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それはエラーなのかバグなのか 〜『おどろきのウクライナ』を読んで〜

橋爪大三郎、大澤真幸『おどろきのウクライナ』読みました。

今なお続くウクライナの戦争について、橋爪氏と大澤氏の対談を収めた一冊。社会学者のお二人は『ふしぎなキリスト教』を始めその他の書籍でも共著を出されていて、よく対談される名コンビと言えます。

テーマとしては「ウクライナ戦争とは何なのか」を文明論や宗教論から紐解きつつ、そして「ポストウクライナ戦争の世界」を語る意欲的な内容。あくまで2022年以前の対談であるため、2024年現在からすると正直情勢の見立てが変化してしまってる印象はあるものの、リアルポリティクスの詳細に踏み込むというよりは、歴史的視点から大局的に抽象的にウクライナ戦争の意義を語るという構想なのもあり、内容が古くなってる点はさほど本書の読書価値を損なうものではなかったと感じました。

たとえば、キリスト教の切り口から見る、ロシア・ウクライナ対立の解読は面白かったですね。
ざっくり言うと、東ローマ帝国〜ギリシャ正教(およびそこから派生したロシア正教)の流れを汲むロシアと、西ローマ帝国〜カトリック教会(およびそこから派生したプロテスタント)の流れを汲む西欧の対立がまず軸にあり、西欧側に与しようとしたウクライナを許せないロシアが侵攻に及んだという図式。かつての東西のキリスト教の分裂が、権威主義的なロシアとリベラルデモクラティックな西側の対立に繋がってるという壮大なストーリーになってるわけです。

キリスト教にあまり縁がない日本にいると実感しにくいところではありますが、ウクライナ戦争をキリスト教の中の歴史的東西対立が背景にある、一種の文明対立や宗教戦争であるとする見方は新鮮で興味深かったです。さすが文明論・宗教論に長けたお二人から生まれる面白い分析だなと感じました。


こうしたウクライナ戦争の意義を考察する部分も面白かったのですが、江草的にこの本で最高に面白かったのが中国の権威主義的資本主義とどう対峙すべきかを語り合ってるパートです。本書は『おどろきのウクライナ』というタイトルにも関わらず、このパートはもはやほとんどアメリカと中国の対立の話であってウクライナとロシアの話そっちのけなのですが、「ポストウクライナ戦争の世界」を語り合ってる上で出てきたこの話題が、対談として一番盛り上がってるように見えました。

というのも、このパートでは対談してるお二人の立場の相違点が露わになっていて、そこでお二人の対談が一種の論争状態になってるからなんですね。

たとえば、ヒートアップした橋爪氏が大澤氏に「大澤さんがそんな弱気な態度じゃ困るな」と食ってかかって、大澤氏の方も声は荒げないものの「いや橋爪さんのご意見ももちろんわかるんですけど、しかし……」と食い下がるという光景が繰り広げられてます。

対談した二人の意見が常に全く一緒で互いに「ほんまそれな」だけで終わるようなコンテンツは仲良しこよし(エコーチェンバー)感があふれていてちょっと物足りないですから、こうした大激論が最後に見られて江草はとても嬉しいです。やっぱ議論はこうでなくっちゃ。


で、一体何についてお二人の意見が分かれたかと言うと、中国の権威主義的資本主義に対峙するための西側のリベラル資本主義社会が取るべき態度についてです。

以下、江草の勝手な解釈なので正確でないところがあるかもしれませんが、便宜上、どういう意見対立なのか簡単にまとめてみます。

中国の権威主義的資本主義に対抗するために、西側社会は自分たちが掲げるリベラル資本主義を絶対的正義とみなしがちだけれども、人々や諸国を中国の権威主義体制になびかせるような欠陥を内包していないかをきっちり批判的に見直すべきだと語るのが大澤氏。つまり、西側資本主義に問題があって嫌気がさしてる人が多いからこそ中国スタイルの資本主義にも魅力が出てしまってるのではないかという懸念ですね。中国が勢いを増していることを自分たちにも落ち度があるんでないかと反省する機会にせよと。

