「軽蔑」について 津島佑子『光の領分』
津島佑子『光の領分』を、私は主人公には感情移入できないけれども夢中になって読んだ。その理由は、「光」を中心に展開されるイメージは鮮明で美しく、大変読みやすい端正な日本語で綴られているにもかかわらず、登場人物の心情にはまがまがしいものに満ちており、その不均衡が強く印象にのこったからである。
この小説は、夫に別居を言い渡された「私」が、娘とともに「四方に窓」があり「光がひしめいて」いる四階建てビルの最上階に引っ越すところからはじまる。最初は別居を信じられずにいる「私」だが、夫婦での会話は罵り合いになってゆき、暴力沙汰にまで発展してしまう。「私」は、「離婚届の紙を区役所に取りに行」き、漸く調停離婚が受理され親子が新しく新居を見つけたところで終わる。
注目すべきは、離婚が成立し、「確実に失うことになってしまったもの」=夫の存在感に「圧倒」される「私」のこのような感慨である。
そして、
物語の終盤近くになって、ようやく私はこの感情があのゴダールの名画『軽蔑』のそれと同じだと分かった。この映画では熱愛中のカップルの女が、不意に男への気持ちが冷めてしまいその理由を「軽蔑」としかいいようないと説明する。『光の領分』に潜んでいる、この重々しいなにかを、私は「軽蔑」だと思う。この感情ほど、人間関係において厄介なものはない。なぜなら、それは言葉の次元ではなかなか表現できない生理的な感覚に近いからである。そして、『光の領分』はこの「軽蔑」を描き切ったという意味で文学史にのこる傑作となっている。
しかし、この母娘は引越し後狭い新居でうまくやっていけるのだろうか。「私」は夫のことを忘れ得ぬだろうし、娘は定期的に癇癪を起こし、また保育園では「鋏(はさみ)で一人の赤ん坊の耳朶を切り取ろうとした」(160)という。この小説では二人の「狂気」は全く解消されていない。このような後味の悪さも本作の魅力である。
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