「夜犬。」1

「月。月が怖え」
香星は、そう、言った。

しんと静まり返った団地の濃い影をぬけて、私は立ち止まった。団地群の一角にあるちいさな公園。街灯のじりじりという音、しろいひかり、それらがほんのちょっとで届かないところに、やっぱり彼はいた。
ジャングルジムのてっぺん。金色の頭。
また、やっている。ぐんと首を思いきりそらして、空を見つめるすがたは、落ちてしまわないか心配になる。
あんたはカナリアじゃないんだから。落ちても飛べないのよ。
そう言い聞かせたって、たぶんあいつはやめない。
バカだから。
どうしようもない、ばか、なのだ。

「香星!」
ぴくり、と華奢な背中がはねる。骨ばったその背中は、Tシャツにくっきり肩甲骨が見えるくらいだ。高校生の男にしては、ずいぶんやせている。昔から、香星はそうだった。女の私の方がよっぽどがっしりしていて、筋肉もあった。
もちろん今では、香星に腕相撲で勝つことなんか到底できないのだけれど。はじめて負けたとき、無性に悔しかったっけ。
私の声が聞こえたはずなのに、香星はずっと空を見上げ続けている。無視だ。あいつの常套手段。というより、ジャングルジムのうえのあいつに声をかけて、1回で返事が帰ってきたことなど1度もないのだけど。
「こーせー。風邪ひくよ、ねえ」
返事はかえってこない。ぱらぱらと香星の髪を風がめくるのも気にせず、熱心に空を見続けている。Tシャツ1枚にジャージを履いた香星の格好は見るだけで寒々しく、私はぶるりとふるえて腕を組んだ。10月も下旬となると、ずいぶん冷え込む。それも、夜となればなおさらだ。
「ねー、こーせー!香代さんがごはんって言ってるよ」
ふいにす、と首がかたむく。落ちる落ちる、私が慌てる様子を見て、香星は鼻で笑った。
「うっせーなー。志保も登ってこいよ」
おら、とかしいだ姿勢のまま手を差しのべてくる。その手をぴしゃりとたたくふりをして、自力でジャングルジムに登った。鉄の棒は痛いくらい冷えていて、心臓が一瞬つきりとする。
お風呂上がりでなくてよかった。湯冷めしてしまうから。
てっぺんに手をかける。よいしょ、と声をかけて体を引き上げると、香星がぴっ、と何かを握るしぐさをした。
「じゅってんれーにー。やば。おっそ」
どうやらストップウォッチのマネらしい。
「そんなんだと地球滅亡するとき逃げられねーな」
「なによそれ」
余計なお世話だ。
ていうか、地球滅亡ってなんだ。
「地球が無くなるんならどこにいても同じでしょ。どんなにマッチョでも宇宙に放りだされたらおしまいよ」
そう言ってやると、香星はそれだよなあ、とつぶやいた。びゅう、と風が頬をたたいて目をすがめる。ジャングルジムが崩れてしまいそうで少しこわい。
香星はそれきり黙ってしまって、無言で空を見上げている。
それを見て私は、ばかだなあ、と思う。

