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不透明なワールド・エンド

私も私なりに、弁えているつもりだ。

私は人に愛されないのではなく、私が境界線を張っていること。
一定の距離に、すべての人間を入れていないこと。
手に入りそうになると、手放すこと。
過度な心配や、過度な連絡を疎ましいと思うこと。

それらは私が「愛されない」ための処世術なのだと、弁えているつもりだ。

さて、人生という物語に焦点を当てたとき、基本的にあらゆる人間にとっての「主人公」は「自分自身」に他ならない。その人生の物語はその人にしか描けないし、その人にしか理解ができない。それの集合体が人間関係である。私たちは自分以外の何者にもなれないし、そして自分以外の誰かに自分以上を求めることもできない。

私たちは誰かの人生において、その人を差し置いて主人公にはなれない。

そして、私たちは自分の人生の主人公を、自分を差し置いて誰かに与えることもできない。

生まれ持ったものはすべて自分のものだ。
名前も顔も体格も性別も。だからこそただの記号だ、改変可能だと言われる。生まれ持ったものを愛する必要はないと私は思う。だけど主人公は変えられない。本質は変えられない。改名しても、整形しても、形成しても、戸籍を変えても。私たちは私たちとして生涯を終える。

果たして、どれだけの人間が、その事実を恐れているんだろう。

私の心根は深く深く、嫌なところまで根付いていると自覚がある。
心といえば胸のあたりを想像するし、私が苦しくなるときも大抵、本当に確実に胸のあたりがぎゅうっと締まったような感覚に陥る。心なんてこんなところにないのに、胸が締め付けられるのは不思議な現象だと思う。実際そうなるけれど、知っている。私の心根は、私の体を突っ切って、地中深くまで根付いている。真っ暗で何も見えない、なにかの底。

私は自分の底を知らない。
自分の底にわたしを埋めて、殺している。

行動範囲が狭まるとき。胸が締め付けられて息苦しくなるとき。頓服薬が妙に遠いとき。物理的に動けなくなるとき。私はその心根が脳裏に浮かぶ。わたしが足を引いている。現実を生きる偽の私を、縛り付ける。うん、ちょっと分かりづらいな。けれど本当にそんな感覚がする。「おまえはわたしのままなんだよ」と、自分の底に埋めて殺しているはずのわたしが笑う。

名言しておくが、私はDIDのような症状はない。
つまるところ「解離性同一性障害」と呼ばれるものだ。昔で言う多重人格障害。それではない。私はわたしを知っているし、わたしも私を知っている。コントロールしているし、私が生きていくために名前をつけているだけの同一人物だ。私が死なないために代わりに底で死んでもらっているだけの、同一人物だ。

私は知っている。
私は私、わたしも私、私は私以外にはなれないこと。
私の人生の主人公は、あいにく、私であること。

人生の途中で、私はその恐ろしさに気づいてしまった。
人間は変化ができると思っているし、私も相当変化のあった人間だった。生きていけるかも知れないと思っていた。あの頃の、幼かった自分ときちんと向き合って生きていけるかも知れないと思っていた。過去形なのだ。向き合う気にもなれなかったから、沈めて、殺している。


私の仕事は少し特殊なので、ほとんどの人に職業名を伝えたことがない。
現住所で勤務先がわかってしまうくらいのものだ。そして守秘義務もある。だけど対人援助職である。私はわたしを理解することを諦めて、他人を人生の拠点にした。誰かに人生に寄り添って、誰かの人生の岐路で、誰かと一緒に悩んだり泣いたり怒ったり笑ったりすることにした。私はたぶん、そうやって、自分が得られなかったアイデンティティを得ようとしているのだと思う。一緒に体験して、体感しているのだと思う。

いつしか、勤務先の長から言われたことがある。

「この業界で働いてもう随分経ちますが、私、永和さんみたいに、あの人達が求めている言葉を、求められているスピードで、その場で適切に与えられる人に、初めて出会いました。」

「そしてそれが、間違っていたことがほとんどない。」

「その瞬間は響かなくても、じわじわと響いたり、気づきを与えたりする。何十年もこの業界にいて、初めて出会いました。若干4年目の、経験値だってそんなにない若手の永和さんに、不思議な魅力を感じています。」

底からわたしが笑っていた。
そんなの、おまえが自分を持ってないからだよね、と。

長からの言葉はとても嬉しかった。私は素直に受け取って、心から感謝を伝えた。そして自分でも実感していた。この人に言われる前から、自分の担当するケース以外の人からも助言を求められることが多かったこと。担当するケースがうまくいかなくても、反論してきて大喧嘩になっても、その場で必要な言葉を与えていること。自覚と自信があった。実際に成果として出ていたから。

