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どの方向を向いて何を見る人になるか

「こっちを向いてよ」

幼い頃から、自分を見てくれる存在がほしかった。自分だけを見てくれる存在がほしかった。

身内に無視されたり、悪く言われたり、雑に扱われたり、利用するだけして捨てられたり、何度も死のうとしたくらい表現すら憚られるいじめを受けたりが続いていたせいかは分からない。

もしかしたら「気にしなきゃいいのに」や「立ち向かえば解決しただろうに」と思われるかもしれない。でも、正直

それができれば苦労はない。

人によっては、どうしても不可能な性格や性質もある。私という人間は、どんなダメージを受けても「攻撃する」の選択肢が出てこないタイプ。懐が深いとか優しさにあふれているとか、そんな後光が射す仏のような素晴らしい意味じゃない。

「人が怖い」

この理由が全て。

何か言おうとすればひっ叩かれ、ばい菌のように言われ、顔や体型や中身もろもろ気持ちが悪いと笑われ、学級日誌のところに「○ね」と書かれ、プールに沈められ、物を投げられ、凶器を持ち出されていたせいで、人が怖くなった。

とはいえ、大人になるにつれて世の中には心をいくらか許せる人がいるのも知ったし、全員が全員に対して強く思うわけでもない。「マシュマロですか?」となるほど柔らかい雰囲気の存在も、現実にあるし。

ただ、最初は薄っすら怖い印象がある、かも。

話が逸れたけど、そんなこんなで心のもやを外へ逃がすことができなかった私は、例えるなら

司会:自分
ゲスト:自分
作・演出:自分

オール自分のトーク番組を内なる場所でやっていて。

そこで、早くから「方向って大事だな」と思い始めていた。

もちろん、以下のことは私個人が考えているだけ。誰もが当てはまるわけでもないし、押しつけるつもりもない。全く違う人もいていいだろうし、意見交換する気も争う気もない。議論したいわけじゃなくて、吐き出したいだけ。

そのあたりを大前提として読み進めてほしい。


向いて向かれてふりふられ

方向といっても、当然ながら東西南北の意味じゃない。いわゆる

視線

の話だ。生きていると「やりたいこと」もあれば「やりたくないこと」もある。気乗りしない時でも、どうしてもやらなきゃいけないならそちらへ

意識という視線を向ける必要

があると思う。

そういう渋面を作る感じで視線を向けるのは、本当にストレスが溜まる。下手に向け続けると病んでしまうほど。

逆に自分が好きなことへ視線を向けるのは、苦じゃないどころか時間が足りなくなるし、疲れるような行動でもストレス発散になることだってある。夢中ってやつだ。

一方で、自分がどこへ視線を向けるのかだけじゃなく

自分以外の人がどの方向を向いているか

も、すごくすごく重要に思っている。

「余計なお世話をかましてくる」や「見てほしくない人に見られる」などは論外として、意識という視線をこちらへ向けてもらえるって、私は素直に嬉しい。こんな奴に興味を持ってもらえるなんて幸せ以外ない。

逆に、その視線がちっとも自分へ向けられないと寂しい。向けられたとしても、その度合い的に「あなたじゃなくても別にいいけど」といった替えのきくものだと虚しい。興味のなさが伝わるとサラーニャ涙出る。

このように「自分が向く方向」と同じく「相手が向いている方向」も、まあまあ重要だなと。心が左右されるなと。結構効くよなと。

もっとも、後者はこちら側の魅力次第だったり相性だったりタイミングだったりもある上に、あちら側の趣向や考えもあろうからどうしようもない。そこを無理にどうこうするのは違う。顔掴んでぐいっとやっても誰もきゅんとしてくれない。

つまり、やはり、前者をどうするかがカギだろう。

どこを向いていたいか

とはいっても、この世は360度。

生きてから死ぬまで「これだ!」と感じた一方向だけを向き続けるのは、不可能に近いくらい至難。

なんなら環境やその他の要因で、たとえ自分が望むものがあっても決められた方向しか向けない拷問のような生活を余儀なくされる人も少なくないかもしれない。

だから、これは決して正否の話じゃない。

「自分が好きな方向を向き続けなきゃね」だとか「嫌な方向を向かないで好きに決めていいんだよ」だとか、そんな他人事・綺麗事・絵空事を言いたいんじゃない。

子供の頃から「こっちを向いてよ」と願い続けて育ってきた私自身が、この先どの方向を向いて何を見たいのかを最近よく自問しているんだよという、いたって個人的な話。

なんの力もないのは分かっている。私ごときがどこを向いたって、背伸びをして叫んだって、こういった発信をしたって、世界が微動だにしないのも知っている。

だからこれは自己満足の偽善。

ただ、似た感じで「こっちを向いてよ」と求める涙を含んだ視線をどうやったらひとつでも多くキャッチできるだろうと考えることは、止めたくない。諦めたくない。

そういう意味でも「自分がどこを向いていたいのか?」を含めて、やはり

結局大事なのは方向だよな

と思う。

まとめ

ニュースなどでよく「こんなすごいことができるなら良い方向に使えばよかったのに」と感想を持ったりするように、頑張る方向を間違えると大変だし、能力を使う方向を間違えると取り返しのつかない迷惑に繋がるし。

方向というのは、いろいろな場面でキーポイント。

コンパスのない不安定な人生で頼りになるのは、一体どの方向がよりよいものかと地道にひたすら考え続ける

思考

なんだろう。そうやって、その時その時に自分なりにできる範囲で決めていく道が、いつしか納得して「嗚呼宜なるかな」と言える

志向

と定まるのかもしれない。

なんて駄洒落で締める昔の書き癖が久しぶりに出たけど、どうか呆れないでほしい。思いついたがためのほんの出来心だから、どこへも行かないでほしい。ねえ、ちょっと。

「こっちを向いてよ」

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