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シェイプ・オブ・ウォーター

映画館に行く途中の電車の中でアカデミー作品賞を獲ったことを知り、(ちなみに、個人的には「スリー・ビルボード」の方が映画として革新的で衝撃だったので作品賞は「スリー・ビルボード」かなと思っていたのですが、こっちにあげたくなる気持ちは分かります。可愛くて可哀想な話なんですよね。)そのまま映画館へ行ったので、受賞直後に受賞作品を観るというとても贅沢な事しました。というわけで、第90回アカデミー作品賞&監督賞に輝いたギレルモ・デル・トロ監督の「シェイプ・オブ・ウォーター」です。

個人的にデル・トロ作品というと「ヘル・ボーイ」、「パンズ・ラビリンス」、「パシフィック・リム」の3本を観ているんですが、(たぶん「ミミック」も観てるんですけど全く内容を覚えていないのでカウントしないことにしますね。)正直、自分とは合わないなと感じていたんです。(なぜなら、全部、途中で寝てるんですよね。)恐らくなんですが、世界観の作り込みが凄過ぎて、その作られた世界を自分とは関係ないものとして観てしまって、だんだん興味を失っていくといいますか。まぁ、とにかく途中で寝ちゃうんですよ。だから、今回の「シェイプ・オブ・ウォーター」も思いっきりファンタジーだって言うし、予告なんかもとてもロマンチックな感じで作られていたので、これは今回も寝てしまうかもなと思っていたんです。が、思いの外眠くならなかったですし、めちゃくちゃ興味を持ったまま最後まで観れたので、そういう意味ではとても面白かったですし、良い映画だと思うんです。ただですね、良い映画ではあるんですけど、良い話ではないと思うんですね。そこの、まぁ、なんというか、野蛮で、乱暴で、不完全なところが、僕は、えーと、この映画好きかもって思ったところなんです。(で、正にそういうところが、この映画の言わんとしているところなのではないのかなというお話をしていきます。)

口を利けないイライザという女性がいて、この人が主人公なんですけど、まずはこのイライザの日々の生活を描くところから物語は始まるんですね。(あ、その前にオープニングとして、ナレーションベースの物語のフリみたいな映像があるんですけど、そこがまず素晴らしかったですね。青緑色に淀んだ水の中にイライザの部屋が沈んでいるんです。その水が抜けて行き、浮力で浮いていた家具が床に落ちる。と目を覚ますイライザっていうシーケンスなんですが。ここでイライザの夢見がちな性格や、日常を退屈だと感じていることなんかが表現されていて。しかも、水が澄み切った透明じゃないところに見てる夢の不穏さみたいなのも表されていて。非常に美しいオープニングでありながらいろいろ示唆されている感じもあって、僕、ここで結構掴まれたんです。)で、このイライザは政府運営の研究施設に夜勤の清掃員として働いているんですが、毎日を同じ様なサイクルで生活しているんですね。目覚ましで起きてお風呂に入って、そこで自慰行為をして出勤みたいな。この日々の生活の中に自慰行為が入っているのは、イライザの生活の中にそういう性的な存在が当たり前にあるっていうことなんですけど、(監督はインタビューの中で、「中年の独り身の女性だったら当然あること」って言ってますね。)そういうとこも含めてのおとぎ話ですよっていう宣言と言いますか。こういうバランスの映画なんだって、最初の、いかにもファンタジックなオープニングからのこの現実的な導入部っていう差でびっくりするんですけど、(ただ、おとぎ話としての空気といいますか、そういうピュアさみたいなのはずっとあって。まぁ、だから、あくまで現実世界ありきの純粋さと言いますか。そういうのもこの映画が言いたいことではあると思うんです。)その夢見がちではあるけど、きちんと現実を生きているイライザっていう女性の前に、研究材料として半漁人が連れて来られるんですが、その異世界の生物とイライザが心を通わせて行くっていうのが…だから、超絶簡単に説明すれば「E.T.」とおんなじ話なんですよ。

なので、僕は割とあの頃のスピルバーグを感じたんですよね。光と影の使い方とか、絵のソフトな感じとか、(あと、そういうのに反して意外とキャラクターがアウトサイダーっていうのもですね。)アメリカとソ連の冷戦時代が舞台っていうのも、なんか、あの頃のスピルバーグ感ありますよね。で、そういう舞台立ての上で行われる異形の恋愛ストーリーなわけですよ。(しかも大人のね。性の部分もちゃんと描かれるっていう。)ね、なんか良い話っていうには相応しくない感じしますよね。僕はこの相応しくなさにこの映画の本質があると思っていて。あの、SNSでこの映画の感想を検索して見てたんですけど、そしたら、その中に『同じ回を見たであろう若い女性が、映画終わった後のトイレで「気持ち悪くて、魚人と恋するのなんか無理。」って話してたのにショックを受けた。』と書いてる人がいて。更に、その人へのリプで、『その若い女性は一体何を見に来たのか。あんなに美しいものに対して気持ち悪いなんて。』って怒っている人がいたんですが。いやいやいや、それはそれでおかしいでしょ。だって、これって明らかに普通じゃない恋愛を描いていて、これが正しいって話じゃないじゃないですか。はっきり偏愛の話で、世間一般から見たら(言ってしまえば)特殊とされる性癖を持った人の話なんですよ。でも、普通じゃなくてもいいじゃないかって話で。これが美しい愛の形なんだって話じゃないんですよ。(つまり、「シェイプ・オブ・ウォーター」=「水みたいにはっきりしない形」の話をしていて。)普通は理解されない様なものに理屈じゃなく心惹かれてしまうってことがあるんだって話なんです。(だから、オタクの偏愛の話ということになるわけです。)でね、なんですけど、それを単に一部の特殊な人って決めつけないで、俯瞰で見たらみんな特殊でそれ故にみんな孤独じゃんて話にしてるところが、この映画の凄いところだと思うんです。で、それを体現する為に出て来るのが圧倒的な悪役のストリックランドって人なんですね。(「スリー・ビルボード」も「デトロイト」もそうでしたが、最近の名作はみんな悪役が魅力的ですよね。ストリックランドが自分の指引きちぎるとこなんてホント狂気でした。)

