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猫の生まれ落ちた坩堝

部屋でくつろいでいるとインターホンが鳴った。顔なじみの女の子がふたり、玄関先に立っている。「お兄さん、助けてください」と言う。「どうしたの?」と訊くと、数軒先の家へと連れていかれた。

平屋建ての市営住宅が10軒ほど立ち並ぶ一角で、私もその一棟に暮らしていた。家の外壁から猫の鳴き声がするという。耳を澄ますと、確かに微かな鳴き声が聞こえた。外壁と内壁のあいだに挟まれている。

家の住人は留守だったので中には入れない。一計を案じ、知り合いの大工に電話を掛けた。仕事で外出しているため、戻りは夕方になるという。私と女の子は数時間、おしゃべりしながら待つことにした。

家主が帰ってきた。そんなところに猫が挟まっているとは気づかなかったと驚いている。日が暮れて、大工の夫婦が到着した。外壁の杉板が濡れている。大工は指で撫で、匂いを嗅いだ。間違いない。猫だ。迷わず彼は電動工具を取り出し、杉板を切りはじめた。10cm角を剥がすと詰まっている断熱材を破って手を突っ込む。取り出すと生まれたばかりの黒い子猫が掌に乗っていた。

家のなかでは、母子がお風呂に入っていた。1、2、3・・・と幼児が数を数える声がくぐもり、外にまで響いていた。私たちは子猫とともに家に上がり、タオルに包んで健康状態を確認した。隣家から風呂上がりで素っ裸の男の子が飛び込んできた。大人から子どもまで入り乱れ、もみくちゃである。子猫は衰弱している。そして、私が引き取るしかないと皆が言う。なぜ?

まだ目も開いていない、掌に収まる小さな命を自宅に運び、東京の友だちにLINEした。彼女は子猫を拾って育てた経験があり、助言を求めたのだ。ミルクの種類を指定された。私は子猫を助手席に載せて車に飛び乗り、夜道を駆けた。ドラッグストアでそれらしきミルクとスポイトのようなもの、尿を吸い取るシートを買い求め、急いで戻った。

猫を飼ったことなど一度もない。段ボール箱の中で弱りきった子猫にミルクを与えようとするが、飲もうとしない。友だちの助言にもとづいて、脱脂綿に含ませて吸わせようとする。吸わない。夜を徹して看病したが、力尽き、掌の中で動かなくなった。私は自責の念と悲しみに暮れた。

子猫が見つかった家の隣は、居間のカーテンが膨らんだまま開くことはなかった。不妊と去勢の手術をしていない猫の多頭飼育でとんでもないことになっていて、そこから猫が逸出しているとの噂があった。夫は仕事のため遠くに暮らし、妻は別の男とできていた。その隣には一切家を出られない若い女性が一日中大声で叫んでいて、母はパート先のきゅうり農家とできていた。その向かいの家では夫の浮気がばれて妻が泣き叫んでいた。夫が眠っている間にスマホの指紋認証を解除したのだった。

濃密なアジア的カオスが横溢していた。

壁の中から子猫が見つかったということは、屋根裏で生まれたはずである。日を置かずして、床下から猫の鳴き声がすると連絡が入った。連絡というよりも、救助要請である。裏の家に脚立を借りに行くと、主人も手伝うという。まずは天井を外して屋根裏にのぼる。尿の匂いと綿のように散乱する断熱材。ここで産んだのは間違いないが、親も子もいない。

鳴き声は納戸の下あたりから聞こえた。床板を外し、私は上半身を逆さづりにして暗闇をまさぐり、黒と灰の2匹の子猫を引き上げた。そしてまた、今後の養育を私に任された。なぜ?

前の子猫よりも少し大きかった。私は向かいの家に協力を求めた。年配の女性のひとり暮らしで、市には内緒で猫を飼っていた。しばらく2匹を育てて欲しい。女性は何の抵抗もなく引き受けてくれた。

私はSNSで引き取り手を募集し、ご近所もまわりの人たちに声をかけた。そして、移住して間もない女性が手を挙げた。数か月前から空き家をDIYで改修して住み着き、私とも友人になっていた。若い女性のひとり暮らしで、家主が理由を見つけては上がり込んでくる。私は危険を感じ、この地域の男たち特有の感覚、習性、手管てくだについて口酸っぱく説いていた。

彼女と子猫2匹の生活が始まった。驚くほど元気になって、救出した私を憶えているのだろうか、訪ねると鋭い爪を立てて足元からよじ登ってくるのだった。

数か月後、彼女から電話があった。泣いている。2匹が同時に震えはじめ、動物病院に駆け込んだが同時に死んだという。近親交配で生れ落ち、屋根裏から床下まで落ち、母乳を飲めずに必要な栄養が摂れなかったからだという意見が相次いだ。

やがて、彼女は地域を去った。
しばらくして、私も去った。


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