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【映画感想文】逆転のトライアングル

『フレンチアルプスで起きたこと』や『ザ・スクエア 思いやりの聖域』のスウェーデン出身のリューベン・オストルンド監督の最新作。『ザ・スクエア 思いやりの聖域』に続いて(つまり2作品連続で)カンヌのパルムドールを受賞した『逆転のトライアングル』の感想です。

『フレンチアルプスで起きたこと』も『ザ・スクエア 思いやりの聖域』も気にはなっていながらなぜかいまいち触手が伸びずということで、今回の『逆転のトライアングル』がオストルンド作品初鑑賞だったんですが(あ、ゲロやうんちなどの下表現がヤバイというのも知っていました。そういう、これまでのちょっとスカしたような雰囲気がなかったのも観ようと思った一因ではあります。)。で、まぁ、面白かったかと言われれば、なんか、そんな気もするんですけど、どうも違和感があるというか、疑問が残るというか。監督の過去2作品も観たんですけど、現時点で明確に言えることは、面白いのかもしれないけど、なんか、この映画嫌いだなってことです。

鑑賞中は、その、セレブをネタにしたブラックユーモアに笑えてはいたんですけど、観てるうちに段々、ん?これ、ほんとに面白いか?面白いでしょって雰囲気に笑わされてないか?って気になってきちゃったんですよね。なんというか、そういう圧を感じたんです。主なストーリーは新旧セレブが集う豪華客船が嵐にあい、船酔いしたセレブたちのゲロとトイレから逆流した汚物まみれの阿鼻叫喚になり、その後いろいろあって沈没。無人島に辿り着いたら、何も出来ないセレブを後目にサバイバル能力の高いトイレ掃除のおばちゃんが権威を握るって話で、この概要を聞いたときは、おお、さぞかしスカッとする逆転劇なんだろうなと思っていたんです。で、その通りに物語は進むんですけど、全然スカッとしないんですよ。まぁ、トイレ掃除のおばちゃんが権力握ってめでたしめでたしだったら、それはそれでそうとうなおとぎ話だろうっていうのは分かるんです。僕もそんな分かりやすく庶民に媚びた話にしてくれって言ってるんじゃないんですよ。違和感があったのは、これ、何目線で誰が語っている話なの?っていうとこなんです。

要するに監督がどの立場でこれを語っているのかっていうのが分からなかったんですよね。同じ様に現代社会を全方位的に皮肉った映画を撮るアダム・マッケイという人がいますが、この人の場合はアダム・マッケイがアダム・マッケイとして語ってるなって感じがするんですね(いやー、僕らヤバイ世界に住んでますよねっていう。だから、もう笑っちゃいましょうっていう感じが。)。なんですけど、リューベン監督の場合は監督自身が見えてこないというか、言っちゃえば神目線で世界を見てる感じがするんです。人間というのは愚かなものよ。でも、関係ないからほっとくよ的な。だって、セレブをゲロまみれにしたところで世の中は変わらないじゃないですか(まぁ、この映画でも世の中は変わらないっていうのがオチにはなってるんですけどね。)。だとしたら、あのゲロシーンは一体…?愚かな人間に対する単なる意地悪?って感じちゃったんですよね。

なので、そうなってくると、ウディ・ハレルソンの演ってる豪華客船の船長とロシアの肥料富豪のマルクス主義と資本主義の延々と続く言い合いも、トイレ掃除係のおばちゃんがモデルの男を買うのも、序盤の奢り奢られの議論なんかも「だから何?」って気がしてきちゃって。なんか世の中の見方が根本的にウザいというか、自分とは関係ないところでことが進んでるというか、この映画自体が金持ち中心に回ってる世界そのものなんじゃないかっていう。なんか、これってセレブあるあるを先鋭的なセレブが「あるよね~。」って言って喜んでるだけなんじゃないのかって。カンヌで2作連続パルムドールも、そりゃカンヌ審査員の(自分たちを)先鋭的(だと思いたい)セレブリティたちは好きでしょうよって。だとしたら(実際はそうじゃないのかもしれないけど)嫌なコミュニティだなって(関係ないカンヌ映画祭まで嫌いになってきちゃって。)。いやー、なんか、とにかく合わなかったんですよね。監督の世界の見方が(まぁ、あと、出て来るやつらが全員もれなく嫌なやつっていうのもありますね。多分に。)。


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