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(50)寄り添う2人。これが私の生きる道。

言葉が通じないのに、直感だけを頼りに結婚し、一緒に暮らし始めて2年が過ぎたころ。英語もそこそこ慣れてきて、マトさん(夫)がいない生活にも慣れ、ご近所運命共同体のメンバーとの絆も生まれ、生活は順調だった。

まだまだ赤ちゃんの娘との生活リズムがあったので、たとえマトさんがいない日々が多くても、私は割と忙しい。夜泣きをする娘をあやすのも1人。自分が風邪をひいても娘の世話も1人。お友達だってそれぞれ家族のお世話してるから、よっぽどのことがない限り自分で頑張るしかない。高熱が出て身体中が痛くても1人。あたりまえだけど食事も自分で作らにゃ出てこない。子育ては待ったなし。あの頃のの私はディズニーチャンネルとか、Nick Jrとか、PBS KIDSという子供向けのテレビ番組にどれだけ助けられたかわからない。ヨチヨチ歩きの娘が真剣にテレビを観ている隙にちょこっと昼寝して、娘が動く気配で起きるとか、本当に一生懸命子育てしたもんです。辛くても仕方ない。だって地元を離れて暮らすのを選んだのは自分ですから。

何度も言うけどマトさんは英語、私は日本語で言葉が通じないで結婚した。通じたのは笑顔とボディーランゲージ。
親も読んでるこの記事ですから、詳しくは書きませんが、
身振り、手振りも含めた広い意味でのボディーランゲージです(笑)

だからね、あんまりケンカしたことがなかったんです。
言葉が通じずに悔しくて泣くことは何度もあったけど、対等に向き合って、言葉をぶつけ合うケンカというのを経験したことがありませんでした。
多分言葉の通じないのも大きな理由だったけど、育った環境も大きく関係していると思う。なぜかといえば・・・、実は私、両親がケンカしたのを見たことがありませんでした。そして今でも見たことがありません。


うちのお父さんとお母さんはとても仲が良くてケンカしたことがないんだよ!


結構みんなに言ってた気がする。
親戚のみんなにも、多分同級生なんかにも言ってた記憶がうっすらある。
うちのお父さんとお母さんはとても仲がいい!いつも仲良しなんだよって、本当に自慢だった。

ある日2人で出かけた父と母。
行先は覚えてないけど、大切な用事だから、子供はお留守番ってな感じだったと思う。私は祖母宅でテレビを観ながら2人の帰りを待っていました。
早く帰ってこないかなーなんて思いながらつまらないニュースを見ていたんです。そしたらね、そのニュースにおったまげな映像が映ったんですよ!
私が見たもの、それは・・・


紺色のスラックスのを履いて立っている男性の足、そしてその横に並ぶ黒地に小花柄のエプロンの女性の足元


これだけ聞いても何がおったまげなのかわからない人も多いと思う。
そのカップル、新聞を広げているので顔は見えません。
でもっ!幼い私はそのカップルの足元を見て


”!!!!!”


となりました。
新聞で顔が見えないけど、仲良く寄り添うそのカップル


”うちのお父さんとお母さんだっ!”


そう確信しました。
決め手は何かといえば、やっぱりエプロンでした。
今でもはっきり覚えてる。
黒地に小花柄、それは正に春美さんのエプロンだと。
そしてその寄り添い方、

前に親戚の集まりのカラオケタイムで、
ちょっと音程が外れた”3年目の浮気”をデュエットしてた姿と同じだ

そう思った。
そして、私に告げていった行先とは全く違う場所にいることも判明した。
だってそのカップル、新聞は新聞でも、競馬新聞を広げていた。
そしてそのニュースの中継場所は、

大井競馬場


だった(笑)

近所にあるんです、大井競馬場。ちなみに競馬は父の趣味です。しかもエプロン姿のまま出かけるお母さん(笑) 近所に出かける時、お母さんはいつもこのスタイルが基本。近所だから品川駅にもエプロン姿で買い物に行ったりしてた。

帰ってきた両親に私が見た映像の説明を興奮気味に伝えたと思う。
父が大爆笑した姿を覚えてる。

まさか娘にこんなエピソードを全世界に向けて暴露されるなんて思ってもみなかったと思うけど、うちの両親は仲良しだというネタで思い出しちゃったんだから仕方ないということで、お父さん、お母さん許してね(笑)