対人援助職の成果は分かりづらいけれど、それでも分かることも多い。
長からの言葉はむず痒く、とても嬉しかったのに、それでも底で死んでいたはずのわたしが言う通りだったから反論の余地はどこにもなかった。私には私がない。他者の人生を投影して、懸命に自分以外の主人公を探すように。他者の人生を勝手に体験して、まるで自分の経験のように自分に落とし込む。

良く言えば、人の気持ちがよく分かる人。
悪く言えば、わかりすぎるし、勝手に吸収する人。

私には私の経験とか体験とか、そういったものが不足している分、対象者たちが感じることやほしい言葉が無闇矢鱈に自分の中に勝手に入ってくるのだと思っている。つまり、空間が広いのだ。取り込める空間が広いから、勝手に拾ってそれを口から言葉として吐き出すだけ。「私がこの人だったら、こう言われたら救われるのに」と想うから、それを言葉に起こすだけ。

いいんだか、悪いんだか。

愛されなさすぎると自己肯定感がこれ以上下がってしまうから、適度な距離感を人と取らなければと意識をしているのだと思う。私の人生は外から見れば順風満帆だろう。どっかであった過酷ないじめを除外すれば。普通の4年生大学に入って、新卒で国家公務員。順風満帆な、対外的な、私の人生。蓋を開ければ何も入っていない、順風満帆な、私の人生。

私はわたしを飼っていて、殺したり眠ってもらったりして、あらゆる苦痛をわたしに代わってもらっている。

私とわたしの共通点はもちろんたくさんあるけれど、その中でも強いのが、死にたくなるタイミングと、中途半端に差し伸べられる手への嫌悪感だった。


対人援助職を生業としていても分かる。
私たちは対人援助のプロだけれど、私たちに他人を変えることはできない。変わるように促すことや、一緒に悩んで泣いて怒って笑ってと、感情を共有することもできる。それでも、変わることを選択するのも、変わらないことを選択するのも、私と一緒に情動を動かすことを選択するのも、動かさないことを選択するのも、すべて相手に委ねられている。

プロだからこそわかっているのかも知れないけれど、私たちは誰かを救うことはできないのだ。

相手が拒絶をしたらおしまい。
そしてその拒絶は、見えないふりをうまくされて流れていくだけで、一生取り除かれることはない。私たちはそれを知っていなければならない。人を救うだ?笑わせないでくれ。だったら、その人の主人公が変わらなければならない。私たちが誰かにできることは、援助に留まるのだ。


私は助けてほしいと思っている。
この絶望の淵に立っているのは、神経を使ってとても疲れる行為だ。
一瞬の突風に負けようものなら、淵から見えもしないどん底へ真っ逆さま。そしてそれは空想で済むことがなく、きっと現実世界でも私が死んでしまうんだとわかっている。気を張って、根を張って、絶望のギリギリ端っこでヘラヘラ笑っている。

だから、助けてほしい。

助けてほしいけれど、中途半端に伸ばされた手にすがる気にはならないし、私がこの淵から歩きはじめないといけないことはわかっている。それが援助だ。私が歩きだしたくなるように支援をする。言葉を与える。行動を取る。多分私はそれを求めているけれど、過干渉も鬱陶しいと感じてしまうから呆れ返るのだ。

放っておいてほしいのが9割。
だって私の底にはわたしがいる。

助けてほしいのが1割。
だって空っぽでも私は今、現実世界で呼吸「は」できている。


私の好きなタイプ。異性同性関わらず。共通しているのは「私がいてもいなくても、そんなに変わらない人。」私の代わりをいくらでも用意できて、その中の一人が私である人。これが残念ながら本音なのだ。そういう人は過干渉にはならないのに、本当にだめなときにだけ「生きてる?」と確認をくれたり、「根拠はないけど大丈夫だよ」と言ってくれたりする。私はそういう人が好きなのだ。私の形が変わっても、存在が変わっても、特段忘れることはないけれど、思い出して泣くこともないような人が好きだ。

「大好きだよ。でもね、死んじゃっても、大好きだよ。」

と、言ってくれた友人がいる。
あ、フォロワーです。友人いなかったわ。私がこの言葉にどれだけ救われたか、私の弱い武器では伝えられなくてとても残念に思う。最後の逃げ道もまるめて全部私だと言ってくれているようで安心した。少し違うけれどこれが私の限界。