それに対して、橋爪氏は、自己反省するのはいいけれども、中国の権威主義的社会主義は西側リベラル資本主義と並べて比較するようなレベルではなく、自由や平等などの人権を踏み躙る「反社」レベルであると断じます。一般社会において、たとえ儲かるからといって「反社」と関わるビジネスをすることは許されないと同様に、たとえ儲かるからといって「反社」的な政体である中国の経済と付き合って利潤をあげてる現行のビジネスこそ、西側リベラル社会の理念に反する大罪であると。いずれ西側が中国と衝突するのは必至なのだから、早いこと中国と縁を切ること(デカップリング)を見据えて社会の意識を変革していくことが必要だと言います。

細かい議論の詳細は本書を読んでいただくしかないとして、江草がこの議論で注目したのは、お二人の意見が分かれるに至った究極的なポイントはいったいどこにあるのかです。

江草が思ったのは「問題が目の前にある時に、それをエラーと見るか、バグと見るか」なのかなと。

この「エラーか、バグか」という切り口は、結構いろんな議論対立に潜んでいる対照だと江草は以前からにらんでまして、いずれ記事に書きたいなと思っていたのです。そうしていたら、今回、橋爪氏と大澤氏の激論がちょうどいい題材として現れてくれたので、これを機会に「エラーかバグか論」を書いてみたいと思います。(ますますウクライナの話から離れていきますが気にしないようにしましょう)

つまり、橋爪氏と大澤氏の立場の相違は、西側資本主義におけるさまざまな問題を「エラーと見るかバグと見るか」の違いにあるのだろうというのが江草の見立てなわけです。

見ての通り、西側資本主義を相対化し批判的に見直そうとしてる大澤氏に対し、橋爪氏は西側資本主義の理念を絶対的に肯定しており、それゆえにそれに反する中国の権威主義的体制は絶対的に否定しなければならないとしています。もちろん、橋爪氏も西側資本主義社会に多々の問題や不満が生じてることは知っていますが、「それでもなお権威主義ではないということ」を誇りに思うべきだと語っています。それゆえに自分たちのやり方を疑ってるような大澤氏の発想を「弱気だ」と嘆いているということになります。

ここで、こうした頑なとも言える橋爪氏の立場の源流を考えてみると、それはやはりキリスト教ということになるでしょう。
橋爪氏は本書内で「相対主義と化している」としてポストモダンをけちょんけちょんに批判し、逆に「モダニズムに立て」というメッセージを発せられています。この近代思想(モダニズム)のバックボーンは『ふしぎなキリスト教』等々でも語られてるようにまさしくキリスト教です。当の橋爪氏ご本人もクリスチャンでらっしゃることを考えると、キリスト教が重要なキーになってくるわけです。

Podcast番組「a scope」でもキリスト教のような一神教では、「絶対的な存在である神」を置くことによって人が人に頭を下げなくても良くなった、という意義を橋爪氏は語っていました。

これらのことを踏まえると、橋爪氏が「人が人に頭を下げること」を必然的に含有している中国のような権威主義を断固として許さない態度であるのは自然な帰結であると言えましょう。そして「人が人に頭を下げない」ためには、私たちの外部に何か絶対的なものがあると考えないといけないとしているとも言えるわけです。

一方で、大澤氏は他の書籍や記事での言説も踏まえて鑑みるに、資本主義に批判的な、いわゆる左翼的な思想の方のようです。本書でもしばしばマルクスを好意的に引いた語りをされていたりしているところからしてもその姿勢はうかがえます。共産主義者や社会主義者かどうかはさておき、少なくとも資本主義を絶対視せず一旦疑おうという態度なわけです。

「資本主義を批判するなんて左翼ですよ。資本主義を批判して社会主義だとか計画経済だなどと言うなんてそれこそ中国共産党と同じじゃないか」と本書内で声を荒げていた橋爪氏のセリフが、まさしくお二人の立場の分かれ目を象徴しています。

