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SNS疲れとSNS離れ、そして「友達」の定義とその境界線



友達の境界線


「友達」というものについて、このところ考えている。

「友達」の定義って、なんだろう?


学生時代は、「友達」の定義は、よりはっきりとした輪郭をもって存在していたように思う。

学校生活の中で、常に一緒にいたり、昼ごはんを一緒に食べたり、学校外でも会ったり。それこそ四六時中一緒にいて、自分の心の中のすべてを曝け出し、ときにはぶつかり合いながらも深い友情を築いていっていた存在が「友達」の中心にいた。そんな人たちのことを、「親友」と呼んでいた。

そして、クラスの中で話をしたり、たまに学校外でも遊びに行く「友達」。楽しい話をしたり、恋バナとか、学校の勉強のこととか、ちょっとしたゴシップとかを話し合うような、そんな距離感の、「親友」よりは少し遠い「友達」。

そして、「親友」でもなければ「友達」でもない、「クラスメイト」、そして「知り合い」。

そんな風に、学生の頃は、自分の中に明確に「この人は親友枠」「この人は友達枠」「この人はクラスメイト」という枠が存在していて、そこにはハッキリとした境界線が存在していたように思う。


30代になり、広義の意味での「友達」の境界線と定義を、改めて考えるようになっている。学生時代が終われば、いつの間にか歳の差はあまり重要な要素ではなくなっていき、またSNSの台頭で、いろんな種類、色、距離感の「友達」が生まれていったように思う。

学生時代から変わらない「親友」の枠にいる子達。
その枠に、新しく大人になってから入ってきた子達。

でも、それ以外の境界線が、とても曖昧で、ときに私は混乱する。その距離感に。どこまで自分を曝け出せばいいのか、どこまで相手に求めていいのか、どこまで相手を信頼して自分のすべてを委ねればいいのか。


大人になって、いろんな種類の「友達」があらわれた。

SNS上で出会い、リアルではあったことがないけれど、DMやコメントでやりとりをしたり、ビデオ電話をしたりする人たちがいる。
その中でも、表面的な共通の趣味の話題について、差し障りのない、プライベートにはあまり深く立ち入らないで話が完結する距離感の人。これは、「友達」だろうか?それとも「知り合い」なんだろうか?
同じようにSNS上で出会い、リアルでは会っていないけれど、一歩踏み込んでお互いの人生や出来事、胸の内をある程度の深さまで曝け出し合うような人もいる。その人たちは、「友達」と呼べるのだろうか?「知り合い」以上、「友達」未満。そんな関係を、なんと呼ぶのだろうか。

ひと回りも上の年齢で、どちらかというと「先生」と「生徒」的な距離感で、導くような言葉をかけてくれる人。この人たちは、「友達」とは呼べないのだと思う。呼べない、というか。わたしは、「友達」とは呼ばない。そこに、「先生」「生徒」という格差というか、ラベルがあるから。対等で、横並びの関係性ではないから。

同じようにひと回りも上の年齢であっても、「先生」と呼ぶには距離が近く、でも「友達」と呼ぶには、少し違うような。必要なときに相談して、人生経験において先輩だからこそ言える言葉で、相談に乗ってくれたり、意見や指針をくれる人。そんな、「先生」以上、「友達」未満の人もいる。そういう人のことを、なんと呼ぶのだろうか。「仲のいい、お世話になっている先輩」になるんだろうか。


わたしはここのところ、自分にとっての「友達」が誰なのか、その優先順位、距離感、グラデーションの中で、わたしの人生の中になんらかの形で存在している人たちを定義づけ、位置付けをしようと試みていた。その一環で、SNSのフォロワーとフォローを大幅に整理しなおしたりもした。

でも…


突然、とある「知り合い」から電話がかかってきた。最後に会ったのは2年前だ。連絡を最後にとったのは、1年近く前だったろうか。
たった30分の電話。その電話の中で、わたしは彼に、この1年間に起こったことを、ありのまま、胸の内のかなりの部分を曝け出して、話をした。彼も、彼にとって心の琴線に触れるであろう、やわい部分を曝け出して話してくれた。お互いに、連絡をとっていなかったこの年月を、端的に、でも深く踏み入って報告し合い、そうして電話を切った。

そんな関係性を、なんと呼ぶのだろう。

「友達」と呼ぶには、あまりにもお互いのことを個人的な人生や生活のことを知らない。でも「知り合い」と呼ぶには、その人生が交差した一時だけは、とても深く、お互いの人生のコアの部分に触れ合う。