「私が、俺が、永和をなんとかしてあげる。」

というようなニュアンスが伝わってくると、私はその人をシャットダウンする。
そんな事はできないと私は知っている。できないことを約束する、遂行したがる人の大半は自己満足だ。空っぽで空間のたくさんある私には残念ながら手にとるように分かるのだ。ああ、そういうことか、と諦める。取り繕って今まで通り接するけれど、見えない壁は分厚くしっかりと作っている。水族館の水槽のような、分厚くてしっかりとした壁。それでも透き通る、私のお手製の壁。

傷つくのではなく、呆れるのだ。
よくもまあ、対人援助をしたこともないのに、そんなことが言えるなあと。なんなら少し軽蔑しているのかも知れない。といっても、対人援助をしている人間の中にも一定数こういう人間はいる。「私たちがあの人を変える」と平気で言ったりする。妙に自信家で、対象者とうまくいっていると口をそろえる。

それはその人の人生だし、その人の生きがいだろうから、私は特に何も思いはしない。くだらないなとは思う。思ってたわ。そしてその当該対象者と私がふと2人になったときに、対象者本人から「担当とうまくいかんくてさ」と言われたりする。
やっぱりか、と思う。別に誰にも報告はしない。よっぽどの大問題の場合以外は。「へえ、大変やね」と聞き流す。助言を求められたら助言はする。指摘もする。「演技してんでしょ」というと「なんでわかんの?」と聞かれる。「私もそうだから」とは言えないので「カマかけただけ」と笑って流す。


救ってほしいけれど、放ってほしい。
手は貸してほしいけれど、求めていないところまで勝手に踏み込まれると嫌な気持ちになる。自分の趣味嗜好を、偏見だけで笑い飛ばされたら嫌でしょう。それときっと同じだ。私から開示していない情報まで聞き出そうとされるのは、厄介で、鬱陶しい。

それをする人かしない人かを見極めるのに、気がつくのは一瞬。
だけどその一瞬がいつ訪れるかはわからない。
私は第一印象がバグっていることが多いから、違和感までに時間がかかることも多い。余談だが、第一印象がバグっていることが多いのは、私の警戒度がたまらなく高いからだと思う。しらんけど。

私の中にあるこの矛盾した感情を整理した末に求めた理想像が、私に特別な意味を持たない人だったんだと思う。

境界線を張っていることを理解できる人。
そしてそれを無理に蹴破ったりしない人。

私の境界線を少しでも侵す人が、私はたまらなく苦手だ。
私の境界線の近くには、凄まじい数の爆弾が埋まっている。つまり、私の境界線を蹴破った人というのは、周囲の爆弾をいくつも連鎖させて爆発させている。そしてその爆発の攻撃を、火薬を受けるのは私だけで、当の本人はなんの被害も受けていない。だから、たまらなく、苦手だ。

どうして、この数多ある言葉の中から、私を傷つけるそれを選ぶんだろう。
どうして、この数多ある時間の中から、私がしんどい時間を選ぶんだろう。

ああ、合わないだけか。
きっとこの人に救われる人もいるんだな。
だけどあなたに私は救えないから、境界線がふまれないように、防御壁を高く分厚いものに変えますね。そうやって心のなかで思う。クソくだらない。最低なのは相手ではなく、私とわたしである。こうやって私は自分を守って、周囲をひっそりと傷つけている。

「あなたたちに私は救えないので、どうぞお引取りください。」

そんなふうに、心のなかでだけとはいえ、距離を取ってしまう。
どう考えたって私が悪いし、私は私のこういうところが本当に好きではなかった。それならば助けなんてこれから先、死ぬまで求めないでほしい。頼むから。これ以上誰かを傷つけることはしたくない。綺麗事だけど、本当にしたくない。

私の人生の主人公は私でしかない。

私がこの先の人生を続けるのも、例の淵から間違えて足を滑らせてしまうのも、選べるのは私だけだ。助けてと言うのも言わないのも、助けようとしてくれる手を取るのも払うのも、選べるのは私だけだ。

さあ、今を、どう生きる?

私は、どれを選択して、空っぽの私を埋めていく?人生の主人公は変えられない。投影して体験しても埋まらなかった。5年で1ミリも埋まらなかったなら、この方法ではきっと埋まらない。さあ、どうする。

本当はさ、私を愛してくれる人がほしいと、本当に心の底から思えるようになったら嬉しいよね。
私もわたしもひっくるめて、さらけだして、それでも愛してくれる人に出会いたいなと思えるようになったら、嬉しいよね。

誰かの特別に選ばれることを、嬉しいと思えるようになったらいいよね。

さてと、その未来予想は、果たして「想像」でしょうか。それとも「妄想」でしょうか。事の顛末が見られるのは、いつになるんでしょうか。

妄想のまま終わってしまう予想しかできない、残念な2022年、3月の私の日記。


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