ファウスト

 ドイツの文学において語ることを欠くことのできない存在、それがゲーテであり、ここ日本でもゲーテの代表作として、また、“ファウスト“と聞けば、多くの人は無条件に彼の書いたFaustを想起する。もしくは、ゲーテの書いたもののほかにファウストを題材にとった劇や小説が数多くあることや、そもそも、15世紀ごろに存在したとされるファウストなる人物の遍歴や民間でまことしやかにささやかれた伝説があることを知らない。かくいう私も、ファウストを読み、その作品のありよう、成立背景、伝説と比し、ゲーテがどのような改変を加えたか推察する目的でファウスト伝説を調べるまでは、ほかにいくつもの『ファウスト』、『ファウスト博士』のあることも人の口の上にのぼった実在の人物としての彼については想像だにしていなかった。

 では、伝説上のファウストとは、仮にも存在したようであるファウストとはどのような人物であり、どのようにして語られるようになり、伝承がなされたのか。まず、このことについて述べる。

ファウストは15世紀後半から16世紀前半に生きたと目されている。彼自身によるものと称される本は数多くあるが、信頼性に欠けるため、同時代の人々により書き残された証言という残滓からの記述が、いくらか信用に足るものとして判断され、かすかな文章にのぼったかすかな影から、歴史上のファウスト像は研究されている。


修士 ゲオルギウス・ザベリクス・ファウストゥス二世

交霊術の祖にして占星術師、魔術師の第二人者、手相士、空相占い師、火相占い師、水相占い師の第二人者

「自分は偉大な知識とあらゆる学識を得た、仮にプラトンとアリストテレスの全作品が、そのすべての哲学とともに人々の記憶から失われたとしても、それらをヘブライ人エズラの後裔のごとく、みずからの才を用いて完璧かつ前のものより優れた形で作り出して見せる」


 上記の記述は1507年8月20日大修道院長ヨハネス・トリテミウスからヨーハン・ヴィルドゥンゲ・フォン・ハスフルトにあてて書かれた書簡において、彼の自称したところによる素性、また、修道院長が彼を表した言葉をもとに要約したものである。[i]

 自らの頭脳にどれだけ自信があったか、それともただのほらふきか、これだけでは判断がつかないが、司教のホロスコープを作成したり、教職に推されたりと、立場ある人間に認められることもあり、いくらかは教養や実力はあったらしい。彼自身の称する天賦の才を持った人間という側面のほかに、彼は放浪者でもあった。定住することなく、町と街を渡り歩く、旅職人や洋平などと同じ、「不名誉な」人々のグループに所属してもいて、城砦の中に入ろうとしたところを彼が放浪者であるという理由から(こういった定住しない「不名誉な」人々は定住生活を営む人にとっては新しい風を運ぶ一方で厄介ごとをも連れ込んだ)拒まれたという内容の記録も存在している。

 目を引くのは、彼に関する記述は時代の主役とも呼ぶべき、宗教改革者マルティン・ルターの発言を記録した『卓上語録』にもファウストゥスなる黒魔術師のことが話題になった、というくだりがある点である。これにより、ファウストが人々の中に強く印象付けられたことも将来的な彼の「伝説」の形成にも影響したことだろう。その中で彼自身が悪魔を自分の義兄弟と呼んだ、と述べられており、悪魔的魔法使いとして扱われている。

 1539年に直接の言及でないこそすれ、ファウストについて触れられたのち、彼がもはや姿を消したと思しき記述がみられる。このころには彼は亡くなっていたのではないかと思われ、彼の墓の居所や財産がどこへ行ったかは不明だ。このように、実在の人物としてのファウストの輪郭はあまりに茫洋としている。当時代の人々に交じったファウストはより詳細に生き生きとした姿が語られ噂されたことだろうが、ゲーテの『ファウスト』に出てくるような人物像とは少し遠い。

では、このファウスト、自称オルギウス・ザベリクス・ファウストゥス二世、変わり者はいかにして、文学の檜舞台へと上がったのか。それは彼の死後、ほかの錬金術師パラケルススやほかの科学者に関する荒唐無稽な、魔術的なうわさ話がファウストにまつわるものとして語られていった結果、人々が口頭で「昔ファウストという魔術師がいて、悪魔と契約してこんなことをしたらしい」というでたらめ話を肴にした結果、話が膨れ、物語として成り立つほどにエピソードが編まれ、『ファウスト伝説』というものが世間で醸成されていったことによるものなのだ。つまり、ゲーテに限らずレッシングやハイネ、多くの無名の作家たちが試みたファウストという題材は、はじまりからして人々の中から生まれたものなのであった。

このように、形成されていったファウスト伝説を一つの完成形にしたのが、『ヨーハン・ファウストゥス博士のヒストリア』、通称ファウスト本、自伝として出版された著作である。

 

悪名高き魔法使いにして黒魔術師ヨーハン・ファウストゥス博士のヒストリア、いかにして彼が悪魔と期限をもって契約し、その間いかなる奇異な事件を目撃し、またみずからおこない、実行し、当然の報いを受けたか。傲慢で知に溺れ、かつ涜神的なあらゆる者どもにたいするおぞましき見本、忌まわしき範例、そして心からの警告として、大部は彼自ら遺した書よりまとめ、印刷す。[ii]

 

 作者は不明。出版業者ヨーハン・シュピース曰く、「シュパイアーの友人」の手によるものだという。文章などを見るに、教養があり神学に造詣の深い人物と目され、文体としてはファウスト自身による自伝、彼の遺した文章を編纂したものとして書かれる。