ストリックランドは、この時代(1962年が舞台なので、米ソの宇宙開発合戦の頃を差別っていう切り口で描いた「ドリーム」と同じ年ですね。で、その「ドリーム」で主人公の上司を演じてたオクタビア・スペンサーが、今回、イライザの同僚のゼルダ役で出てます。)の成功者として出て来るんですが、パワハラはするわ、セクハラはするわ、トイレの後には手は洗わないってよく分からないウンチクは披露するわでほんとに嫌なやつなんですけど、この人をただの悪役としては描いてないんですよね。つまり、普通であること、全うであることに拘ることでしか生きて来られなかった(これもまた孤独な)人として描かれているんです。で、そうすることによって、どちらが正しいとか間違っているではなく、ただ、見識の違いとして存在していて、それは別にいいんだけど、ストリックランドという人は、その自分が信じてる以外のことを考えとして認めないというのがいけないってバランスになっているんです。(だからこそ、さっきの「本当に美しいのは魚人の方なんだ。」、「そう思わないヤツは間違っている。」という観方は、ある意味この映画が言ってることと完全に逆行っちゃってるんですよね。)で、そういう、それぞれの立場でそれぞれの孤独を抱えている人達が、その中でついに情熱を持って向き合える物に出会ったイライザを認めてあげるって話なんです。自分らしく生きることを選んだ人をただ認めるってだけなのがこの映画の良さなんですけど、そうすることによって、辛い思いをする人も出てくるわけなんですよね。(イライザの友人のジャイルズとかね。ジャイルズ、マジ悲しいんですよ。この人に僕は一番感情移入したかもしれません。)だから、そこも含めて(因果というか、そういうのが)ちゃんと描かれているのも良かったです。

という風に割と全方位に気を使ってというか、ちゃんとバランス取って作られているんですけど。これがですね、魚人とイライザの恋愛に関してはかなーりファンタジーなんですよね。というか、わざとなのかな。あの、一番の疑問はイライザは魚人に名前をつけないんですね。(イライザが口を利けないということもありますが、)普通恋したら、個として、その他大勢と切り離して考えたいから名前を呼びたくなると思うんですね。だから多分、映画の中でイライザが魚人に名前をつけて、その名前で(心の中ででも)呼ぶシーンがあったら、それだけでこのふたりは恋に落ちたんだって納得出来たと思うんです。でも、この映画にはそういうシーンがひとつもないんです。だから、魚人とイライザの関係って恋人というよりは飼い主とペットみたいな関係に近いと思うんです。これは一体何なんだろうって思ってたんですけど、これ、やっぱり恋愛の話じゃないんじゃないかと思ったんですよね。あの、劇中に魚人がジャイルズの飼い猫を食べちゃうシーンがあるんですが、(まぁ、現実世界では猫が魚を食べるのでお互い様だなとは思いましたけど。)こういうのを始めとして、わざと、こんなヤツだぞ、こんなに理解出来ないヤツだぞってやってる気がするんですよね。これって要するに、デル・トロ監督が幼少期に周りから言われてたことなんじゃないかと思うんです。「怪物とか宇宙人とか何がいいの?理解出来ない」って。つまり、魚人に名前をつけないのってイライザの中で、まだこれは何だと決められないモノだからなんじゃないでしょうか。他人にとっては何の価値もないもので、そのモノに対する世間的な評価(つまり、これはこういうモノですっていう名称)がついていないからで。でも、何かは分からなくても衝動的に惹かれてしまうと。そうやって追い詰められて追い詰められて、自分はおかしいんじゃないかってところまでいって、最後、「それでも好きだー!」って言って海に飛び込む話なんじゃないかと思うんです。そうか、てことは、やっぱり広義では愛の話なのか。(誰も理解してくれなくても、それでも愛しているという愛ですね。あと、さっきの「魚人は美しい」っていう人に違和感を感じたのは、この映画の中で魚人は何にもないカラッポの存在としてしか描かれてなかったからですね。それを美しいとするかはイライザ次第で。でも、当のイライザは、まだそれが何なのか分かってなかったってことですもんね。)

だから、つまり、もうひとつ疑問だったこと。分かってくれる友人も親しい同僚もいて、近くに愛してくれる人が沢山いたのにイライザが孤独だったのはなぜなんだろうと思っていたんですが、対象物に対して一方的な愛を注ぐしかない人だったからなんでしょうね。(そう考えると冒頭の海の中で眠るイライザがとても悲しく儚く見えてきます。)

http://www.foxmovies-jp.com/shapeofwater/sp/

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