見出し画像

ビール瓶を掴んだ未来と掴まなかった未来

ガード下にある居酒屋のカウンターで、私は彼を待っていた。陽が沈む前から店内はサラリーマンでにぎわい、騒がしかった。遠い雑踏を割って近づいて来る彼の姿を認め、数十年ぶりの再会にもかかわらずあの時の少年Aだとわかった。彼は私の隣に座り、挨拶もそこそこに私と同じ飲み物を注文した。

あの時、帰宅した父は食卓に座り、「ビールを出せ」と私に命じた。冷蔵庫からキリンラガーを一本抜き取り、父の右側の卓上にドンと音を立てて置いた。右に立つ私をにらみ、父は烈火のごとく怒った。「なんだその態度は!栓を抜いてグラスに注げ!」。

あの時、私も強い怒りに駆られた。ビール瓶のネックを右手で掴み、思いっきり父の頭に叩き込んでやるという刹那的な衝動が沸き上がった。やれ!やっちまえ!

しかし、栓を抜いてグラスに注いだのが私であり、瓶を掴んで振り下ろしたのが少年Aだった。

人生の分かれ道は無数にあったはずなのに、なぜかあの時のビール瓶が思い出される。本当に父の頭部に叩き込んでいたら、どんな未来が待っていたのだろう。鑑別所に送られ、少年院に送られる。そこを出ても帰るところはなく、どこかの現場に潜り込んで働きはじめる。噂や差別に苦しみ、怒りを抱え、生き抜く道を探して這いずり回る。

それでもあの時、ビール瓶を掴んだ方が良かったのではないかという思いがその後の人生で幾度となく去来した。すべてを終わらせ、すべてを変えるために。

私の話を静かに聞く少年Aは、当然のことながら中年Aになっていた。彼は言った。見ろよ。俺たちは今、同じものを飲んでいる。注文する肴も同じだ。数十年後の俺たちは、何も変わらないじゃないか。YesとNoで答えて矢印が分かれていくチャートがあるだろ?どんどん分かれて別方向にいくと思いきや、最終的には同じ答えに辿り着いている。

俺たちは東名高速と新東名高速みたいなものだ。違う景色を見ながら同じ方向に走っていて、気がつけば合流している。あの時、ビール瓶を掴まなかったお前にもちゃんとした理由があったんだよ。自分が子どもだったからと馬鹿にしちゃいけない。いくつかの選択肢から瞬時に選び取って、俺は掴み、お前は掴まなかった。

歩んだ道は違うけれど、俺とお前は同じだよ。起こったことは現象であって、奥底にある岩みたいなものは動かない。だから、数十年経ってこうして会っても俺たちは変わらない。

今度みんなで集まろう。そう少年Aは言った。みんなって誰だよ。私が問うと、少年BからZだよ、と彼は笑った。勘定を済ませ、店を出て、私たちは別れた。現れたときの雑踏に、彼は飲み込まれて消えた。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?