もし資本主義には生まれついてのごうがあって、利潤を追求する以上、さまざまな問題が生まれてくるんでございます、というふうに言えば、それは言うならば、左翼だ。全部資本主義が悪いんでございますって。悪いんだったらば、資本主義と違ったどんなシステムがあるんですか、責任を持って答えてください。社会主義がありますとか、計画経済がありますとか、そういうのはもっとタチの悪いアイデアです。そういうのはダメだって。資本主義が悪いから、政治権力で、共産党でコントロールしないとダメなんですって考えたから、中国共産党があるわけじゃないですか。中国共産党こそ、資本主義の機能不全に寄生しているわけですよ。そして、そこから、共産党の幹部はうまい汁を吸っているわけですよ。
それに比べれば、共産党がないけど、資本主義を曲がりなりにも運営している国のほうがどれだけ立派かと私は思う。共産党がないけどなんとかやっているということを、誇りにしなければならない、日本は、アメリカは、西側諸国は。そして、でも、うまくいかないとしたら、資本主義にはそれだけでは回らない問題点もあるんですねって。中国のほうがいいかもしれないとか思っている暇なんかないです。それはどっちの資本主義がうまくいくかという問題ではなく、価値観の問題です。生き方の問題です。

※橋爪大三郎氏のセリフからの引用 
『おどろきのウクライナ』

この、モダニズムひいてはキリスト教がもたらした資本主義を絶対視するか、それを相対化していわゆるポストモダン的に、なんならポスト資本主義の可能性をも想定して見つめ直すか。ここが「資本主義の諸問題をエラーと見るか、バグと見るか」の分水嶺になってると江草は思うんですね。

「機能不全」とか「問題点」と言う単語が橋爪氏のセリフにも出てきていることに注目してください。つまり、橋爪氏も西側資本主義社会に問題はあると認識しています。しかし、「それをエラーと見るかバグと見るか」がおそらく大澤氏と異なっているのです。


さて、そもそも、エラーとバグの違いはなんでしょう。日常的にこれらの単語が用いられてるに違いないIT業界とは定義は全然異なるかもしれませんが、ここで江草独自に勝手に概念整理をして見たいと思います。(なので、気に入らなければ各自しっくりくる好きな用語に変えて考えてもらってもOKです)

江草的なエラーとバグの独自定義は次のようなものです。

  • エラーとは、設計通りに動いてないこと

  • バグとは、設計通りだが狙い通りに動いてないこと

たとえばプログラムのコードを走らせたら動かなかったとします。よくよく見たら、コマンドの綴りが一文字削れていてこのせいでプログラムが壊れていたと判明する。これがエラーです。

自動車とかでもそうですね。うまく車が走らないなと思ったら、タイヤがパンクしていた(壊れていた)。これもエラー扱いです。

コードの綴りが誤っているとか、タイヤがパンクしているというのは、設計通りではなく、破損しているからこそうまく動かない。すなわち設計が悪かったのではなく設計の外部要因が起因している。そういう扱いになりますよね。

ここで、コード内のスペルミスでさえ「外部要因」と扱ってるのに注意してください。コード内のスペルミスは「設計としてそう書こうと意図していたわけではない」のですから、設計自体の問題ではない。すなわち設計の外部要因となるわけです。たとえばタイヤが釘を踏んでしまって想定外にパンクしてしまったのと同様に、キーボードに不意に手が当たってしまってDeleteキーが押されコードの一部が欠けてしまったというのは、コード内の問題であっても外的要因の事故とみなせますよね。


で、一方のバグ。コードは動いているけれど、とある条件下で特殊な入力をしたら思いもよらない結果が出力されてきちゃう。これではちょっと困るという場面。これはコードは破損しておらず、書かれたままにちゃんと動いてるわけですが、それが果たすべき狙いを満たしてないというわけで困ってるわけです。これがバグです。

