という将来不安の危機に至ったと。

もしこれが真相ならば、寓話の教訓が完全に裏目に出てるという意味で、これ以上の悲劇はないのかもしれません。



さて、本来はここから「じゃあどないせいちゅうねん」的な話をしようかと思っていたのですが、流石に長くなり過ぎてここでタイムアップとなりました。

アリとキリギリスの例えで語れることは十分語りきったとは思うので、まあ今日のところはこれでいいとしましょうか。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。