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『鬱』な花嫁

深夜2時。川の音がゴーゴーと響き渡る真っ暗で開けた車道。
アクセルを一気に全開にして、このままブレーキを踏まなければ、
もしかしたら少しは楽になれるのかもしれない、そう思った。

***

2019年の春。私は東京の外資系コンサル企業に勤めていた。
入社をして5年。振り返れば辛いこともあったけれど、それ以上に仕事にやりがいを感じている時期でもあった。

常により上へ、より高いところへ、一息もつくことなく走り続けている感じ。走り続けることは大変だけれど、日々自分が成長できている感覚を味わえることが何よりも嬉しかった。幸いなことに、職場の人には恵まれ、上司からも期待をされ、「もっともっと頑張ろう」とただがむしゃらに毎日を生きていた。

でも、なぜだろう。横断歩道で信号が青になるのを待っている時、目を瞑ってゆっくりとお風呂に浸かっている時、頭をよぎるのは「このままで良いのだろうか」ということ。自分がなかなか追いつくことのできない "何か" に必死で食らいつこうとして生きている、そんな毎日を続けるだけで本当に自分は幸せなのだろうか。ふつふつと迷いが浮かんでくることもあったが、やはり現実はやらなくてはならないことで溢れていて、物思いにふける時間はほぼ皆無、淡々と1日1日が過ぎて行った。

そんながむしゃらな日々を送っていたのだが、ある日、当時付き合っていた彼氏の転勤が決まったのだ。そして、彼からはすぐに、「一緒に付いて来てほしい」とプロポーズをされた。

行き場所は東京からかなり離れた田舎町ではあったものの、私は一瞬の迷いもなく、彼に付いていくことにした。

彼のことはとても好きだった。だけれども、正直、張りつめた中生きている生活に終止符を打ち、彼と新たに田舎でスローライフを送れるであろう近い未来にかなりの希望を抱き、「これでやっと得体の知らない "何か" を掴もうと必死な日々から逃れられるのだ」という安堵の気持ちが大きかった。

彼の転勤までの期間は1ヶ月もなかった。お互いの両親への挨拶、新居探し、荷造り、会社への退職願い、短い間に沢山のことを一気に進めた。

私はこれからの未来に希望で胸がいっぱいだった。

だがしかし、いざ迎えた引っ越し当日。
私の目に映ったのは想像をはるかに超える風景であった。見渡す限り山と川が連なる大自然。家の前には田んぼが永遠と広がっていて、鹿に会ったかと思えば、猿を見かけることもあった。コンビニに行くのにだって、車を10分ほどは走らせる必要があった。大好きなカフェなんてその町には無かったし、同じくらいの年齢の人も近所ではほとんど見かけなかったし、夕方5時には出歩く人すらいなかった少し閉鎖的な印象を抱いてしまう小さな田舎町。

生まれも育ちも東京である私からすると、そこは異世界すぎて何だか自分が踏んでいるその地を受け入れることが難しかった。

おまけに、引っ越しの翌日、急に涙が止まらなくなった。
知り合いが全くいない地。家族とも友人ともすぐには会うことができない。これから私はこの場所で楽しく毎日生活をしていけるのであろうか。

でも、考えてみれば、同じような境遇の人なんて五万といて、みんな頑張ってなんとか楽しく過ごせているだろうから、それが普通なのだから、私だけができないなんてことはないのだと無理やり自分の不安や寂しさを封じ込めた。「環境の変化は多少なりともストレスになるのは当然なのだから、自分の感情の揺るぎも当たり前だ」と何度も自分で自分に言い聞かせた。

その土地ではすぐに新しい仕事が見つかった。
でも結局は、夢に描いていた田舎でのスローライフとは打って変わって、仕事に追われる毎日。朝から晩まで仕事に打ち込み、夜は夫と自分の翌日の朝食と夕飯を準備し、掃除や洗濯をして、残りの時間があれば仕事や仕事の勉強にあてた。

家事と仕事の両立には苦労した。
苦労はするけど、みんなやってのけていることなんだとこなしていった。

仕事で昼夜逆転をしている夫とは同じ屋根の下で暮らしているのにも関わらず、平日はなかなかお互い会うことはなかった。私が寝ている深夜に夫が帰って来て、私が仕事で部屋に籠った後に夫が起きる生活。

