フランス語の学徒

江藤淳と柄谷行人、石原慎太郎と大江健三郎が好きです。アイコンは文豪っぽい宮本浩次、背景…

フランス語の学徒

江藤淳と柄谷行人、石原慎太郎と大江健三郎が好きです。アイコンは文豪っぽい宮本浩次、背景は若き日の石原慎太郎。読書記録など。

最近の記事

アクチュアルな、余りにアクチュアルな 浅羽通明『ナショナリズム』

 浅羽通明『ナショナリズム』は、十冊の書物の読解を通じて「ナショナリズム」を考察した本であるが、著者はこの思想をこう捉えている。  ここに、ナショナリズムの特異な点があるといってよかろう。たとえばマルクス主義は主にエリートによって支持されたが、この思想は学歴や社会的階層などに関わらず、しかも無自覚的に抱かれて続けてきたのである。支持不支持などという以前に。そのゆえんを、著者はこう述べている。  したがって、本書で読解を試みられる文献は幅広い。石光真清の手記、橋川文三や三宅

    • ことばは不要 映画メモ

       最近観たなかで印象にのこったもの。 サム・ペキンパー『昼下がりの決斗』(1962)  ペキンパーといえば、斬新なバイオレス描写だが、それは後述する『ワイルドバンチ』以降に顕著なのでこの映画は丁寧につくられた西部劇という印象。もちろん、「最後の西部劇監督」ともいわれるペキンパーだけあって、老ガンマン二人の姿はそのまま西部劇の落日と重なっているように見える、静かな余韻を残す傑作である。あまたの西部劇を彩った主演ランドルフ・スコットは本作で引退となった。 サム・ペキンパー『

      • 邂逅の旅 李恢成『サハリンへの旅』

         李恢成『サハリンへの旅』は、34年ぶりに故郷のサハリン(樺太)に訪問した作者の旅行記である。  さきの終戦をサハリンで迎えた朝鮮からやってきた人々はいわば板挟みの状態になっていた。というのは、ソ連の進駐によって日本人は続々と引き揚げていくにもかかわらず、半島が南北に分断されてしまったため、半島にも日本にも帰れずに、いわば置き去りにされた状態にあったからである。  李一家はなんとか引き揚げを画策する。自らを「日本人」に擬装して、引揚船に乗り込むのである。このとき、李恢成は十二

        • 最近観た映画メモ①

           最近観た映画で印象に残ったもの。洋画から。 コーエン兄弟『ファーゴ』(1996)  五年ほど前に観て、面白かった記憶はあるけれども全く忘れていたので再見。たしかに、話はよく出来ているし(実話を再現した、という冒頭の提示もすでに嘘=フィクションである)始終飽きさせない。役者たちもスティーヴ・ブシェミを筆頭に好演している。が、印象にのこる"ショット"がついにあらわれないのは残念である。 ポール・シュレイダー監督『アメリカン・ジゴロ』(1980)  リチャード・ギアの出世

        アクチュアルな、余りにアクチュアルな 浅羽通明『ナショナリズム』

          『抱擁家族』の現代性 小島信夫『抱擁家族』

           小島信夫『抱擁家族』は一般に、家族の“崩壊”を描いた傑作として知られている。  この小説は、大学講師で翻訳家の三輪俊介を主人公にしている。三輪家は妻の時子と、良一とノリ子という二人の子供との四人家族で、家には家政婦のみちよとアメリカ兵ジョージが出入りしている。ある日、俊介はみちよに時子がジョージと姦通している旨を告げられ、この家族は崩れていく。おそらく、みちよの密告が家庭崩壊の直接の“原因”となったわけではない。それは第一章がはじまるまえのプロローグの部分の会話を見ればわか

