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フォード vs フェラーリ

えー、ジェームズ・マンゴールド監督を僕が認識したのはX-MENシリーズのウルヴァリンを主人公にした『LOGAN / ローガン』だったんですけど、フィルモグラフィー調べてみたら『十七歳のカルテ』もマンゴールド監督なんですね。心に闇を抱えたウィノナ・ライダーとこちらも精神不安定なアンジェリーナ・ジョリーの精神病棟での心の交流を描いた闇落ち青春映画なんですけど、淡々とした中に突然現実を突きつけて来る様なドラマチックさがあって忘れ難い映画だったんですね。で、更にマンゴールド監督、学生の時には(『カッコーの巣の上で』や『アマデウス』の)ミロス・フォアマン監督に師事していたらしく、ああ、そうか、なるほど、それで『十七歳のカルテ』や『LOGAN / ローガン』のあの感じなのかと、(今回の作品も含めて)なんか腑に落ちる感じがあったんですよね。全然違うジャンルの映画ばかり撮ってるから職人的監督かと思ったらバリバリ作家性ある人だったんだなというわけで、そのジェームズ・マンゴールド監督が撮った、えー、車映画でもあり、お仕事映画でもあり、バディ物の青春映画でもある『フォード vs フェラーリ』の感想です。

ということで、僕はモータースポーツや車そのものにはあまり興味はなくてですね(一応、90年代、F1が流行ってた頃には毎週土曜か日曜の深夜にテレビでやってたのでそれは見てました。セナとか後に後藤久美子さんと結婚したジャン・アレジとかあの頃ですね。)。なので、今回の映画も単純に評判が良いからとりあえず観とこうくらいの感じだったんです。けど、映画冒頭、クリスチャン・ベール演じるケン・マイルズが他に誰もいないコースをレースカーで走っている少し抽象的なシーンがあって、映画始まったばかりでこれが誰なのかも分かってない状態で、レースのシーンでもないのに猛スピードで走る車が映ってるんです。コックピットの中は意外にも静かで、現実というよりは何かの比喩的表現にも見える様なシーンなんですけど、そこに突然車のエンジン音が鳴るんです。その音がとてもリアル(現実的)で。車体の軋みや風を巻き込んでいる様な複雑さをも孕んでいて、映画の中のその場所に連れて行かれた様な感覚になったんです。普通に見たら現実を淡々と描写しているだけのシーンなんですけど、映像や音は臨場感を超えて観念的だし、そこに被さる車の状態を説明するセリフはまるで詩の様だったんです。

で、もちろん観念的なだけならこの後2時間半も観られないわけなんですけど。ただ(実在してる自動車メーカーの社名を2社もタイトルに使ってるので当然と言えば当然。)、これ実話なんですよね。じつは、映画観終わった時に一番ハッとしたのはここだったんです。僕、映画観てる間完全に忘れていたんですよね、これが実話だったってこと(で、同時に、そうか、これがマンゴールド監督のやり方だったって思ったんですけど。)。つまり、あれなんですよね、『LOGAN/ローガン』の逆パターン。あっちはアメコミの原作を古き良きアメリカ映画的に撮ることでコミックの世界を現実的に見せるということをやってたんですけど、今回のは、実話を劇映画的な手法で撮ることで、まるで作られた物語かの様に見せているんです。んーと、要するに実際にあったことを映画的文法の中に嵌めていってるというか。つまり、観てる感覚として、描かれていることが歴史的にどうかよりも、ここに出て来る登場人物たちがこの先どうなってしまうのか、この物語はどこに着地するのかっていうことの方に興味が行くんです。中でもドライバーでエンジニアのケン・マイルズ(クリスチャン・ベール)と元ドライバーでカーデザイナーのキャロル・シェルビー(マット・デイモン)、この2人の人生におけるこの瞬間を共有出来ることにめちゃくちゃ多幸感かあるんですよね(で、これはマンゴールド監督の直接描かないけど空気として含ませるみたいな演出がそうさせてるんじゃないかと思ったんです。)。

