きらいだ
自分は誰かと問われたら、大概の人は迷わず自分の名前を答えるだろう。個人をあらわすのにいちばん手っ取り早いのは、名前、だろうから。
けれど私は、そう答えることができずにいた。
「おまえは誰だ」
そう尋ねた男の目は、面から唯一のぞく黒々とした目は、真剣そのもので。ただ名前を告げればいいと分かってはいるのに、唇がふるえて動かない。
それとも、そうだ。そんな当たり前の答えを求めているのではないと、頭のどこかで直感的に思ったからかもしれない。
ひどくぬるまったい風が、私と男の間を泳いでいった。私の手のひらから、溶けたチョコレートの包みがひとつ、コンクリートに零れ落ちた。
ガラクタ公園に、客の本来の姿を描いてくれるピエロがいる。
そんなうわさを、クラスメイトが思い出したように口にしたのを聞いた。
ガラクタ公園。もともと公園だった敷地を、ガラクタ置き場にしたからそう呼ばれている。もちろん、遊具はらんぼうに撤去されてしまったけれど、ぶさいくなパンダのオブジェだけは残されている。
見た目はごちゃごちゃと、スクラップになった車や電気家具、自転車やタイヤなんかが積み上げられているのに、どこかがらんどうで空虚な印象をうける。
だからか、ガラクタのまんなかにぽつんとたたずむパンダは、この世界から取り残されたみたいで、見ているのが苦しくて目を背けてしまう。そばを通るたびにいつも、いつも。
だって、私、みたいだから。
うわさは、すぐに消滅してしまった。新しいものを常に求める高校生たちにとって、3日という時間は十分だったらしい。
忘れてしまえばよかった。私も、みんなみたいに忘れられればよかった。でも、無理だった。
胸に深く食いこんで抜けない〔針〕は、日に日に太くなっていくようだった。本来の姿。その言葉が、脳裏から消えてくれそうになかった。
理由はカンタン。口にするのがはずかしいくらい陳腐。
私は、自分を見失っていたのだ。
誰でもいいからだれかに、みつけてほしかった。
そうして、その夜はやってくる。
午後、9時半。あたりはもう真っ暗で、冷めきらなかった昼の暑い空気が行き場を探してうろついている。じめじめとしたまとわりつくような風は、ひざの裏や首すじを無遠慮になでる。
ハーフパンツに通気性のいいパーカー。なんとなくフードをかぶる。
公園の入口に立つと、パンダと目があった。すっかりすすけてしまっていて、全体的にくろい。来てしまった、という思いが胸を押しつぶしそうで、緊張で呼吸があさくなる。
どうかしていた、もう帰ろう。こんな夜中に絵をかけるもんか。帰ってもういちどシャワーをあびて、布団にもぐりこんでぜんぶぜんぶ忘れるの。
半歩ぶん、足が後ろにさがる。
そのとき、暗闇で白いなにかがゆらめいた。ぱっ、と淡い明かりが灯る。ガラクタのまんなかのパンダ、その真横に立つ、白い面をつけた男ーー。
気づいたら私は男の前にいて、男の横には古びたイーゼル、その上のキャンバス、そしてあの問い。
「おまえは誰だ」
もっと驚いていいはずだ。
なのに、また、この感覚。
頭のなかに居座る、どこか客観的でひどく冷めている、もうひとりの自分。ああ、いやな人間だ。
つめたい。本来の自分も、さめてしまっただろうか?
頭ではそんなことを考えつつ、右手で助けを求めるようにパーカーのポケットをまさぐる。かさりと指先にあたる感触。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
取り出してそっと握ると、ずるりとつぶれる気配がした。そっか、チョコレートだ。
そう思いながら、視線は男の瞳からそらせない。とろりと指先を濡らす感覚とともに、包みがひとつ、足もとに跳ねた。
ごくり、空気をのみこむ。
「それを、描いてほしいから、来たの。誰だか、教えてほしいから、わたしが、」
支離滅裂だと思う。どうして、こうなったんだろう、とも。
一瞬の静寂。
くすり。くすくす。
笑っている。面越しにも分かるくらい、男は笑っていた。頑丈そうな肩が、小刻みにゆれる。
「なにがなんだか。いったい何をどこで聞いたのか知らないけど。俺はただの美大に通う学生だよ」
どういう、こと。
かあ、と顔があつくなる。
「でも、なんだろう、君の言うことはなんとなく分かったよ。分かる気がする。つまり、俺は、君を描けばいい。そうだろ?」
予想外の展開に、私はついていけない。声を出すことすら、できない。
「初めて会う人間の、心を描くっていうのは無茶だけど。絵描きには絵描きの目があって。それを俺は信じてるかもしれない」
信じてる、かもしれない、のね。
男は、しゃべりながら、かたわらのカバンから絵の具や筆を取り出していく。やけに思い切りがいい。
うろたえているのは、私だけだ。
「だから、やってみたい、とも思うわけ。正直、こんな時間のこんな場所に君みたいな子がいるのには言いたいことがあるし、俺のこの面も弁解したい。けど、俺は君の思う絵描きに今だけなろうと思う」
絵を描いていく上で、割と忘れられない経験をするだろうって、今ちょっと感じてるんでね。
男は自分にあきれたような口調で、そう言った。
手のひらのチョコレートはどろどろだ。私の頭の中も、ぐちゃぐちゃで、もやがかかっていて、今にもとろけて流れ出してしまいそう。
この人は、どんな風にわたしをえがくのだろう。キャンバスに、どんな色で、どんな形に塗りつけていくのだろう。
だけど今なら、どんな私でも受け入れられると思うのだ。受け入れなくちゃいけないと思うのだ。
男がパンダのオブジェに腰掛ける。筆の柄が、月の光を受けてにぶく光る。
セミがどこかでみじかく鳴いた。
暗闇のなか、2人がかり手さぐりで、わたしたちは〔自分〕を探す。
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