でもね、きっと大きな怒鳴りあいのケンカはしなかったけど、多分当人たちはケンカしたい時もあっただろうし、見えないところではしてたかもしれない。でもそれを子供に見せずに通してくれた。ある程度大きくなってからは父も母も言いたいことや怒りを一生懸命抑えてケンカにならないように努力をしているんだなっていうの見てわかる時も多々あった。
それでも、やっぱり両親は私の自慢である。


そんな両親に育てられたので、私はケンカが下手です。
言いたいことをどう伝えていいかわからずに、すぐ泣いちゃう。
だからズルいんです(笑)なので結婚してからも2年くらいはケンカというケンカはなかった。私が泣いて、マトさんが折れてくれる形は何度もあった。でもとうとうやってきたんです、その日が。Xデーが。


今ではもうお酒を飲まないマトさんですが、その頃はまだ酔っぱらうこともたまにあった。別に酒癖が悪いという訳でもなかったけど、こっちがシラフで、相手が酔っぱらってるっていうのは、なかなか話が通じなくてイライラする。多分マトさんはそのケンカの内容覚えてないと思う。でも私はなんで起こったのか覚えてる。マトさんにとっては大したことないことも、私にとっては結構大切なこともある。逆も然りですが。


今となっては本当に考え方の違い。
どっちが良いとか、悪いとか言っても始まらない。
でも私、その日は堪忍袋が盛大に切れまして怒りが爆発しました。
がしかし!英語力も前より上がったとは言え、ネイティブ相手に対等にケンカなんかできるはずもない。伝えようとしても伝わらない言葉、気持ち、その上酔っぱらい。


このかなり手強いネイティブ酔っぱらい相手に私は切り札切ったんですよ。私にできる切り札は1つしかありません。そうです、あれです。


”えぇーい!この紋所が目に入らぬかぁ!!!!”



と言って、長方形の例のあれを取り出しました。
あれですよ、あれ。


”日本国パスポート”


バッサリと切り札を切ってしまったんです。


”ダメなら帰ってくれば良いじゃない”


結婚を決めた時に母が言ってくれたその言葉があったから、言ってしまった。


”I’m going back to Japan!!!"
(ふざけんな!この酔っ払い!あたしゃー品川に帰っちゃる!!”


お財布と紋所(パスポート)持って玄関に走る私。
酔ってるマトさんは娘を抱っこしてカウチに座って動かない。


”追っかけてこない・・・”


そこがまた憎たらしい(笑)
追っかけてこいよ、そう思った。
とりあえず近所の公園に行って時間を過ごした。
だってもう夕方。車に乗らずに歩いたから、どこにも行けず。
行けたのは近所の公園くらいでした。


公園のテーブルに座って泣きました。
あの酔っ払いめ!本当に頭にくるぜっ!!と怒る反面、
これからどうしよう。本当に実家に帰るのか。
近所に住んでたら絶対すぐ帰ってたよね。。。
ハワイから日本、遠いいなぁ。
国際電話が出来るPhoneカードは常にお財布に入ってたし、
実家に電話してお母さんに相談してみようかな、そう思いました。


でもさ、お母さんもお父さんも私が泣いてたら絶対心配するし、心配してもこんなに遠距離では何もできない。ダメなら帰って来て良いよって言ってくれたお守りにしてきたその言葉も、こんなにすぐに頼ってしまっていいのだろうか、そう思って電話は思いとどまった。遠く離れた土地で、娘が電話口で泣いてたら私だって心配で仕方ない。そして何もしてあげられずにもどかしい気持ちでいっぱいになると思う。ケンカを見せずに私たちを育ててくれた両親に、そんな思いをさせてしまうのは違うと、そう思った。
どんどん暗くなる公園で、この後どうすればいいのかしょんぼり考えた。


脳裏に焼き付いて離れないのは”娘を抱っこしてカウチに座ってた酔っ払い・・・じゃなくて夫の姿”。このまま終わっていいのかな。悩みに悩んだ結果、トボトボ歩いて向かった先でドアベルを鳴らしてみた。


そこには娘を抱っこして、ちょっとだけ酔いが覚めたっぽいマトさんが立ってた。


”I'm Back. (ただいま)”


そう一言だけ言った。


”Thank you for coming home.”


