見出し画像

「無理な人」ができたとき、それは嬉しいことだった

人間どんな人であったとしても、絶対にどこか良いところはある。
私は物心ついた時から性善説的思考を無意識的に自分の価値観に採用していたようだ。

その人自身の良いところを見つけられない人は、余裕のない人だし、大人になりきれていないし、良いところを見つけても好きになれないもしくは良いところすら見つけられない人は、その人自身が可哀相であり残念だとも思っていた。

かくいう私について言及すると、周りの人に恵まれて生きてきたというのもあるが、あまり対人関係には悩みがない人生を送っていると思う。「あ、この人無理だな」という人も振り返ってもほとんど思いつかない。

ちなみに、過去を振り返ってぱっと思いついた「無理な人」は、社会人1年目だったか、昔行った飲み会にいた一人の男の人。(失礼ながら)見た目もちょっとなよっとしていて苦手だった。その会自体はなぜか盛り上がり、飲み会にいた人全員でラインの交換をし、そのなよなよ男性から後日連絡が来たのだが、一気に質問が5個も連続で飛んでくる拷問のような彼のラインに1往復目ですでに嫌気がさし、いわゆる既読スルーをしていたのだ。返信が返ってこない私のことを心配に思ったのか本心ではスルーされていると分かっていたのかはよく分からないが、「体調悪い?大丈夫?」「無事に家に着いたよね?」「仕事が多忙すぎるのかな?働きすぎかな?」など何通か送られてきた後、極めつけに、「ラインを無視するということは僕のこと嫌いなのだと思います。一つだけ教えて下さい、僕のどこを治せばよくなるか言ってください、次に活かしますので。」というような連絡が来た時には、「あぁ、やっぱりこの人本当に無理すぎる」と何の躊躇もなくその人を「無理な人」認定したことがある。

と、こんな私の今までの人生のほんの2時間ほどを一緒に過ごした見ず知らずの男性が頭をよぎるほど、私は「無理な人」に出会ったことがないのかもしれない。

でも最近分かったこと、それは「無理な人」に出会っていないのではなくて、「無理」「嫌い」「苦手」という自分が人に対して抱くネガティブな感情に蓋をしていたのだということ。本当の感情に蓋をしてきているがために、自分自身の感情に気付くのに鈍感になってしまっているのだと思う。誰しもに良いところはあって、その良いところに常に気付けて誰とでも良い関係を築けるような人が素敵な人であって、そうでなければいけないと思っていたのだ。

だがしかし、この考えを持っていると実はなかなか生きにくい。自分のネガティブな感情に蓋をするということは、自分を受け入れてあげられていないということだ。意識的でも無意識的でも、自分の感情に蓋をしていると、それに慣れてしまってきて自分自身の感情に気付いてあげられなくなるのだ。自分の感情を自分自身で気が付いてあげられないのは致命的で、そうなると一体だれがそれに気づいてあげることができるのであろうか。

そして最近、ちょっとずつネガティブな感情に意識をしてみて、できることであればそれを発するようになった。人はそれぞれ違うのだから、無理や苦手や嫌いと思ってもしょうがないというかそれが真っ当なことなのだということが理解できるようになった。

ネガティブな感情に蓋をすると、自分の感情に鈍感になり、自分自身が良く分からなくなる。そういうことを辞めたいなと思ったため、自分の感情に正直になる必要性を感じている。嫌だったら嫌、そのことに嘘はつかず、正直に受け入れてその感情を優先してあげるようにしている。

家族や友人や職場の人と話していても、誰かが人の悪口を言うと、私はとても居心地が悪い。その人のことをどんなに素敵だなと思っていても、「なんだ悪口を言うような人なのか」とがっかりすることもあった。でも今は徐々にではあるが、その半ば過剰な反応もいくらか緩和されてきていると思う。

そして最近、「あ、私この人無理だな」という人に二人ほど出会った。
何がそう思わせたのか掘り下げてみるが、一人目は言語化をすることはなかなか難しい。その人に意地悪なことをされたわけでもないし、嫌なことを言われたわけでもないし、なんなら恐らくその人はかなり優しく私にもそして周りにも接してくれる。

だが、どうしてか無理なのだ。
その人の話し方も好きではないし、微笑み方も好きではないし、たまにする会話も薄っぺらいなと思ってしまうし、自信がないと明らかに分かるような言動も好きではないし、とにもかくにも好きではない、私にとっては「無理な人」。

そしてもう一人は通うことを検討していたある学校の説明会を担当してくれた方。学校自体はとても魅力的だったけれど、その人とは馬が合わないなと思った。いろいろと話す中で、言い方がとても嫌だったし、自分の思いを否定しているような感じが受け付けられなかった。

私は皆に良い顔をする。
誰も傷つけたくないと思っている。
でも、誰からも嫌われないように、みんなと良い関係が築けるようにと自己犠牲をしつつ生きるよりは、自分が好きな特定の人と良い関係を築いていればそれだけでよいはずだ。好きな人に対しても、自分のことをある程度優先して好きなように過ごしていて、それに合わないと相手が思うようなことがあれば、それまでの関係であるのだと肩の力を抜いて考えられるようになっている。

良いことなのかは分からないけれど、自分の人に対するネガティブな感情をキャッチできるようになっているのであれば、それは私にとっては一歩また成長したのだなと思ったのだ。

「無理な人」ができたとき、私にとってそれはある種の自己成長であり、なぜか嬉しいことだったのだ。

この記事が参加している募集

サポートいただきまことにありがとうございます。 読者の方の日常を少しでも彩ることができるよう、精進して参ります。 引き続き、よろしくお願いします🍀