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自然に触れる価値を教えてくれる最良の本

地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。

レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』新潮社

世はインターネット全盛時代。電車ではほとんどの人がスマホを見ているし、IT系のサービス業・市場はここ数年、十数年で飛躍的に増えた。多くの人が起床時間の多くをインターネットに接続されたモニタの前で過ごしているのではなかろうか。

一方で自然に触れる機会というのはますます少なくなっているように感じる。その自然に触れることの価値を教えてくれる最良の書だと思うのが、冒頭に引用した『センス・オブ・ワンダー』だ。

センス・オブ・ワンダーとは「神秘さや不思議さに目を見はる感性」。道端の小さな雑草の花、初夏に日本にやってきて盛んにさえずる鳥たち、森にひっそりと生えるきのこ、夜空に輝く星や月、こういったものに対して、美しさや不思議な気持ち、神秘的な思いを抱いたりする感性のことをいう。

この感性をもつことのすばらしさを詩的ともいえる表現で伝えているのがカーソンの『センス・オブ・ワンダー』である。

ある秋の嵐の夜、わたしは1歳8ヶ月になったばかりの甥のロジャーを毛布にくるんで、雨の降る暗闇のなかを海岸へおりていきました。

海辺には大きな波の音がとどろきわたり、白い波頭がさけび声をあげてはくずれ、波しぶきを投げつけてきます。わたしたちは、まっ暗な嵐の夜に、広大な海と陸との境界に立ちすくんでいたのです。

そのとき、不思議なことにわたしたちは、心の底から湧きあがるよろこびに満たされて、いっしょに笑い声をあげていました。

レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』新潮社

自然の神秘や美しさに触れたときに感じるよろこびやときめきは、ほかでは得がたい体験である。この感性を育むと、冒頭の文にあるように人生に飽きて疲れたり、退屈したりすることもなくなるだろう。

Image by Bessi from Pixabay

本を読むとわかるが、センスオブワンダーは「発見のよろこび」でもある。カーソンは甥のロジャーと一緒に海や森に探検に出かけ、甥とともに発見のよろこびに胸をときめかせる。

雨の日は、森を歩きまわるのにはうってつけだと、かねてからわたしは思っていました。メインの森は、雨が降るととりわけ生き生きとして鮮やかに美しくなります。針葉樹の葉は銀色のさやをまとい、シダ類はまるで熱帯ジャングルのように青々と茂り、そのとがった一枚一枚の葉先からは水晶のようなしずくをしたたらせます。

カラシ色やアンズ色、深紅色などの不思議ないろどりをしたキノコのなかまが腐葉土の下から顔をだし、地衣類や苔類は、水を含んで生きかえり、鮮やかな緑色や銀色をとりもどします。
(中略)
地衣類は、わたしの昔からのお気に入りです。石の上に銀色の輪をえがいたり、骨やつのや貝がらのような奇妙な小さな模様をつくったり、まるで妖精の国の舞台のように見えます。ロジャーは雨が魔法をかけてつくりかえた地衣類の姿に気がついてよろこんでいます。それを見て、わたしはとてもうれしくなりました。

レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』新潮社

植物にしろ鳥にしろ虫にしろ、自然が好きの人なら、「発見のよろこび」は自然を見る醍醐味であることに納得するのではなかろうか。それは単に「〇〇という生き物を見た」ということのみならず、生き物や自然の思いがけない美しさや不思議に気づいたり、いままで知らなかった生態=生き様を見つけたりするよろこびもある。

そういう人にとって、山歩きの楽しみは、思いがけず出会う動物や植物、自然の風景や現象であったりする。地域がちがえば、出会う生き物や自然も変わってくるし、季節を変えれば、またちがう表情が見られる。自然が好きな人は、日々そういう「発見」に胸をときめかせている。

昆虫採集やきのこ狩りは、わかりやすい発見のよろこびだ。やったことがある人にはわかると思うが、きのこ狩りは宝探しのような趣すらある。昨今、人気のアプリやゲームでも人間のこの「発見をよろこぶ性質」を活用したものがあるように思える。ただ、自然の中での発見は強い身体感覚をともなう分、ゲームよりも強烈な体験をもたらすように個人的には思う。

Photo by Kostiantyn Li on Unsplash

センスオブワンダーを育むと、この「発見のよろこび」はいっそう感じやすくなる。さらに感性と知性の結びつきによっても、いっそうこの感覚は鋭くなるように思われる。昔の文学作品を読むと、日常の描写にごくふつうに花鳥風月が描かれている。花鳥風月を感じとること(感性)、それを言葉にすること(知性)を併せ持った人が作家なのだろう。

感性は知性との強固な結合によって、世界を深く認識する機能を発揮する

河合雅雄『子どもと自然』岩波新書

感性の高まりは世界の不思議への興味や疑問につながり、それが知性の発展へと結びつく。知性の高まりは、世界への洞察をさらに鋭くし、それが感性をさらに豊かにしていく。

こういった感性はどうやって育むことができるのだろうか? じつはこの感性は、往々にして子どものほうが強くもっている。子どもは好奇心の塊とよく言われるが、小さな虫や生き物を目の前に興味津々な子どもはよく見かけるだろう。「これ何?」「なぜ?」は小さな子どもがよく発するセリフだ。子どもにとって自然は世界そのものであり、この世界で生きていくためには、世界=自然を知る必要があるのかもしれない。

では、どうやったらこの感性を取り戻せるのだろうか? 先に紹介した霊長類学者の河合雅雄さんの本にヒントがあるように思える。

私がことあるごとに自然に親しもうと呼びかけてきたのは、密室から出て物との対話から離れ、いのちあるものとの対話の日常を楽しむようにしないと、感性は潤いを失って無機的になり、やがて萎縮してしまうのを恐れるからである。

われわれが住んでいる地球という星が、36億年もの悠久の時間をかけて創り出したさまざまないのち、道端の雑草も木々も小鳥もそれぞれが、想像もできない遠い昔の歴史を担って、今目の前にあるのである。そして、その中に自分の存在を位置づけて考えるとき、いのちの不思議と畏敬の念が呼び起こされるであろう。

河合雅雄『子どもと自然』岩波新書

いのちあるものとの対話。私自身も、自然と付き合えば付き合うほど、自然の妙や美しさに気づき、惹かれていった。

きのこ好きの間では、きのこを見つける目のことを「きのこ目」と呼んだりする。初心者が森に行っても、なかなかきのこを見つけられない。ところが「きのこ目」が鍛えられていくと、だんだんどこにきのこが生えているかが「見える」ようになっていく。これは植物でも虫でも鳥でも同じだと思う。こうして徐々に自然を見る目が養われていく。

カーソンは「「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない」として、生き物の名前を知っているかどうかはさほど重要ではないと書いている。私も、そう思う。ただ多少知識があったほうが楽しみやすいというのもまた事実である。サッカーを見るのに、ルールを知っていたほうが楽しめるし、絵画に関する知識があったほうが美術館を楽しめるのと同じである。

このような自然の世界への案内書としてあるのが図鑑である。次回は、図鑑の選び方について書いてみようと思う。

▼今回はこちらの本を元に書きました。いずれも自然に触れる価値を教えてくれるよい本です(とくに子育て中の方におすすめ)。気になった方はぜひ手に取ってみてください。

Top Photo by Kunal Shinde on Unsplash

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