たとえばゲームで普通に遊べるけど、ある動きをしたらワープできるとか無敵になれるとかあったらバグですよね。そういうことができるのは想定していなかったけれど(ゲームとして面白くなくなるし)、それはあくまでプログラムで書かれてる通りに、すなわち設計通りに動いた結果として実現しているわけです。つまり、設計自体の要因です。

自動車の例も出しておきますと、電気自動車は普段の使用では問題なく動くけれど、寒冷期には途端に動きづらくなくなるという問題が指摘されています。壊れているとか設計ミスというわけではなく、電気自動車が電気自動車であるがゆえに、この問題が生じている。だから、これも江草定義ではバグですね。


で、ここまでの例では何とかエラーとバグを区別できていましたが、それはあくまで分かりやすい例を挙げていたからです。実際にはこれらの区別が実に難しい。

ロボコンか何かで、何か課題をクリアするロボットを設計、製作していたとしましょう。試作機を作ってみたが課題をうまくクリアできなかった。そういう時、「さてこの原因は何か」という原因の仕分け作業がまず発生します。

機体をよく調べたらネジを一本締め忘れていた。それならそもそも機体が設計通りでなかったのでエラーです。

機体を色々見たけど壊れているおかしい箇所はなさそうだった。それならそもそも設計として課題をクリアする水準に達していなかったバグにあたります。なら設計を見直さないといけない。

こういうことになるわけですね。つまり、よく調べないとエラーかバグかは案外区別が難しい。

ロボットのような有形物かつ課題が明瞭な状況でこれなら、イデオロギーのように曖昧で無形の対象であればなおさらです。

つまり、何か問題が目の前にあったとして、それを外在型の課題(エラー)と考えるか、内在型の課題(バグ)と考えるかが、(特にイデオロギーの関わる問題では)人によって分かれがちなんですね。往々にしてどちらにも解釈しうるがために、どちらの可能性もなかなか否定できず残ってしまうからです。


さて、そろそろここらで、リベラル資本主義にまつわる橋爪氏と大澤氏の議論に立ち戻ってみましょう。

橋爪氏の立場は、リベラル資本主義の立場を理解して徹底しているなら、そもそも権威主義的な中国と経済交流をするはずがないとしています。つまり、そういったリベラル資本主義という設計からはみ出ているエラーの部分(外在的な課題)をこそまずは正すべきであると。資本主義を批判すること自体どうかと思うが、エラーの存在を無視した状態で資本主義が批判されるのは、それはそもそもリベラル資本主義の設計通りでないのだから余計に心外である。ユーザーが勝手に自損したり操作を勘違いして走らせた状態で「うまく動いてないじゃないか、設計が悪いんだ」と文句を言われても困るというわけです。まずは故障なく設計通りに走らせることを考えてからだろうと。その段階を目指す以前によその「論外の設計」に目移りしてどうするんだと。

一方で、大澤氏も何事もそんな完璧にエラーなく回ってはいないのは理解しつつも、それでも大枠としてはリベラル資本主義に則って西側社会が動いておきながら問題が多発している。中国の権威主義的資本主義が成功しつつあり、そちらになびく者さえ出てきている。ならばそもそもリベラル資本主義の設計自体に問題があるのではないか。すなわちリベラル資本主義に内在的な課題(バグ)があるのではないか。そう疑うべきとする立場なわけです。

 いちばん望ましいのは、われわれのシステムが、中国のそれよりもほんとうに魅力的であることです。経済的な意味だけではなく、倫理的な魅力を含むほかのさまざまな意味において。じゃあ、そこまでわれわれのシステムが魅力的なのかどうか。先ほど、反省と言いました。ちょっと直せばいいぐらいに聞こえるかもしれないですけど、ぼくが思っているのは、ちょっと反省して、直して、これからはなるべく移民の差別はやめましょう、みたいなことで直るようなことではない。われわれのシステムの中のいちばん根幹的な、もっとも魅力のポイントになっている自由と平等、そこから出てくる人間の幸せみたいなものを、このシステム自身が裏切るなにかを内に秘めている可能性がある、ということなんです。
 これは、ちょっとたたずまいを直せば直るというようなものではない。少なくとも、中国型のシステムを受け入れた人びとを、自然とこちらに引き寄せるほどの魅力にはなっていない。逆に、多少の自由や平等なんかなくたって、中国型で成功するならそっちのほうがいいと思っている第三世界の人びとっていっぱいいるわけですよ。アメリカの傘下に入るよりは、そっちのほうがいい。そうなると、われわれの未来に対して、あんまり明るい見通しを持てないんです。