          『抱擁家族』の現代性 小島信夫『抱擁家族』

          谷崎潤一郎『細雪』と丸川哲史「『細雪』試論」と

           一週間ほど時間をかけて、谷崎潤一郎の『細雪』を読んでいた。ずっと読まなければならないと思っていたのだが、私の持つ新潮文庫版では上中下の三巻によって成っており、なかなか食指が動かずいわゆる“積読”の状態だったのである。いざ読み始めると思いのほか面白く、一気に読みたい焦る気持を抑えて読了した。現在では消えてしまった上品な関西弁や和歌を想起させるような鮮やかで美しき風景描写を絶対に読み過ごすまいと思ったからである。  この大長編は、昭和十八(1943)年に『中央公論』で一話と二話

          谷崎潤一郎『細雪』と丸川哲史「『細雪』試論」と

          芥川賞を読む② 高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』

           百六十七回芥川賞受賞作・高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』は巧みな人物造形によって、現代社会の歪みを鋭く批評した一冊である。  この小説は、埼玉のとある事業所を舞台に、二谷・芦川さん・押尾さんの三角関係を軸に展開してゆく。三か月前に東北の支店から転勤してきた二谷は、最初芦川さんからここでの仕事を教わっていたが、すぐに納品のミスが発覚し彼女が仕事が出来ないことを知る。しかし、芦川さんは前にいた会社でハラスメントを受けていたようで上司もきつくはいえないし、事実、頭痛

          芥川賞を読む② 高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』

          『裏窓』についてのメモ

           ヒッチコック監督『裏窓』(1954)は、向かいの「裏窓」での殺人をジェームズ・ステュアート演じる写真家ジェフが恋人のリサ(グレイス・ケリー)とともに追求していく映画である。映画はほとんどジェフの視点で語られてゆき、緊張感あふれるショットに観客は加速度的に引き込まれていく。特に、犯人が外出しているすきにリサが向かいの部屋で事件の証拠をあつめ、すると犯人がちょうど帰ってきてしまうシーンは手に汗握るものだ。このとき観客は、自分の視線がジェフと完全に同化していることに気づくであろう

          『裏窓』についてのメモ

          「軽蔑」について 津島佑子『光の領分』

           津島佑子『光の領分』を、私は主人公には感情移入できないけれども夢中になって読んだ。その理由は、「光」を中心に展開されるイメージは鮮明で美しく、大変読みやすい端正な日本語で綴られているにもかかわらず、登場人物の心情にはまがまがしいものに満ちており、その不均衡が強く印象にのこったからである。  この小説は、夫に別居を言い渡された「私」が、娘とともに「四方に窓」があり「光がひしめいて」いる四階建てビルの最上階に引っ越すところからはじまる。最初は別居を信じられずにいる「私」だが、夫

          「軽蔑」について 津島佑子『光の領分』

          それぞれの「一族再会」 江藤淳『一族再会』

           江藤淳『一族再会』は、江藤の「言葉」の源泉たる「一族」——母、祖母、二人の祖父——とその周囲を、膨大と思われる資料や記録を渉猟して「言葉」によって召還したエッセイである。こう書くと、これは極めて私的(プライヴェイト)な書物のように思われるかも知れない。が、読後の印象はそれとはまったく違っている。いま、私のこころにのこっているのはいわばある時代の“感触”のようなものだ。  この書物において江藤は、一族の姿を描くことに凭れかかっているのではなく、そうかといって、彼らを翻弄する「

          それぞれの「一族再会」 江藤淳『一族再会』

          辛い勝利 ロバート・アルドリッチ監督『カリフォルニア・ドールズ』

           ロバート・アルドリッチは最期に、一生忘られぬ「辛い勝利」を観る者の心にのこしてこの世を去った。  『カリフォルニア・ドールズ』(1981)は、この題を冠した女子プロレスタッグとピーター・フォーク演ずるマネージャーを主人公にした映画で、この三人はすくない金を得ながら各地を興行で転々とするいわば車中でのその日暮らしをしている。三人は、時々激しい口論もするけれども、マネージャー・ハリーのジョークも作用して諦観に似た「希望」をもっているといってよかろう。いや、むしろ「希望」に似た諦