そして、引っ越してから半年が経った頃、私の心は少しずつおかしくなっていった。

1週間分の仕事の疲れと次の週の仕事量の多さに対する嫌悪感を浄化するかのように、日曜日は午後になると涙が止まらなくなった。それでも、「俗にいう「サザエさん症候群」なのだろう」と思い込んだ。

夫とは何度も喧嘩をするようになった。
喧嘩をする度に、「こんなにも辛くて寂しいのに、どうして私の気持ちを分かってくれないのか」「こんな人と一生一緒に暮らしていくのは耐えられないかもしれない」、そう思って辛かった。

それから、「消えたい」と本気で思うようになった。
人生を終わらせたいかと言われると、そうでは決してない。でも、この世界から自分という存在がいなくなったら自分自身が少しは楽なのかもしれないと心底考えるようになった。

そんな感情を抱いている自分が本当に嫌で、腕をつねった。
腕をつねると痛いという感覚が勝り、不安の感情がいくらか和らいだのだ。

時には、真夜中にただただ車を走らせてみた。
悲しい時は喚いてみた。
苦しい時は叫んでみた。

それでも、私の心はどん底を彷徨っていて、気づいたら一筋の光すら感じることのできない状況に陥っていた。

そんな私を見かねて、夫は彼の職場の上司に懇願したのだ。
「東京にどうしても帰りたい」と。一度断られても二度断られても夫は会社にお願いをし続けた。「東京配属が難しいのであれば、自分は退職を考える」とも。

その強い希望が通り、わずか1年弱の田舎での生活を終え、夫婦揃って東京に戻ってきた。彼の職場にとっては異例の早さの異動だった。

ただ、東京に帰った後も、私の症状は治まらなかった。
不安。焦燥感。訳も分からず止まらなくなる涙。

そして、東京に戻って1ヶ月が過ぎようとしていたある日、突然体も悲鳴を上げたのだ。39度の熱。何かに押しつぶされているような苦しさ。異常なほどの強い倦怠感。一睡も眠ることのできない日々。ズキズキとした耐え難い頭痛。

「これは何かの病気に違いない」と大学病院へ行き、血液検査やらエコーやら色んな検査をした。だが、なんら異常は見つからなかった。そして、検査後に大学病院の先生から言われた一言は、「心療内科へ行ってください」とのことだった。

「し、しんりょうないか?」
確かに精神的に少し疲れてはいるかもしれないけれど、心療内科に行くこと自体に抵抗があったし、行って何になるのだと本気で思った。それでも、体が何かおかしいと充分な自覚があった私は、家族の勧めもあって心療内科へ初めてかかったのだ。

診断を受けたのは「鬱病」。
まさかと思った。けれど、正直ほっとした。体の違和感やコントロールの効かない心の感覚は、鬱病が原因だということを知った。

それからというもの、本格的に病気と闘うこととなった。

倦怠感が強くてベッドから一日中起き上がることができない。
頭も常に痛い。目が覚めていると、漠然とした不安や絶望感に押しつぶされていく。過去の辛かったり嫌だったりした経験が頭をぐるぐる駆け巡る。自分の存在が誰にも求められていない気がして、将来の希望なんて全くなかった。

ただただ毎日が辛くて辛くて。
涙が止まらなくなって、そしてまた腕を抓った。

それでも、徐々にではあったが病状は良くなっていった。
診断を受けてからの数か月は寝たきり状態であったけれど、座っていられる時間が長くなり、家族と話ができるようになり、テレビを見られるようになり、散歩に出かけられるようになっていった。

本当に少しずつ、昨日と今日との変化は感じられないけれど、先月と今月の変化はかろうじて感じることができる、それくらいゆっくりゆっくり良くなっていった。

入籍をした時に決めていた結婚式も、私の病気の状態が悪く、延期をした。延期をして、私は「結婚式なんてどうでもいい」と泣きわめいていたけれど、「花嫁姿が見たい」と言う両親の気持ちにはこたえたくて、2度の延期をした結果、やっと開催をすることができた。

***

結婚式当日。それは紛れもなく人生で一番幸せな一日だった。
私には、私を必要としてくれて大切にしてくれる夫がいる。いつも愛情を与えてくれる家族がいる。大好きだと言ってくれる友人もいる。

自分を囲むように、みんなが笑っていて、みんなが幸せそうにしている。

不思議なことに、私は鬱になった今、人生で一番幸せを感じられている。


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