マトさんはそう言って、私を家に迎え入れてくれた。娘が私に抱っこされたくて手を出していた。涙が出た。一瞬でもこの子を置いて家を飛び出した私は本当にダメな母だと思った。娘に心配かけた、母親の私が。どうしようもないなと。


マトさんへの怒りも少しというかだいぶ落ち着いて、娘を寝かしつけた後に改めて少し話した。その内容は詳しく覚えてないけど、一つだけ覚えているのは、マトさんが真剣に言った言葉。英語でなんて表現していたかは思い出せないけど、私が頭の中で日本語に変換したのはこういう表現だった。


”Yuriは日本に家族がいて、帰る場所があるからいいけど、俺帰る場所はここしかないから、すぐ日本に帰るっていうのはズルい”


そう言われて、私ハッとした。
マトさんも家族がいないわけではないけど、家族との関係が複雑だから、確かに私のように帰る場所はない。私って甘えてるんだなって思わされた。


何かあれば逃げればいい、品川に帰れば助けてもらえる。


そう思ってた。甘え、完全に甘え。
この時のマトさんの気持ちを知った後、やっぱり私はズルかったと思った。私だけいつでも逃げ出さばいいやはズルさ以外の何物でもない。
だから私、この日以来紋所を切り札にすることは封印しました。


”母のの言葉と紋所(パスポート)はあくまでもお守り”


この初めての大ゲンカ、決して無駄じゃなかったなって思います。
ケンカをしているときは気持ちの良いものではないけど、ケンカによって吐き出される言葉は相手の考えや気持ちを知る1つの手段みたいな。


私ね、ケンカするのが怖かったんだとも思うし今も怖いです。
この初めての大ゲンカから17年ほど経ちますが、今もケンカ好きじゃない。でも初めてのケンカの時よりも多く意見を言えるようにもなったし、相手の出方も良く分かるようになった。相手を傷つけてしまう言葉をお互いに言っちゃうこともあって、何度も何度も腸煮えくり返っていますけど、マトさんが結局こうまとめる。


”We have fights that doesn't mean it's the end”
(ケンカしたからって、もうこれで終わりってわけじゃない”


そう、その通りなんだけど、やっぱり腹は立つ。
イライラする(笑)あの後何度もケンカして、離婚の危機も何度もあって、本当にダメかなって場面は幾度となく通り越えてきた。
それでも歯を食いしばって許しあって何とかここまで来たわけで。


横須賀に住んでいた6、7年前。
マトさんとの関係はそりゃもうどうしようもなく冷え切った時期があって、それでも子供たちがいたからお互いに我慢もした。子は春日井のグリーン豆・・・じゃなくて子は鎹を身をもって体感した時期だった。
子供たちの為につながっていようと努力した時期があった。
その頃は品川まで1時間で行けちゃったから、実家に何度も避難したりして。その時にね、叔母のJ子さんに言われた。


”あんた、強くなったわねー”


実家離れたから、強くならないとやっていけなかったよ(笑)っていいました。J子さんをはじめ、叔母さんたちがいつも私や従姉妹たちにそれとなくかけてくれる言葉には結婚生活を長く続けてきた人生のパイセン的な深みがある。サラッと言う言葉が、意外と深い意味を持ってて考えされられたりする。みんないろんな道を通ってきたよね。良い時も悪い時も含めて人生だから。


”結局は自分で選んだ道だから、頑張るしかない”


横須賀時代のマトさんと私の冷戦期、私がいつも考えてた言葉。
子供たちの為に頑張るのも自分が選ぶ道。
マトさんと離れて一人で子供を育てるのも自分が選ぶ道。
もやもやとしてた毎日に、こればっかり考えてた。
そしたら、叔母のJ子さんが、悩む私に自分が思ってるのとまったく同じその言葉をかけてくれた結局選んだのは自分だと(笑)

あの頃を超えたから、なんだか私の中に生まれた悟りのようなもの。
どんなに悩んでも、もがいても私がたどり着く言葉がこれ。


誰のせいでもない、道を選ぶのは自分。


泣いても、笑っても、自分の人生だから。


全部自分の生きる道。


さて、今日はどんな道を歩こうかな。





エッセイに登場する”出演者”である家族に”出演料”として温泉旅行をプレゼントするのが目標です。イッテQ!の温泉同好会の様な宴会をすべく、各自芸を磨いて待機中との事ですので、サポートしていただければ幸いです。スキ、シェアだけでもすごくうれしいです。よろしくお願いしますm(‐‐)m