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海外移住で受け入れること

海外移住をしたいと考えている方は日本で結構いると思いますが、日本の生活の延長で考えるととんだ目に遭います。特に精神面できつくなって帰国する人もいるので、そのあたりは覚悟が必要です。

■日本人のプライドを捨てられるか
 まずはプライドを捨てられるかどうかです。

 僕が25年の海外生活(主にアジア)で見てきた日本人は往々にしてプライドが高い。特に日本人としての。

 確かに昔は日本人というだけでちやほやされる時代がありました。しかし、今はご存知の通り、日本人はお金をもっていません。それも海外の人もすでに知っているので、「日本人=金持ち」とは見なくなり、ちやほやされることもなくなりました。日本人の過去の栄光はもうないのです。

 これはある意味で良かったことなのですが、一方で勘違いしている日本人が結構多い。「日本人だから」といって何でも信用されると思ったら大間違い。20~30代の若い世代も何故かプライドが高い人がいて、現地人を見下す人がいますが、そもそも何様なのでしょうか。アジアでは特殊詐欺を行っている日本人もいることから、白い目で見るローカルもいることでしょう。変なプライドは捨てて、謙虚に海外でも生きることが肝要です。

 ちなみに、日本で生きていけなくなってしまった人たちがタイやフィリピンなどに渡っていくのは昔からの流れです。しかし、特殊詐欺でこうやって海外でも注目されてくると「日本人=犯罪人」という印象に徐々になっていきかねません。今海外に住んでいる日本人や将来海外に住む日本人もこの事件は他人事ではないのです。

 日本人としてのプライドはある程度もつのは結構ですが、高慢なプライドはローカルから総スカンされます。このあたりは日本でも同じですが、海外だと殺されることもあるので気をつけましょう。

■給与額について 

 さて、もう1つが現地採用になった場合、給与額についてのジレンマが出てきます。

 日本から赴任してくる駐在員は別ですが、単身で海外に乗り込んでくると仕事をせざるを得ません。就労ビザを取得しないといけないため、どうしても現地の日系企業などで大半は働くことになります。

 ここで問題になってくるのが給与額。詳細については前に書いていますのでそちら(下記より)に譲ります。その国に永遠に住むのであればいいですが、日本に将来帰ることを考えている場合はその給与額を貯金して日本に帰れるのかといったことなどの課題が出てきます。自分で会社を立ち上げて仕事をするのであれば、頑張ればどんどん溜まっていけますが。ただ、大半の方は会社務めになるので、やはり給与額についてはよくよく考えるようにしましょう。


 この給与面でも日本との乖離が激しい場合はやはり精神的にもきつくなってきます。ローカルと働くとなると、給与がローカルとほぼ同じということになりかねません。モチベーションにもかかわってきます。「老後は大丈夫なんだろうか」とも考えてしまったりすると、悶々となってしまいます。

■日本の常識を捨てる 

 「日本の常識は世界の非常識」とよく言われますが、海外に住むと確かにそう思うことがあります。

 常識は固定概念といってもいいかもしれませんが、その常識がずれると日本では白い目でみられます。例えば、電車やバスでの携帯電話の使用。東京の山手線など乗ると電話を使うと殺されそうな雰囲気がありますが、海外では使用は自由です。

 僕がマレーシアに住み始めたころ、電車に乗っていてもみな普通に電話をかけていて、特にうるさいとも感じなかったのが不思議に思いました。確かに中には大声で話す人もいたのですが、それは単に大声でうるさいというだけ。日本人は耳触りを非常に気にするので、公共交通機関内や施設内での話し声には非常に敏感になると思われますが、だとすると「車内で普通に会話するのはダメなの?」といつも思います。携帯電話の話し声は相手側の声が周りに聞こえないからダメなのでしょうか。僕は嫌な理由がよくわかりません。公共交通機関内での携帯電話の使用の禁止はおそらく日本だけではないでしょうか。

 このほかにも時間厳守やゴミの分別、すすって食べたり、トイレをノックしたりと様々なことが文化的に違うので日本の常識は通用しないんです。

 ここでちょっと常識について考えます。

 常識は民族的な文化も背景にあると思います。特にその社会の均質性が高いと一つの行為に対して互いのコンセンサスが生まれることは早く、了解されます。これは同じ言語を使っていることも理由になるでしょう。

 ところが、多民族社会だとそうはいきません。多民族社会の典型的なマレーシアの社会では常識がないと言っていい。言い過ぎなところがあるかもしれませんが、マレー人、華人、インド人などそれぞれ言語も文化的背景も違う民族同士で共通の常識が生まれるほうが珍しい。民族を隔てて互いに了解しているのは、おそらく宗教上の規範だけと言っていいでしょう。例えば、人を殺してはいけない、人のものを盗んではいけないといったこと。これらはどの宗教でも聖典に書かれており、その共通規範が多民族社会のなかでの常識になるのでしょう。

 しかし、バスや電車の中での携帯電話の使用の禁止はこうなってくると常識にはなりえなくなります。そもそも『コーラン』や『聖書』にも書かれていません。法律になっているわけではなく、誰が何をもって常識としていくのかは、文化背景や言語が異なると簡単にはなりえない。

 昔、クアラルンプールで車一台しか通れない道に車を停めるインド人がいました。それとて「道の真ん中に駐車するのは非常識」とは言えないんです。1本道しかないので車が通れなくなるのですが、それはこちらからの見方。相手側からすると別の見方なのです。注意すると怒り出します。互いの考え方に大きな乖離があるので、これを埋めていく(つまり、理解していく)のは、労力が入ります。一つ一つの小さな事柄の了解は得るのは難しい。それが多民族社会であって、面白いところでもあるのです。

 日本での常識は日本だけで生活する上で必要なことであって、海外では通じません。日本の常識は一旦脇に置き、ローカルの行動を観察する必要があります。日本とは違うので、イライラしても意味がありません。忍耐力が海外移住で必要なことになってきます。常識を大きく越えて自分の許容範囲をどこまで広げられるか。自分のなかで人の行為を許せる範囲を明確にした上で、それを越えたらどうしたらいいのか、ということまで考えておかないとノイローゼになってしまいます。

 僕の場合、この許容範囲を越えた行為をされたときは、とにかくその現場から離れるようにしています。どうせ理解はできないので、関わらないようにするのが一番なのです。あまりこういってはいけないと思いますが、経験上、インド人の行動には眉をひそめる(つまり、自分の許容限界を越える)ことが多いので、日常生活圏に僕はインド人を入れないようにしています。これは差別ではなく、区別ですが、そうでもしないと、精神的にもたない。いくら忍耐力をつけたとしても、どうしたって受け入れられないことはあるのです。

 許容範囲をどこにするかは、上記の中でもしかすると一番難しい点かもしれません。

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