そんな人たちが、わたしの人生の中には、何人か存在している。その程度の差はあれど。

そんな人たちを、普段は「友達」ではなく、「知り合い」だと認識しているんだけれど。その交差する一瞬は、とても深い、一瞬の「親友」のような距離感になる。まるで、旅の仲間だ。お互いに、それぞれの人生という名の道を別々に歩き、時たま偶然、必然のタイミングで自然と道が交差したときに、互いに必要な情報を交換しあって、また別の道を歩いていく、そんな「旅の仲間」。


電話を切る前、彼はわたしに「つむちゃん。これからもさ。なにかあったら、いつでもLINEでも電話でも、していいからね。話、聞くから。お互いにさ」と声をかけてくれた。

電話を切った後、話をした内容も内容だったので、わたしはなんとも言えない哀愁というか、しんみりとした気持ちを胸に抱いて、しばらくぼーっと座っていた。


「友達」って、なんだろう。
その定義とは、なんなんだろう。

そもそも、うつろいゆく人生の中で、変わりゆく、繋がれては離れ、そうしてまた自然と繋がれ、紡がれていく縁の連鎖の中で、定義や枠、ラベリングなんてものは、必要なんだろうか。

そんなことを、思うともなく、思った。

人の縁というのは、グラデーションにもなっていなければ、不動のものでもなく、また「親友」「友達」「知り合い」「先輩」という、わかりやすいラベルをつけてしまうこともできない、とても曖昧で、あわいものなのかもしれない。

移り変わり、変わりいき、変化し続けていく。
距離感というものは、一定さを伴わず、またどこまで自分の胸の内を明かしていくのか、どこまでお互いの心に、私生活に、人生に、踏み込んでいくのか。それも、その時々によって、フィーリングや空気感、タイミングによって、変化していく。

そういうものなのかもしれない。

少なくとも、一個人対一個人の間の関係性は、きっと、そういうものなんだと思う。


SNS疲れ、そしてSNS離れ

SNS上で出会う人。そしてSNS上でなにかを発信するとき。
一個人対一個人の会話、対話ではなくなる。

いろんな距離感の人たち、いろんなグラデーションや、タイミングや、フィーリングや空気感の中で存在している人たちを、SNSというひとつの箱の中にひとまとめにして、こちらが一方的に言葉を放つ。その言葉を、誰が、どんなタイミングで、いつ、どのように受けとるのかは、わからない。

要は、「SNSで繋がっている人全員=友達」ではないなってことなのかもしれない。とてもシンプルに。言葉にしてみたら、とても当たり前のこと。でも、SNSを使って、一方的に言葉を放つときには、難しい境界線。

だからこそ、SNSというものに対して、わたしはその距離感、そこでの縁の線引きがわからなくなっていたのかもしれない。
だから、SNSに疲れる。だから、SNS上での人との距離感が、わからなくなる。その境界線が曖昧になって、ごちゃ混ぜになって、混乱する。

自分のプライベートを侵略されたような気になったり、相手は友達と思っているけど、こちらは相手を認識できていなかったり。そんないろんな齟齬やズレが、発生する。

そのすべてが、しんどいな、と感じていた。

だから、SNS上で発する言葉は、自然と慎重に、より一般的な、誰にとっても差し障りのない言葉になってしまうのかもしれない。


でも。
SNS上での繋がりを、そこで繋がった縁を、「SNS」という大きな枠の箱の中にごちゃ混ぜに入れたまんま、全体に向けて言葉を発するのではなく。そこで出会った縁の一つひとつ、それぞれに対して、その時々で適切かつ自然な距離感、境界線で接することができれば。
本来のSNSの使い方、その素敵さを、取り戻すことができるのかもしれない。

とりとめもなく、そんなことを思った。


「友達」とは


SNSって、なんなんだろう。
友達って、なんなんだろう。

まだ、わからないけれど。

でも。

無理に、線引きをする必要、特定の枠の中に、それぞれの人たちを入れ込んでいく作業は、しなくていいのかもしれない。
ただ、その時々のフィーリングや、距離感、感覚やタイミングを、信じて、委ねる。

結局のところ、「親友」だろうが「知り合い」だろうが。
みんな、その時々でそれぞれの人生という名の道が交差した瞬間、互いの人生で学んだことを伝え合いあって、そうしてまた、各々の道を歩いていく「旅人」であり、「旅の仲間」なのかもしれない。

その交差する頻度が、多いのか、少ないのか。
その交差している瞬間が、長いのか、短いのか。

ただ、それだけの違い、なのかもしれない。
そんなことを、とりとめもなく、思った雨の夜。


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