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記憶のための適正露出

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 見たままを写しとることから写真、とはよく言ったな、と思う。しかしphotographの意味合いとはだいぶ違っていて、見たままを写すことが何も正しいというわけではない。みな淡く儚い感じにしていたり、ノスタルジックにしていたりする。それは色や明暗が、見る人の気持ちを揺さぶるようにできているということで、単にきれいな花ですよ、と見たままを報告しているのではない。

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 レストランの小さな会場を借りてはじめて個展をやったとき、お店の常連さんでプロのカメラマンさんが、花や祭は、自分の教室の生徒には撮らないように言っている、と話してくれた。

 きれいなものをそのままきれいに撮っても仕方がない、それなら自分が撮る意味はない。たとえば桜にしても、ある場所のある構図で、という定番があったりする。それを撮ったとして、うまくいったと思っても、同じ構図の写真がSNSで大量に流れてくる。そうするとそれは自分が撮った写真ではなくて、撮らされた写真なんじゃないか、と思うことになる。それはそれで、撮っているときは楽しいからいいのだけれど。

 ただ、ときどき、同じ構図、書割のようなパターンなのに、なぜかこの一枚は素晴らしいと思わせる写真に出会うこともある。本物を超えて、でも奇を衒わず、あ、これはもう、完璧に光を描いているな、と思う一枚。

 そんな被写体に真っ正面から向かって負けないほどの技術とかそのほかがない自分は、小手先のテクニックに走る。

 それこそ露出を変えたり、ホワイトバランスを変えたり、ブラしてみたり、とびっきりボカして撮ってみたり。コントラストを変える、シャープネスを、変える。今デジカメ本体で変えられる項目は多くて、それぞれの意図を手軽に反映しやすくなった。

 けれども、それはやっぱりどこかで誰かが撮った一枚に似てしまっている。そこから抜け出すことはなかなか難しいようで、だから、あのカメラマンは花や祭を撮らないように言っていたのかと合点がゆく。

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 適正露出という言葉がある。それは色々な解釈があったりするけれど、おそらく最もすんなり理解しやすいのは、今目の前の光景と同じ明るさで写すということなのではないかと思う。一方で、僕の写真は、それよりも暗く写すことがとても多い。自分の気分が、明るいのをよしとしないのだ。

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 先にあげたカメラマンに、僕は一枚の自分の写真を指さした。
 じゃあ、こういうのは良くないんですね。
 その写真は野辺に咲いた小さな花の写真だった。モノクロで、その花の白い花弁以外はほとんど真っ黒に沈んだ、ローキーの写真だった。
 いや、これは意図があるんでしょ? ならいいんじゃない?
 そうカメラマンはおっしゃった。

 適正露出はそれぞれ違うのだ。そして多分、被写体を見て、その被写体に合った露出を考えて撮ったり、自分の気分をあらわそうとして被写体を探し、気分にあった露出にしてみたりする。そのどちらかを、あるいは同時に、写真を撮り歩く人は無意識にやっているのだ、と改めて思う。

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 人の心は、複雑だけれど、でもそう複雑でもない。明るいものを見れば気分があがるし、青っぽい写真を見れば冷たさを覚える。心地の良い構図を見ると安心するし、座りの悪い構図を見れば、不安定な気持ちになる。

 と、すれば、本当に誰もが感動し、かつ誰もが見たことのない風景なんていうのは、そうそう撮れるはずがない。どれもどこかで、見たことがある一枚、誰かが撮ったことのある風景だ。


 でもその既視感があるからこそ、人は自分のどこかに仕舞われている記憶を呼び起こされ、イイネを押すのだと言えるのではないか。写真で表現するというのは、見る人の、撮る人の、記憶の扉をノックすること、なのかもしれない。

 今年の桜はX-pro2と最近手に入れたleicaMtyp240で撮った。もう何年も同じ場所を取り続けている。

 カメラやレンズは、その度ごとに違うけれども、同じ場所だから、花の写真だけではいつも同じような写真になってしまう。けれども、それでもここで写真を撮ろうとするのは、春が来た喜びや、ちょっとした憂鬱を、切り取りたいと思うからなのだろう。要するに、自分の写真はどこまでも自分のためだけの、極めて自己満足の写真なのだ。


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だから、それを人の目に晒したいと思うのは、身勝手極まりない行為なのかも、と思う。

それでも、それらを見てくださって、いいなと思っていただく方がいたのなら、それはとてもありがたく幸福なことだ、そう思うのだ。

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