言葉の不完全さと建築(九段理江「東京都同情塔」を読んで)

【私から見たあらすじ】

ある行動や事象、状況を表す「言葉」を、他者・世論から求められた「適切さ」を「配慮」の元に使う。

言葉はある種キリトリであり、この文章だって、作品に対しての、おれという一視点からみたキリトリだ。
そういた本質的な不完全さを、配慮によって完全にしようとしたが故に、その言葉の努力を、カタカナや外来語を使って曖昧にしようとしている。エラーを起こさぬように。

しかし、そうした完全性を求めた結果結局何も見えない、補助線を引かないと意味すら分からない言葉、意味を発しない言葉・表現になっている。

言葉に対する内なる検閲者に自ら収監された主人公の建築家マキナ沙羅。
建築家は街を構成する。街というのは人の生活の集合体であるため、人が構成するように見えて、逆に建築や都市計画の中に人々は生活を余儀なくされている。新たな建築は、建てられることによって人々を新たな生活の箱に入れる。
これを主人公は妊娠や実物の女体から出産にたとえる。ここだけは、センシティブだとかで隠さないでほしい、という彼女の言葉。そしてその箱を作る建築家であることは、人々への支配欲の強さ、自分は未来を見通せるという自負(仮定法をつかった定義上であれば)。そこから表現は、「~べき」「~でなければならない」という一色のものになる。その支配欲の強さは、レイプされた過去の経緯にある、のように言ってしまえば一言で済んでしまうが、おそらくそのような一直線上にあるものではない。数学という一直線上にありそうなものにも、性差が匂っていた。そしてそこには男達の政治があった。


そして、物語の世界では「アンビルド(バベルの塔)の女王」ザハハディドの国立競技場が建築された東京で、刑務所の役割を持つ塔を主人公が建築する。その過程では、その刑務所の思想を関連するところは、太字で、AIによって書かれる。共感、同情により、人間の平和・平等性を希求する。それはちょうど、国立競技場を建築する目的であったオリンピックの開催趣旨と同じである。
しかし、塔の名前は、正式名称である「シンパシータワートーキョー」とかいう「ダサい」ものではなく、「東京都同情塔」が主に使われる。タクトが偶然発した言葉である(タクトの本名はトウジョウタクト)。ここのシーンはお遊びのようなライムである。それが最も重要なシーンである。

そしてその塔は、まずタクトを母体の中へ引きずり込んだ。


2030年に建築された同情塔の様子は、マックスクラインというジャーナリストによるインタビューで明らかにされる。それはレイシストとされているマックスのファッキンな文章であり、彼自身の体臭が香ってくる文章だった。マックスは曖昧な日本語・そしてそれを使い、笑みをたたえる日本人に対して、不信感を爆発させた。

その文章を同情塔の広報としてチェックしていたタクトは、そこに書かれていた自分が、マックスの文章によって今いる自分に加えて新たにイメージとして増殖していることを感じ、マキナの伝記を、世間の誰より一番最初に書くことを決意する。

一方で、マキナは同情塔を建築したとして誹謗中傷にさらされ、身を隠しながら生活していた。マキナは東北に旅行したとき、聞いた「同情塔になんか行ったらきちがいになっちまうよ」という理容店のおばあさんが印象に残っていた。

そうしたこともあり生身の人と話すことをタクトにすすめられたマキナさんは、マックスのインタビューを受ける。久しぶりに生身の人間と話し、そこに少しでも共有した、という感触を得たマキナは、タクトに電話をする。そいてタクトはマキナの伝記を書いていることを伝える。自分自身のことを表現するかのように。しかし、マキナはなにかの内部にも外部にも存在している実感は無い。それは、塔を見上げる銅像として建築の一つになるのである。

【感想】


言葉の不完全性を許容しないこと、それこそが支配欲の強さである一方で、どこまでその不完全性を「許容」するか、その不完全性に付随する具体的な表象や活動に対して、人類は言葉を扱う以上(AIに預けないよう)、不断の努力が必要だ。曖昧な言葉に逃げないように。
さらに不完全な言葉を、お互いに不完全な、相互の完全な理解をし得ない圧倒的に異なる他者とコミュニケーションの媒体として使う。
そこには自分が言った言葉を解釈する自由が相手に与えられており、それが故に言葉そのものへの不寛容は強要されるべきでないのだ。その前提に立つからこそ、共有できた、と思えることの快感がある。
しかし、これは非常にお互いに信頼を求めるものだ。人々はお互いの監視により信頼する余裕を日々そがれている。

批評の部分がAI以外のところでも多いな、と思った。思考のための言葉が、主人公のマキナさんはともかく(そういう登場人物なので)、タクトくんにすら多いなと思った。それを物語に託してみる試みが小説の面白さかな、と思った。一方で、登場人物を通じて語られる言葉・思想は非常に堅固に建築されており、大変わかりやすい。日の光が透き通った建築のようである。小説に現れる一つ一つの要素が、すべて密に化学結合していて円環のようなである。盲腸がない。著者の敬愛する三島由紀夫らしさが垣間見える。垣間見えるどころではない。そこには謎が残る感性ではなく、非常に厳密な建築としての美しい文学がある。おれにはこの感性ではない厳密さが好きだ。むしろ、それも感性なのかもしれない。


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