 

出身 ヴァイマル近郊のロート村 敬虔な農民の両親のもと生まれ、ヴィッテンベルクの裕福な叔父に引き取られ、優秀な学生に成長し、神学博士になるも、魔法の研究に心惹かれ、神学者をやめて医学博士を称し、対面上医者としての活動をはじめる。

彼自ら悪魔を呼び出し、契約する。悪魔は「メフォストフィレス」と名乗る。


 上記は、ファウスト本において語られるファウストの素性である。それらしく、仔細にファウストの生い立ちや為人が述べられている。溝井曰く、自伝として書かれたのは、エンターテインメントとして自伝的な作品が当時流行り、という点や、宗教改革の波により、悪魔にそそのかされることなく神に忠実に生きようというありかたを推奨する(ファウスト本のファウストは死の間際教え子たちに神の道のもと生きるべきだと後悔の中説くし、悪魔メフィストフェレスも自分が人間ならまっとうに生きる、と語る)、道徳的な役目をも担う本であった。この時点でファウストは単なる魔術師ではなく、それ以上の存在として、書き手に利用されていることは面白い。また、悪魔についてだが、メフィストフェレスというのは、もともとおとぎ話などに出てくる悪魔の名前がメフィストフェレス(メフィストフォレス、とも)であり、民間伝承の際に追加された設定であるようで、この本でイメージが固定化され、ファウストの悪魔はメフィストフェレスとなったのであろう。

 このファウスト本は瞬く間に増版、改編されたもの、翻訳が出回り、国内では人形劇などが演じられ、ドーヴァー海峡を越えイギリスのマーロウの手により演劇となり、これが逆輸入されてまた各所で楽しまれた。

 ここまでが、ゲーテ以前のファウスト像、背景事情である。なぜ、ゲーテのファウストは今もなお不朽の名作として讃えられるのか。先ほど述べた通り、ドイツ国内においてはそもそもからして民衆の中で育まれた物語であるからして馴染みがあり、好まれる、というのは一つの理由となりうる。

しかし、これほどまでにゲーテの『ファウスト』が他に類を見ない畢竟の作とされているのは、おおもとの伝承からの大胆な転身、ゲーテ自身の投影のなせる業であろう。個人的には、ゲーテの『ファウスト』は好きではない。出だしの悩める、身もだえするような老ファウスト博士の懊悩は好ましかったが、あまりに転々としすぎている。まるで、先の出来事をもう覚えてもいないように場面へ場面へ、紙芝居のように飛び移っていく姿が、ちぐはぐに見えた。しかし、この部分こそが、オリュンポス山や冥界の川、盲目になりながらも夢に向かい続ける、伝説から大きく外れて付され、あるいはヘレネとの結婚など一見浮いている荒唐無稽な話をも盛り込んだファウストこそが、ゲーテのファウストの核心である。

柴田翔曰く、ファウストの(彼の訳文が手元にないので新潮文庫高橋義孝訳からの引用になるが)天上の序曲における主の「人間は精を出している限りは迷うものだ」、この「精を出している」という語に相当するstrebenは追及する、まっすぐに進む、という意味のほうがむしろ本質なのではないかと論じている。[iii]また、ファウストは創世記を読み上げ、「太初に言ありき」という記述に対し、自分なりに「太初に行ありき」と改めている。『ファウスト』とは、倦むことなくあらゆることに対して働きかけ続けた人間が、マルガレーテに恋し、ヘレネ―を求め、戦に出、国家建設の夢を見てー-、何を起こそうとも進み続ける限り救われるという、人間性を賛美した、ゲーテの生業というにふさわしい作であるという。たしかに、ゲーテ自身、ヴァイマルの宰相を務めたり、戦の指揮をとったり、ナポレオンと謁見したこともある「進み続けた」人であった。ゲーテ自身が色濃く反映された「ファウスト」が大世界を小世界を目まぐるしく駆け巡る姿はなるほど、魅力的だ。これが、ゲーテの書くファウスト、ゲーテにしか書けないファウスト、その魅力であろう。

 しかし、もう一方で、また別の側面から、この作品の構成の巧みさ、想像力、表現の豊かさにおいては感嘆する一方で、内容にはいまいち興が乗らない私もいた。作品の持つ時代背景からして、仕方のないことではあるのだろうが、あまりに『ファウスト』はひとりよがりな、「男の夢」を描いた作品のように見える。この点において、私は色濃く「古さ」を感じてしまった。若返るのも、美しい清純な町娘と恋するのも、貴族社会に踏み入り、ご機嫌取りをするのも、世界で一番美しい女ヘレネと結ばれるのも、そして最後には救われることも、あまりに都合がよすぎる(元の伝承からして無理のある、人々の想像や無関係な話を盛り込んでいたのだからそういうことを言うのは全くのお門違いのようにも思えるが)、不自然な、いびつな妄想のように見えてしまう。『ファウスト』の作品としての完成度は読むほどに思い知らされるし、後世への影響も絶大だが、どうしても自分の手になじむ心地がしないのが、不思議なのである。これは、私が疑問を提起するのみとなってしまうが、ファウストは文学作品としての完成度や影響力は言うまでもない。しかし、現代にも息づく物語であるのだろうか?この点においては、私の読みが足りない可能性も大いにあるので、今後の課題として最後に提示させるにとどめる。



[i] 溝井裕一 2009年 『ファウスト伝説 悪魔と魔法の西洋文化史』 文理閣

[ii] 上より引用

[iii] 柴田翔 1997年 『「ファウスト第一部」を読む』 白水社