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【映画感想】犬王

『マインド・ゲーム』、『ピンポン』、『DEVILMAN crybaby』、『映像研には手を出すな!』などなど革新的なアニメ作家の湯浅政明監督がパンクな小説家古川日出男さんの『平家物語 犬王の巻』を原作にアニメ映画化した『犬王』の感想です。

これ、原作小説のタイトル通り『平家物語』のスピンオフなんですよね。スピンオフというか、正史としては語られなかった物語。つまり、はぐれもの(アウトロー)の話で、それを時代に反抗する形で出て来たロックミュージックの台頭になぞらえている、いわゆるカウンターカルチャーの話なんです(個人的にこういうアウトローがカウンターする話は大好物なのでその時点で小上がりしましたが。)。映画のテーマはほんとにそれだけで、ストーリー自体も、琵琶法師の友魚が異形の天才パフォーマー犬王と出会い、平家の語られずに打ち捨てられていった者たちの物語を歌にして民衆に伝えていくという話(つまり、『ボヘミアン・ラプソディー』とか『ザ・コミットメンツ』みたいなバンド成り上がり物語)なんですが、その友魚と犬王自体の物語も平家の正史としては闇に葬り去られるっていう。つまり、政治に反抗する新たなカルチャーが国によって統制されるっていう今の時代にもまだまだ全然ありえる話なんです(最近だと中国の通信規制とか、日本でも自民党の改憲案の中にそういうことを匂わせる一文がありますよね。気をつけましょう。)。

主人公の犬王はほとんど人間の形を成さないで生れてきてしまった異形の存在なんですね(声を女王蜂というバンドのアヴちゃんがやっていますがこれがほんとに素晴らしかったです。ほとんど実態を得ないキャラクターを人間味溢れる、でも、どこか理解出来ない恐ろしさのある存在に仕上げてました。)。で、その異形のキャラクターが猿楽(この映画の中ではロックミュージックとして描かれる音楽)を演奏することになるんですけど、この、アンダーグラウンドな所から出て来て、民衆の心を掴む新たなカルチャーのアイコンになるのが異形の者っていうのがですね。まずはこれが、もう、ほんとにむちゃくちゃ良かったんですよね。だって、皆さんお忘れかもしれませんが、ロックとかパンクとか、いや、その前からあるあらゆるカウンターカルチャーって世間から見たら異形なんですよ。おかしな動きしておかしなこと言ってるんですよ。本来。でも、「あれ、これってほんとにおかしいことなのか?」ってとこに人々が気づくのがカルチャーというか、芸術の本懐なわけじゃないですか(で、この物語では、本来そうだった芸術そのものが権威を持ってしまった場合と、カウンターカルチャー自体がそこに取り込まれて行く様も描かれますよね。その辺りもシニカルでリアルな話だなと思いました。)。で、この物語はそれを、ちょうど50年代にそれまでの教会音楽やクラシックをぶち壊してロックンロールが現れた時の様に、70年代に複雑化して権威化したロックそのものをぶち壊す為にパンクが登場した時の様に描いているんです。僕は50Sのロックンロールと初期パンクが好きなんですが、これ、たぶん、こういうことだったんだなとこの映画を観て気づきました。やはり、僕にとっての音楽というのはそれまでの常識をぶち壊しここじゃないどこかへ連れてってくれる自由の象徴だったんです(しかし、その自由の象徴のその後までが描かれるのが、この物語が今作られるべきところなんだと思います。)。

で、そういうものを描くのがほとんど虚構で構成されるアニメ(というカルチャー)で表現されているというのも面白くて。犬王の異形さが呪いによるもの(この呪いの発端も非常に芸術的アイロニーに溢れたエピソードなんですが。)だとか、その身体がパフォーマンスをするごとに変化して行くのとか、友魚の盲目ゆえの音に対する反応だとか、現代のフェスのように描かれるステージのシーンだとか(このステージのシーンは、恐らく室町時代の当時でも天才的なアイデアと行動力を持つ人々が集まれば出来たんじゃないかというロマンに溢れていて、こういう単にお金を掛けただけの演出じゃないところにアンダーグラウンド・スピリットが表れてて良かったです。そして、芸術を支える裏方の存在を感じさせてくれるのも。)に説得力を生んでると思うんですけど、それが映画の半分くらいを占めるライブシーンのプリミティブな動きの面白さに集約されて行くというか、音楽(というか芸術全般)そのものが持つプリミティブな魅力と交じり合ってるように感じて、犬王の身体がずっとウネウネと動いて変化し続けていることも生きることそのものが表現になっているという風にも見えてきて。それって正しく湯浅アニメーション表現そのものというか、そういう風に"見える"とか"感じる"ということが凄く重要な映画でした。音と絵とそれを繋ぐ動きの芸術と言いますか。

天才(天然)の犬王に対してど底辺のところから成りあがって行く友魚(声は森山未來さんなんですが、こちらも繊細でその中に強さもあり素晴らしかったです。湯浅監督のアニメ、いわゆるプロの声優さん以外を使うことが多いんですが人選が素晴らしいですよね。『マインド・ゲーム』の時の今田耕司さんとか『映像研には手を出すな!』の伊藤沙莉さんとか。)の反骨精神(ロックバンドの反骨精神を支えてるのはいわゆる天才パフォーマーではなく友魚みたいなメンバーだっていうところもリアルでしたね。僕がジョン・ライドンを好きだと言っている理由のひとつに、パフォーマーでありながらこの手の反骨精神を持っている。つまり天才ではないところなので。)が醸成して行くところとか、ふたりの出会いとか、そのふたりがどうやって道を別つのかとか(つまり、バディ物としての面白さです。)、犬王と父親の確執とかドラマとしての面白みもいろいろあるんですが、まぁ、なんと言っても犬王と友魚の名がなぜ歴史から葬られたのかというところですよね(ここに至るミステリーでもありましたし。)。ちなみに犬王という人は実在した人物で歴史にその名の記述はありながらどんな人物だったのかというのは全くの謎なんです。という歴史ミステリーなんですよ。基本的には。

ということで、概ね満足というか、かなりの傑作(個人的にはめちゃくちゃ大好きです。)だと思うんですが、唯一残念というか、これはどうなんだろと思ったところは、犬王たちが奏でる楽曲がQUEENやデヴィッド・ボウイの様な70年代ロックに終始していたところなんですよね。もちろん室町時代の人がいきなりQUEENを聴いたら「なんだこれは?」と思うとは思うんですけど、映画を観ている僕らにとっては最早よく知っている音楽で、ロックとは言え権威側の音楽になっているんですよね。だったら、せっかく大友良英さんという今だアンダーグラウンド・ミュージックの世界にもいて、誰も聴かないようなジャンルの音楽にも精通している人に音楽をお願いしているわけなんですから、誰も聴いたことがない全く新しい音楽作りというのに挑戦しても良かったんじゃないかなと思うんです。大友さんならそれを異形さとキャッチーさの絶妙なバランス(異形さとキャッチーさが混在している音楽こそ犬王の音楽だと思うんです。)で表現出来たんじゃないかなと。そういう混沌の中の美しさを鳴らす犬王たちも見てみたかったなと思うんです。


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