※大澤真幸氏のセリフからの引用 
『おどろきのウクライナ』

(ここでおそらく大澤氏は「自由主義と民主主義は良いが資本主義がバグってる」という想定なのでしょう。これ江草が以前から温めている「自由主義vs民主主義vs資本主義」というネタにめっちゃ絡んでくるポイントなのですが、完全に脱線するので別の機会に)

ともかくも、このように問題がエラーなのかバグなのかが簡単に区別できないからこそ、各々がそれぞれの直観に従って、どちらのタイプの問題なのかを仕分ける。そういう議論の分かれ方をしているわけですね。

前の前の引用箇所で橋爪氏が「価値観の問題です。生き方の問題です。」と語っているのが象徴的ですが、つまり、ここでは西側のリベラル資本主義を絶対的価値観と置いているかどうかが分かれ目になっています。リベラル資本主義自体に内在的な問題(バグ)があるのではと考えること自体、その絶対性を疑ってる相対主義的な反応であり許されないと。ここにまさに絶対的な神の存在を想定する橋爪氏のキリスト教的な思想が垣間見れます。

リベラル資本主義自体は絶対的な価値観であり否定しえないとするならば、資本主義にまつわる問題点は内在的な課題(バグ)ではなく、あくまで外在的な課題(エラー)であるわけです。
そこには資本主義自体が解決しえない限界(Limitation)としての課題もあるでしょうけれど、それは仕方ないので、まずエラーを片付けるべきでしょうと。リベラル資本主義を標榜しておきながらその理想にもとる言動をしていることこそ改めるべきであろうと。
改善すべき点を具体的に言えば、それは、自由や平等の精神を脅かす権威主義であるがゆえに「反社」とみなすべき中国とのビジネス上の付き合いであり、また、問題があるからといって安易にリベラル資本主義自体を相対化し疑う弱気な姿勢であると。
これが(江草解釈での)橋爪氏の立場です。

江草自身はどちらかというと懐疑論者的なタイプなので、橋爪氏がここまで強硬な姿勢で、大澤氏の資本主義のバグの批判的吟味をしようという提案を「相対主義だ」として一蹴するのは賛同できません。哲学者ダンカン・プリチャードの『懐疑論』でも指摘の通り、健全な懐疑は相対主義どころかむしろ客観的な真理の実在を想定しているものですから。

ただ、価値観の絶対性の存在を重視して、それゆえに問題をエラーとみなしているその理路自体は理解できます(こうしてメタ視点から相対化してること自体が橋爪氏からは怒られちゃいそうですが)。実際、懐疑主義のロジックが巷の相対主義や権威主義に濫用・悪用されてる問題もまたプリチャードの『懐疑論』が指摘されているところです。懐疑が相対主義を呼び「人が人に頭を下げる」権威主義社会の呼び水になるという懸念はありえないわけではないのです。


で、どちらが正しいかみたいな話はさておき、資本主義の絶対性を前提とする立場だと問題をエラーとして語り、資本主義自体も批判的吟味の対象とする立場だと問題をバグとして語るという、この構図。今回の橋爪氏と大澤氏の議論だけでなく、いろんなところで出てくるのでとても興味深い現象なんですね。


たとえば、経済学者セドラチェクと人類学者グレーバーの対談を収めた『改革か革命か』。

資本主義の問題は資本主義を修正することで解決すべきとするセドラチェクと、もう資本主義を壊さないと問題は解決できないとするグレーバーが好対照な一冊です。


また、同じく修正資本主義派のセドラチェクと、脱成長コミュニズムを提言しているマルクス研究者の斎藤幸平氏による、NHK特番「欲望の資本主義」の対談を収めた『脱成長と欲望の資本主義』。

