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吹き溜まる真紅のドレス

私は社会の蠢きを身をもって知りたかった。だから、友人が時給の良いアルバイトに就くのを尻目に小さな居酒屋に入った。

古い演歌が流れている。いらっしゃいませ!生一丁!ありがとうございました!こんなに大声を出せる自分が不思議だった。常連のサラリーマンが帰り際にささやく。あなたのように一生懸命働く人が大好きだ。

そこは雑居ビルの地下で、ヤクザも含めていろいろな客が来た。従業員はいつも足りなくて、いろいろな人が出入りした。人情の街にいて私はまかないで日々の栄養を補給していた。

アルバイトで50代後半とおぼしき女性が入った。飲食の仕事は初めてだと言う。彼女は洗い場に入ってすぐ、凄まじい忙しさにふらつきはじめた。私の仕事はホールなのだが、彼女を丸椅子に座らせて言った。少し休んでください。私は溜まりに溜まった皿やグラスを一気に洗った。

彼女は店に入る前に離婚していた。ふたりには子供がいなかった。あなたのような子どもがいたら離婚しなかった。彼女はそうポツンと言った。生活が急に変わり、不慣れな飲食に飛び込まざるを得なかった。

店の従業員はみんな思いやりのある人たちだった。ひたすら皿を洗う仕事だったものの、最初は硬い表情だった彼女も少しずつ慣れてきたようだった。

滅多にないことに店の忘年会が催された。休店にしたのか、休みの日に開いたのか。どこかのちゃんとした店を予約して従業員が集まってくる。彼女が来たとき、はっとした。これまでの装いとは全く異なっていたからだ。

彼女は真紅のドレスを纏っていた。この日のためにあつらえたものだろう。肩のパッドがしっかりしている。美容院で髪をセットし、メイクもいつもと違う。誰が見ても、ビル地下で皿洗いをしている人には見えない。あまりの変貌ぶりに私はこう思った。

彼女は人生を変えようとしている。
彼女は自分自身を鼓舞している。

忘年会は、意外にも一企業の例会で社長が述べるようなママによる硬いスピーチで始まった。経営方針、従業員の心得、目標。今ならわかるが、経営者には経営者の苦労と苦悩が山ほどあったのだ。そのあとは和気あいあいと、10代から60代の男女が楽しく語らうのだった。

真紅の彼女は、その後ほどなくしてすうっと辞めた。消耗のあまり洗い場で座り込んだ姿、真紅のドレスで現れた姿。

彼女は何を思っていたんだろう。
どんな人生を歩んできたんだろう。
今、どこで何をしているんだろう。

水商売は吹き溜まり。人が来ては人が去る。いっときの温もりを求めて。生きるために流れ着いて。

思い至るのである。
若き私も哀しい青年だったと。

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