えーと、歴史的に見れば、それまで大衆車を作ってきたフォードがカーレース界に参戦して、王者として君臨していたフェラーリを降すと。で、その裏にはフォードから雇われたキャロル・シェルビーとケン・マイルズっていう2人の天才がいたって話なんですけど、面白いのは、この映画の中での敵役ってフォードなんですよね。『フォード vs フェラーリ』で、主役の2人はフォードに雇われてるわけだから、絶対王者フェラーリを敵として、それにどうやって勝つかっていう方が分かりやすいですよね。でも、この映画のメインは「フォード vs シェルビー&マイルズ」なんです。つまり、それまで大衆車しか作って来なかったフォードにはレースカーを作る技術がないので、元レーサーである2人をスカウトして来たんですね。ただ、この2人が車に関してはアーティストであり職人だったという…。なんて言いますか、企業となんかやるには一番厄介な人種だった(アウトローであり、しかも2人共レーサーとしては一回挫折していて、歳も40超えてるんですよ。そこがいいんですけどね。また。)ってわけなんです。だから、表向きにはレース映画なんですけど、実際はアーティストとスポンサーのアレコレを描く業界裏側映画なんです(なんですけど、レースシーンの迫力がもの凄いのでもちろんレース映画としても成立してるんです。レースシーン、ノーCGらしいです。)。

で、それがなぜフィクションの様に見えるのかというと、とにかく出て来るキャラクターがみんな良くて。主役の2人はもちろん、ケンを支えながらちゃんと自分の意見も言う奥さんのモリー、レーサーとしての父親を尊敬しながらレースの恐ろしさも知って行くことになる息子のピーター、フォード側の人間も、二世社長のヘンリーを始め、シェルビーをスカウトに来る、会社の中でもシェルビーたち側に立つリーや、会社の利益と自分の地位にしか興味がなくシェルビーたちを目の敵にする副社長のレオ(この人が完璧な悪役を担ってくれるのでよりフィクションぽさが増すんですよね。)などなど。アウトロー(でマイナー)の2人が急に与えられた大メジャーの舞台でどうサバイブしていくかっていうのが、迫力のレースシーンや繊細な人物描写、更には冒頭に書いた様なレーサーの極限の心理を観念的に表した様なシーンと共に描かれるんです。映画として面白い要素が揃っているというか。実際、めちゃくちゃ面白かったんですけど、ただ、僕にとって一番衝撃だったのは、「ここいらないんじゃないかな。」って感じたラストのシーケンスだったんです。

(じつは最初に書いたシーンがラストのシーケンスに出て来るシーンなんですけど、)僕、このシーケンスが始まった時から「このシーン、いらないんじゃないかな。」と思っていたんです。(最大の見せ場のル・マンのレースが終わった後のシーンなんですけど、)とても蛇足に感じたんです。なぜかというと、その前のル・マンのシーケンスで映画としては成立してると感じていたからなんですね。しかも、この最後のシーケンスで描かれようとしてることはそれまでの映画の雰囲気に合わない気がしたんです。で、案の定、映画はそれまでの雰囲気とは全く違う空気を纏って終わっていくんです。だから、実際、映画としては描かなくてもいいシーンなんですよ。ただ、この最後のシーケンス観終わった後に「あ、これ実話だった。」と思ったんですよね。確かに、前のシーンで終わっていても映画としては成り立ってたと思うんですけど、これがあることでケン・マイルズとキャロル・シェルビーが実際に存在していた人たちだったんだってより実感したんです。つまり、この最後のシーケンスを描くことで、映画というフィクションが描いてることはほんの瞬間の輝きであって実際の人生とは違うってことを言ってるんじゃないかと思ったんです。で、(そのシーンを映画の冒頭にしてるとこも含めて)マンゴールド監督っぽいなと思ったんです。

http://www.foxmovies-jp.com/fordvsferrari/sp/

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