こちらも資本主義であり続けることにこだわるセドラチェクと、当然のごとく脱資本主義を訴える斉藤氏の対照が面白すぎる対談でした。


あるいは、Podcast番組「a scope 〜〜資本主義の未来編〜」でも、むしろ資本主義の徹底が足りないのが問題なのだとする経済学者の柿埜真吾氏のゲスト回シリーズと、

マルクス研究者の佐々木隆治氏のゲスト回で資本主義の行き過ぎを批判するシリーズが、

しれっと連続のシリーズとして登場するという、多くのリスナーたちを混乱と困惑の渦に陥れたに違いない構成が見られました。(これは無論リスナーを健全に悩ませる素晴らしい構成と思います)

日本の政治の勢力争いを見ても、既得権益にまみれたせいでブレーキがかかっているこの国を規制緩和して今こそ資本主義をちゃんと推し進めようという政党があるかと思えば、資本主義がやりすぎたから労働者保護や弱者救済のための福祉政策を推し進めるべきだとする政党もあると。

まあ、ほんと、こうした構図には事欠かないんですね。

なお、もちろん、話題が資本主義以外でも成り立ちます。
会社でもなんでも、プロジェクトがうまくいってない時に、「そもそも戦略自体が間違ってたんじゃないか」とするか(バグ派)、「皆が戦略をちゃんと理解してその通りに行動してないからだ」とするか(エラー派)、に分かれて意見対立に収集がつかなくなるケースはままあるんじゃないでしょうか。


……おっと、この話を語るのが楽しすぎて随分と長い説明となってきたので、ここらで一旦「エラーかバグか論」はまとめたいと思いますが、こんな具合に、私たちの社会の意見対立を見る上で「それはエラーか、バグか」は面白い切り口になると思うんですね。

でまあ、江草としては究極「エラーなのかバグなのか」という対立はすぐに解消する必要がないんじゃないかと思うんです。
というのも、エラー派もバグ派も現状に問題があって何かしないといけないということでは一致しているわけですから、「では具体的に取り急ぎ何をすべきか」という点で何かしらの一致点を見出すことは意外とできるんじゃないかと思うので。
実際、本書における橋爪氏と大澤氏も、イデオロギーにかかるような抽象的なレベルでの意見対立はありましたが、中国との距離感を考えるべきという今後の日本の方向性については一致を見ていました。

なので、「あ、これエラーかバグか問題に踏み込んでるな」と気づいたら、割と解消が大変な部類の対立になりかねないので、もし急ぎの場合は、うまく議論の焦点を動かすといいんじゃないかなあと思う次第です。

もちろん、長期的にはやっぱり抽象的な部分での議論も必要とは思うんですけどね。ただ、現実の現場では議論が平行線になるのを避けるのも大事なので。


なお、今回の資本主義を題材とした「エラーかバグか論」は、以前、小室直樹氏の『日本人のための経済原論』の読書感想文を書いた時に、宿題として残していた「資本主義が足りてない」VS「資本主義はやりすぎた」問題と重なる論考となっています。(ちなみに小室直樹氏は橋爪大三郎氏の師なんだそうです。そのためかどうかは分かりませんが、お二人ともに資本主義に支持的な立場ですね。)

なので、今回「エラーかバグか論」を書いたことで宿題を多少は片付けられたとは言えるのですが、ほんというと小室氏による資本主義の定義をちゃんと紐解きながら語るのが良いと思う内容なので、まだこれでも全然まとめ切れてないんです。

気が向いたら、また書きますねー。


それにしても、『おどろきのウクライナ』という書籍の感想文なのに、驚くほどウクライナの話がないという。これこそまさに「おどろき」かもしれません。(江草がとりあげなかっただけで書籍内ではもっとちゃんとウクライナの話もふんだんにありますんで、気になった方はぜひ読んでみてください。面白い一冊でした!)

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