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「毒」という名の特効薬


「毒」
と聞いて、なにを思いうかべるだろうか。

「毒」というプレートをかかげて、道を走っているトラックは、なんだか近づきがたい。

ひとの悪口ばかり言って、毒づいているひととは、距離をおきたくなる。

食べすぎてしまった日には「これはからだに毒だな」などと思ってしまう。

いいことは、ひとつも思いうかばない。


逆に「毒のない状態」はどうだろう。
それは、一点のくもりもなく、まっさらで透明なイメージが思いうかぶ。

理想的。

そんな状態の自分で、いつもいられたらいいなと思う。

もちろん、からだの状態だけに限ったことではない。

こころの状態も、毒がないほうが、やっぱりちょっといい感じ。

いつもえがおで、明るくて。
人あたりがよくて、前向きで。
すなおな心と、ピュアな気持ちで。

毒のないこころのイメージは、少女マンガに出てきそうな、そんな人間像。

やっぱり、そんな状態の自分で、いつもいられたらなと思う。

とは思いつつも、これってどうも、人間味にかけるなぁ……とも思ってしまう。

まるで、ファンから「彼女たちは、うんこはしない」と言われるアイドルのような。

しかしながら、そんな「人間らしくない人間」を、わたしは理想としている時期があった。

いまから思うと、そんな自分を「きもちが悪い」とさえ感じてしまう。
本気で、それを目指していたのだから、なおさらである。


彼氏と車に乗っているときも。

かわいいわたしでいようと、となりで口角をあげて、笑みをつくっている自分。

「楽しそうでよかったよ」
そう言われて、がんばった甲斐があった、と思ったり。

しごとをしているときも。

調子のわるいからだをかかえながらも、えがおで接客をしている自分。

しごとなのだから、無理するのは当たりまえ。
そう思っていたわたしに、いまの私は問いたい。

「本当にそれは、あたり前のこと、なのだろうか」と。

理不尽なことを言われたときも。

イラっとした自分を、なかったことにして、平気なふりをする自分。
なかったことにされた「わたしの感情」は、一体どこへいったのだろうか。


それにしても、傍から見れば、なんてわたし、いい子なんでしょう。
まわりにいるひとにも、害がなく、あつかいやすい。

まさに「毒」とは正反対のもの。

しかし、その「いい子」は、やがて悲劇をうむ。

「毒のない状態でいたい」という、おさえこむ気持ちそのものが「毒」となって、わたしの中に、塵のようにつもっていく。

やがてはそれが、わたしに覆いかぶさり、わたしが見えなくなるほどに、うまっていく。


「毒」というプレートをつけて走っているトラックの方がまだましである。

毒がたまりにたまっているのに、まわりにはそんなことは一切わからないように走っている状態の自分は、自覚がない分だけ、その「運転」は実に乱暴で、無防備である。


それにしても、なぜこんなにも「毒」を吐き出さない自分になってしまったのだろうか。

考えてみると、いくつか思いあたる節は、ある。

小さいころから「ものごとのいいこところだけを見なさい」と、言われて育ってきたわたし。

いつの日か、「いいところ」が見えないと、すなおにそれを表現しない自分になっていった。

「わるいところ」には、ふたをして、目をそらすようになった。

「わるいところ」を感じない自分になろうと努力し、結果「吐き出せない自分」ができあがったように思う。

もちろん、何ごとも「いいところ」と「わるいところ」は表裏一体。

「いいひと」にも「わるいひと」がいて、「わるいひと」にも「いいひと」がある。

「なに」を「どう」見るかで、もの事が、がらりと変わるのも事実である。

「わるいところ」にふたをしてしまえば、「いいところ」がクローズアップされそうな気もする。

しかし、「毒かどうかは、その量で決まる」とはよく言ったもので、
何ごとも、やり過ぎはよくない。

どうやら、こころの毒にも、同じことが言えそうである。


「毒出し」「デトックス」などと言われ、からだの中にたまった「わるいもの」をそとに出して、からだをきれいにするそれは、いまや誰もが知っている健康法である。


水分をたくさんとったり、汗をたくさんかいたり、食事をとらないで断食をしたり。

いろいろと方法はあるが、とにかく、からだにたまった毒素を出して、クリアな状態にもっていくのが、これらの目的だ。


こころの毒も、そうやってそとに出すことが必要なのだろう。

特別それが「できにくいわたし」なのだから、意識してする必要がありそうだ。
汗をかきにくい人が、運動をしてデトックスするように。

これにも、いろいろと方法はありそうだが、わたしが意識してやったことがある。


① 悪口を言うようにする。
② 腹が立ったら、まくらを思いきりたたく。
③ えがおは、つくるのではなく、自然と出るのをまつ。


以上の3点を、しばらくお試しでやってみた。

結果、なんだか、こころが、楽である。

こころの「詰まりもの」が取れたような、そんな感覚である。

しかし、ここで忘れてはいけない重要なことがある。

「毒かどうかは、その量で決まる」

試した3点は、あまりにもその量が多い場合、猛毒となって自滅する恐れがあるということである。

変な噂がたつことだってあるし、まくらがやぶれる恐れだってある。

笑うことを忘れて、いつの間にか、眉間に深いしわができてしまうかもしれない。


「毒」と言えば、先日、マムシに噛まれた人の話を聞いた。

マムシ。

あの、猛毒をもつと言われるヘビ。

噛まれたら死に至ると言われる、あのヘビである。

敵におそわれたときの防御策としてのその毒は、天から授けられた、自分を守るための「武器」とも言える。

こころのデトックス方法3点を試して気づいたこと。

それは、わたしの中にも、自分を守ってくれる「毒」がある、ということである。

「わたし」が「わたし」であるために、天から授けられた「毒」。

マムシのように、ここぞ、という時に、ぜひ利用したいものだ。

そういえば、マムシはお酒につければ、特効薬にもなる。

使い方によっては、わたしの中の「毒」も、なにかの特効薬になる、のかもしれない。

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