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山の茶屋にて(4)

ここまでのあらすじ

夏の日,山の茶屋にて 
 真夏の暑い日,山の茶屋で水まんじゅうを食べた。かかっている吉野葛の話から,店の娘を吉野に誘ってみた。猫野サラさんの夏のイラストから発想。
山の茶屋より始まりし
 船石ワカさんによる続編。娘の視点で描かれる吉野。
ちょっと吉野まで
 南葦ミトさんによる続編。文体模写のおまけつき。
山の茶屋にて(2)
 猫野サラさんの秋のイラストを使って,さらに続編として書いたもの。
 登場人物の名前の設定などは船石さんのものとは異なりますが,どちらの,というのでもなく,「吉野に行った」ということを継承。宿泊地については,南葦さんの設定を借用。
山の茶屋にて(3)
 猫野サラさんの秋のイラスト2つめ。モンブランには紅茶が似合う。紫乃といっしょに栗拾いに行く。


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 チェックアウトを済ませると,バスで瑠璃池に向かった。朝夕,季節で色が変わるという触れ込みの池だ。周囲は2kmほど。ぐるっと遊歩道が整備されている。ところどころに置かれたベンチは,誰が整備しているのかきれいに清掃されていた。そのひとつに腰かけ,池を眺める。鳥の声が聞こえる。午前中でまだ早いせいか,観光客は少なく,思索にはもってこいだ。
 原稿のひとつは昨晩メールで送った。次のインタビューのまとめ記事だが,構成をどうするかが思案のしどころだ。必ずしも時系列で並べる必要はない。
 ふと,昨日の栗拾いを思い出した。そうだ,インタビューの相手は,録音にはないが,素では初対面でも結構ダジャレを言ったりする気さくな人だった。彼も結界でしびれる真似をしそうだ。そんな様子が感じられるものにしよう。もしも却下になればそれはそのとき。
 キーボードを叩いているうちに昼になった。瑠璃池のバス停前の店でやきそばを食べ,バスに乗りこんだ。

 午後1時を少し回った。暖簾をくぐると,おかみさんが対応した。
絨毯が敷かれた部屋のテーブルが一方に寄せられ,電子ピアノが置いてある。すでに数人がテーブルについている。
 窓際の席はまだ空いていた。

「きょうは何を召し上がりますか」
「抹茶ロールを。これに合う飲み物はなんでしょう」
「そうですね,お茶以外なら」
母娘,似たようなものの言い方だ。
「ストレートコーヒーがよろしければこちらにありますよ」
メニューをたぐって見せた。
先日も見たメニューだ。そのときはあまり気にしなかったが,あらためて見ると,キリマンジャロ,モカ,ブルーマウンテンといった定番はなく,ケニア,アマレイロブルボンなどの銘柄が並ぶ。モカもモカ・イルガチェフとなっている。モカは普通はモカ・マタリのはずだ。
「お勧めはありますか」
「そうですねえ,珈琲はほんとに好みで分かれるので」
「アマレイロブルボンというのは?」
「ブラジルの珈琲です。お値段は一番安いですが飲みやすいと思いますよ。抹茶ロールなら合うでしょう。トラジャだと,ちょっとお菓子と個性がぶつかるかも」
安いといっても400円だから普通か。トラジャも600円だからそれほど高くはない。
「うちの主人が珈琲にはこだわりがありましてね,ポピュラーな銘柄は出さないんだ,他の店で飲めばいいだろうって頑固なんです」
一番安いというのがなんとなく自尊心にひっかかるが,お勧めならいいだろう。
「では,アマレイロブルボンで」

そうこうしているうちに客が増えてきた。畳敷きの部屋はテーブルを片づけて座布団だけ敷いてある。注文をしなくてもコンサートを聞くだけでもいいらしい。地元の人らしいおじさんやおばさんだ。

2時になり,赤いドレスの紫乃がヴァイオリンを持って現れた。
手元のプログラムを改めて見る。
エルガーの「愛の挨拶」から始まり,よく聞くような小品が並んでいる。ビートルズや葉加瀬太郎もある。

「みなさん,よくいらっしゃいました。紫乃です。まだ学生で修業中ですが,今日は皆さんに聴いていただきたくて小さなコンサートを開きました。ピアノは居間にあるのですが動かせないので電子ピアノです。そのかわりチェンバロの音も出せます。では,一曲目,愛の挨拶から演奏します。」

ピアノ伴奏はおかみさんだった。和服のままだ。
演奏が始まる。譜面台を見ながらの演奏で,暗譜ではないようだ。それでも,フレーズの切れ目に客席に目を移し,笑顔を見せる。
「怖い顔」といっていたが,楽しそうじゃないか。

一曲ごとに簡単な説明が入る。

「次は,平原綾香の歌で有名になったジュピターですが,ご存知の通り,もとはオーケストラの曲です。組曲惑星のうちの木星。そのなかの一節,ゆったりしたところだけとっているのですね。もとの曲は,不思議な形をしていて,螺旋階段みたいに同じようなことを繰り返しながらどんどん音が上がっていくんです。歌では途中で一オクターブ下げてしまうのですが。では,どこまでいけるかやってみましょう。」

ヴァイオリンとピアノ用に自分でアレンジしたのだろうか。始めは原曲通りのスタート。ヴァイオリンが細かいパッセージを引き,ピアノが骨太のメロディを弾く。そのあとが,おなじみのジュピターのメロディだ。低音から始まりだんだん音が上がっていく。 E線の上を指が駒に近づいていき,ほとんど指が伸びきったところでフェルマータ。そこから短いフィナーレに突入する。知っている曲ということもあってか,客席からは大きな拍手だ。
紫乃はペロッと舌を出した。「ちょっとはずしちゃいました」
客席から「紫乃ちゃん,だいじょうぶ」と声が出た。
山の茶屋での,客席と一体となった小さなコンサート。
たしかにみんなで紫乃を応援したくなる気持ちがわかる。

コンサートは40分ほど。アンコールはなしだった。
紫乃が「ありがとうございました」というと,前方に陣取っていた若者たちが拍手しながら紫乃のところに行く。
「紫乃ちゃん,よかったよ」
同級生だろうか,名古屋からわざわざ聞きに来たのだろう。
座布団に座っていたおじさんやおばさんたちが席を立つと,紫乃がやってきて,「田中さん,ありがとうね」とか言ってひとりひとりに挨拶をしている。
その人たちが去ると,また同級生と話をしている。
別に,無視しているわけでもないのだろうが。

さて,帰るか。
支払いを済ませて外に出た。
と,「鏑木さん」と背後から声がした。

「ごめんなさい,今日はありがとうございました」
ぴょこんとお辞儀をする。
それだけで先ほどの疑念は吹き飛んだ。

「いえ,こちらこそ。お友達と話が尽きないようなので失礼しました。素晴らしい演奏でしたよ」
「ありがとうございます。鏑木さんが窓際の席にいるの,知ってたんですが。こんどは冬休みに帰ってきます。鏑木さん,またいらしてくださいね」
「はい,その前にも来るかもしれませんけどね」
「そうですね,ぜひ。母も喜びます」
「それじゃ」

LINEのアドレスを,と言おうと思ってやめた。
向こうも聞かないし,ま,お客のひとり,ということだろう。
「母も喜びます」もセールストークとしてよくできている。

バスが来るまで,ベンチで山を眺める。
来月末にはこの山も紅葉に染まるのだな。
紫乃がいなくてもその頃にまた来よう。
きっと執筆もはかどるだろう。

バスが来た。
乗りこむ前に,茶屋の方をふと見る。
遠くから紫乃が手を振っていた。