中学生のとき、香星と大げんかをした。まだそんなに上背にも力にも差はなくて、同級生の目がないのをいいことにつかみあってけんかした。
思えば、そんな力勝負みたいなけんかをしたのはその時が最後だ。そのときに私がむしってやった学ランのボタンのせいで、香星が大女に襲われたとあらぬ噂がたち、影でひやひやしたのは苦い思い出である。
ただでさえ幼なじみということでからかわれることが多いのだ、むしったのが私だとばれたらどんな勘違いをされるか、想像するだにおそろしい。
けんかの発端は、サッカー部に入っていた香星がスランプに陥ったことだった。スポーツと縁のない私には理解しがたかったのだけど、あとから聞いたところによるとユニフォームを着ると動悸がするほどどん底に落ちこんでしまっていたらしい。
美術部に入っていた私は、たまたま外の流しで頭から水を引っかぶっている香星をみつけ、奴の状況を知った。正直心底おどろいた。
小さな頃から怖いもの知らずだった彼が、歯を食いしばっている様子はなにかのギャグみたいだった。
「あんたにも、怖いものってあったんだ」
水をかぶっているから聞こえないとたかをくくっていたのだけど、彼はぐん、と顔を上げた。意外そうな顔でこちらを見つめる。顔から垂れた雫が、どんどんTシャツに染みこんでいった。
「べつにこわくない」
「うそ。顔に怖いって書いてある。どうしたの?部活でミスでもしたわけ」
「うっせーブス!」
いきなり香星は声を荒らげると、目を怒らせいらいらと髪を拭きグラウンドへ走って行ってしまった。
香星の暴言のわけがさっぱりわからず、私もいらいらとしながらその場を後にしたのだった。
だから、放課後団地の裏で香星とばったりあって、バトルが始まらないわけがなかった。
結果的に香星がふてくされて家へ帰ってしまい、けんかは私が後味の悪い思いをして終わった。数日間口も聞かず目も合わせず過ごしたのだけど、冷戦状態は唐突に終わりをむかえた。
香星がスランプをぬけたのだ。
いわく、「サッカーはもう怖くねえ。なんか見続けてたらなおった」。まさかボールを見続けていたのか、こいつならやりかねないと思ったのだけど、そうではなく、数日家にこもってサッカーの試合をえんえんと見ていたらしい。文字通り、寝食もほっぽって。
それもそれですごい。
ジャングルジムのうえ。今みたいに風に吹かれて、あっけらかんとそう言った奴の顔を今でも思い出せる。もやもやしていた私の気持ちは!と怒鳴りそうになったのをすんででこらえた私はえらい。
「じゃあもう無敵なんだ?」
「いや。俺は」
うろ、と視線を泳がせる。
「え、香星怖いものあるの」
「俺は。月。月が怖え」
はあ、つきですか。つき。つきって、
「え、あの月?」
指を頭上に向ける。しんしんと光るまるいお月さま。
「ほかになんの月があんの」
いやまあそうだけど。
「なんで。どこが怖いわけ」
「地球からすごい離れてんのにでこぼこが見えるだろ。浮いてるし。こわくね?」
浮いてるし。って。
地球も浮いてるから。
「だから、今度は月見てることにした。見てりゃコクフクできるだろ」
ごめん。意味わからないよ。
私はぼうっと月を見上げながら、そうだね、とだけ言った。

高校生になって2年が過ぎたけれど、今でも香星はこうしてたまにジャングルジムにのぼって熱心に月を見る。
じゃあ今も月が怖いのかな。浮いているのが怖いのかな。そう思うとなんだか笑えてくる。
「ねえ、香星。さすがに寒いんだけど」
ふ、と香星がこちらを振り向く。ぱちり、と瞬きをして、悪い、と言った。あんなに見続けていて、よく首が痛くならないもんだ。純粋にその熱意はすごい。
「かえろ。今日私香星ん家でごはん食べるから」
香代さん遅いって怒ってるんじゃない?
私が言うと、
「ミイラ取りがミイラになってるからな。怒られんのは志保だろ。俺は悪くない」
「あっそ」
私はそろそろとジャングルジムを降りる。登る時は平気だったのに、降りるのはなぜか昔から苦手だ。ぶらぶらと宙に浮いた足がすうすうする。足首のところから冷たい空気が割り込んでくる。寒い。はやく熱いお湯につかりたい。そっか、もう、冬が来るんだなあ。
そう考えながら、そっと地面に足をつけた。
まだ降りてこない香星のほうを仰ぎみる。暗くて顔がよく見えない。
「今でもさ、月、怖いの」
「まあ。でもあれだな、ホンノウテキな恐怖なのかな」
「よくわかんないけどさ、だったら太陽のほうがもっと怖くない?」
え?という声が頭の上から降ってくる。
「月よりずーっとずーっと離れてるのに、世界を照らせるんだよ。でっかい火の塊が暗やみに浮いててさ、その光が地球であんな大きく見えてて、怖くない?」
数秒の沈黙のあと、ぽつりと香星がこぼした。
「なるほど。怖えな」
「でしょ!?あ、でもこーせー太陽見たりしないでよ。失明するよ」
するか馬鹿、香星が鼻で笑う。
「まあでも、」
音もなく、香星がジャングルジムの上から飛んだ。驚いている私の視線の先で、難なく地面に着地する。
「太陽すきだから」
に、と笑う。金髪がきらきら光る。ああもう、ずるいな。この顔をされると、私はなにも言い返せなくなる。ほんと、太陽みたい。
「あ、そ」
それだけ言って、くるりと向きを変え歩き出す。公園から通路に出ると団地の壁にぱたぱたと足音が反響して、気持ちがいい。
階段をのぼりながら今日の夕飯なんだった?という香星の質問を聞き流しつつ、次の作品は太陽をモチーフにしようか、なんてすこし思った。
たぶん今なら、綺麗な金色の太陽を描ける気がする、から。


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