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山の茶屋にて(2)

狂った暑さの8月が過ぎ,9月も半ばになって朝夕が少し涼しくなってきた。
ならば仕事もはかどりそうなはずなのに,コンクリートジャングルでエアコン漬だった頭はいまひとつ働かない。
そうだ,今度の連休,あの山の茶屋で書き物をしよう。きっと涼しくていいだろう。
あの娘さんは夏休みも終わって大学だろうけど,まあいいか。

念のためWebページで連休中に営業をしていることを確かめて電車に乗った。
JRの駅からバスに乗り換え,30分。
あれほど照り返しが強かったアスファルトが今は落ち着いている。
戸を開けて入ると,おかみさんが応対した。
「あら,お久しぶりですね。その節は娘がお世話になりました」
「いえ,こちらこそ楽しませてもらいました。ありがとうございました」
覚えていたのか。
あの日と同じように,「籐の椅子」を選び,窓際の席についた。清流と山の緑が涼しさを増す。
何か違うな。
そうだ,風鈴がないのだ。

「風鈴ははずしたんですね」
注文を取りに来たおかみさんに話しかける。
「はい,秋ですから。9月になってはずしました。お菓子も秋のものになっていますよ」
写真入りのメニュー。モンブラン,ロールケーキの横に,もみじまんじゅうのようなものがある。
「これ,もみじまんじゅうですか」
「ああ,似てますね。でもこちらは生菓子です。中はあんこで,外にうっすらと葛をかけてあります。うちのオリジナルです。」
「おいしそうな和菓子ですが,これだと珈琲には合いませんね」
「そうですねえ,お抹茶かお煎茶がよろしいのでは」
返事をしかねていると,さらに説明があった。
「お抹茶は宇治ですが,お煎茶は静岡県の森の深蒸しですのよ」
「深蒸し?」
「はい,静岡県の森や掛川のあたりでは,深蒸し茶といって,製茶をするときに蒸す時間を長くしたものなのです。深い緑色で味わいがありますよ。お抹茶が苦手な方にはお勧めです。」
「では,もみじと,煎茶をお願いします」

待っている間に仕事を,とも思ったが,あわてることはあるまい。ぼんやりと清流を眺めているのもいいだろう。山は緑のままだが,開け放した窓から来る風はすっかり秋だ。

玄関が開く音とともに,「ただいま〜」という声が聞こえた。
あ,あの声は。
声の主はそのまま奥へ行ってしまったようだ。
まもなく,注文した菓子と茶がきた。
盆を持っているのは,あの娘だ。和服ではなく洋服。
「お久しぶりです。先日はありがとうございました」
「あれ,大学は始まってるんじゃないんですか」
「ええ,でも連休なのでお手伝いに来たんです。お会いできるとは思っていませんでした」
「今日は和服じゃないんですね」
「鏑木さんがいらっしゃってると聞いたのでとりあえず。和服はすぐには着れないので」

空の湯飲み茶碗とポット,急須がテーブルに置かれた。
茶葉を急須に入れ,湯を注ぐ。
その様子を黙って見ていた。
「はい,これで30秒ほどお待ちになってから注いでください」
「すぐじゃないのですね」
「はい,新茶ではありませんが,一煎目はこのくらいで。二煎目からは少し熱めの湯に変えますのですぐで結構です。」
「湯も変えるんですか」
「そうです。二煎目は少し熱めのほうがおいしいというか,味わいが変わりますので」
「そんなものですか。普段は全然気にしていませんが」
「ああ,いいお茶ですので少しこだわっています」
「なんて言ってるうちに30秒たったんじゃないですか」
「あはは,そうですね。」
娘は笑って茶を注いだ。

なるほど,深い緑色だ。ふだん飲む茶とは全然違う。
「きれいな色ですね」
「どうぞ召し上がってください」
「お菓子が先?」
「そこはこだわりませんのでご自由に。まずひとくち飲んでいただく方がいいかもしれません」
一口すするようにして茶を口に含んだ。
今までに体験したことない香りだ。
煎茶がこれほどのものとは。

「お菓子もどうぞ」
娘は立ったままにこやかに話す。
菓子をひとくち食べたところで,言ってみた。

「お客,それほどいないようだから,一緒にどうです,お茶。大学の話なんか聞きたいな」
「聞いてきます。お湯も替えて」

まもなく,ポットを2つと菓子,急須をもってきた。
「母が,客が来るまではいいそうです。あ,二煎目,まだですよね」
新しい湯を注ぎ,今度はほとんど待たずに急須を振って湯飲みに注ぐ。
なるほど,先ほどより熱い。そして味わいが違う。

「三煎目くらいまでは味は出ると思います。香りはほとんどなくなりますが」
「森っていいましたっけ。こんな味わいのお茶,初めてです。」
「実は母の実家が森なんです。親戚がお茶屋なので。森ってご存知ですか」
「いや,どのあたりですか」
「新幹線の掛川から北の方へいったところです。森の石松ってご存知ですよね」
「次郎長一家の?」
「そうです。その森なんです」
「へえ,どんなところなんですか」
「そうね,遠州の小京都って言ってますけど,歴史的にもちょっと洒落てて,でも,川には鮎がいて,水はおいしくて山の緑もきれいなところですよ」
「行ってみたいな」
「でも,ここからでは遠いですよ。吉野のようにはいきませんから」
含みがあるのか,笑いながらそう言った。

「大学はどちらなんですか」
もみじのひときれを口に運びながら聞く。
「けんげいです」
「けんげい?」
「あ,失礼,けんげいじゃわかりませんよね。愛知県の県立芸術大学です。それでけんげいと言っています」
「絵画ですか,音楽ですか」
「音楽です。専攻はヴァイオリンで」
「ヴァイオリン。じゃ毎日練習が必要なんじゃないですか」
「ええ,ですからヴァイオリン持ってきています。夜はここで練習です。店は5時までなので」

玄関が開いて,四,五名の客がはいってきた。
「しのちゃん,お願いね」
奥から声がかかった。
「あ,お客なので失礼します。私のだけ下げますがどうぞごゆっくり」

菓子を食べ終え,茶も3煎目まで飲んだ。ノートパソコンを開く。
あれほど重かった頭がずっと軽くなっている。ふつふつとアイデアが湧いてくる。山の清澄な空気のせいだろうか,おいしい緑茶のおかげか,それとも紫乃の涼しげな笑顔を見たからか。

ともかく,ここへ来るという選択は間違いではなかったようだ。


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猫野サラさんにリクエストして描いてもらった秋の菓子のイラスト。
そのうちの1つを使わせていただきました。