          辛い勝利 ロバート・アルドリッチ監督『カリフォルニア・ドールズ』

          最期の九日間 安岡章太郎『海辺の光景』

           安岡章太郎『海辺の光景』は、戦後に書かれた小説のなかでもっとも優れた作品という定評がある。事実、発表されてから六十五年の月日が経った現在読んでも、全くアクチュアリティは失われていないといってよい。むしろ、超高齢化社会の到来ーー2025年問題が間近に迫ったいま、作品の輝きはいっそう増している。  この小説は、母親の危篤の報せを受けた主人公の信太郎が、父とともに母親の入院している四国の精神病院に訪れるところからはじまる。母親は悪化した認知症のために、一年前からこの施設にあずけら

          最期の九日間 安岡章太郎『海辺の光景』

          鎮魂歌 田久保英夫『木霊集』

           田久保英夫『木霊集』には七つの短篇が収録されており、それらは「死」の存在を中心に、花弁のように連なっている。端正な日本語で綴られた七篇は、短篇小説(集)とはこうあるべきだ、といういわばお手本のような出来で、どれも心にのこるものであった。  その所以は、おそらく人物や風景が作者のなかで明瞭に捉えられているからである。この小説集は、どれも作者の分身とおぼしい物書きの「わたし」による一人称で描かれている。しかし、読後の印象に強くのこるのは、「わたし」の捉えた「死者」たちの姿である

          鎮魂歌 田久保英夫『木霊集』

          『贋学生』は終わらない 島尾敏雄『贋学生』

           柄谷行人に島尾敏雄と庄野潤三を論じた「夢の世界」という評論があり、ここでは島尾文学にかんしてパラドキシカルな指摘がなされている。柄谷は、「夢の世界」を主題とした一連の島尾作品は、逆に「夢の世界」から遠ざかっているという。たとえば、私たちが普段する「〜という夢をみた」という会話は、すでに実際の夢とはかけ離れている。この夢は、目覚めた後にいわば再構成したもの、つまりは物語化したものにほかならないからである。「夢の世界」とは、非現実的な世界ではない。むしろ、圧倒的な「現実性」をも

          『贋学生』は終わらない 島尾敏雄『贋学生』

          ウェイン・クラマー監督『スティーラーズ』の馬鹿馬鹿しさについて

           ウェイン・クラマー監督の「スティーラーズ」(2013)は、あまりに荒唐無稽な映画で、その馬鹿馬鹿しさを存分に楽しんだ。  この映画は、合衆国の田舎町にある質屋を訪れた三人ーー麻薬密造人からの強盗を企てる麻薬中毒者、新妻とハネムーンにやって来た男、プレスリーの物真似芸人ーーのそれぞれのその後を描いた3本のオムニバス映画で、三人の行動が徐々につながってゆく、タランティーノ の「パルプ・フィクション」のような映画だ。だが、それと比べると明らかに見劣りするのは間違いない。だから、概

          ウェイン・クラマー監督『スティーラーズ』の馬鹿馬鹿しさについて

          「醉いどれ天使」(1948)と「用心棒」(1961)と「ギャング対Gメン」(1962)についてのメモ

            昨日(7月5日)は、国立映画アーカイブに三本の映画を観に行った。三本とは、黒澤明の「醉いどれ天使」(1948)と「用心棒」(1961)、深作欣二の「ギャング対Gメン」(1962)である。  「醉いどれ天使」は黒澤映画特有のヒューマニズムにあふれた作品である。名作であるのは間違いないだろう。けれども、三島由紀夫の黒澤評「思想は昔の中学生並み」というのを思い出さざるを得なかった。  「用心棒」は完全なるエンターテイメントである。意外にもギャグが多い映画で、笑いに包まれた環境で

          「醉いどれ天使」(1948)と「用心棒」(1961)と「ギャング対Gメン」(1962)についてのメモ